大切なあなたへ -5ページ目

自分

僕はいったいなに人?

この歳になってもよく分からない。

1980年、昭和55年、名古屋の瑞穂病院で生まれ6歳でニュージーに移住。
いっさい英語話せなくて、現地校に飛び込んで、2ヶ月後にはペラペラだったらしい。

1年生から日本人学校にも通い始めた。当時は日本人学校が嫌いでどうして二つも学校に通わなきゃいけないのか分からなかった。今になって嫌でも行かされたことを感謝してる。

自然と世界が二つ生まれた。日本界とNZ界。
日本人の友達と遊ぶ時間、日本語で話す時間、日本のビデオを見る時間、日本の「笑い」を楽しむ時間。
2重人格っていっても過言じゃないかも。
英語を話してる時の自分と日本語を話してる時の自分がいる。英語を話してるとき出さない自分。日本人と遊んでる時に出さない自分。
時々夢がごっちゃになる。
時々外人が日本語話してる。漫才してる。

だから逆に外人の友達と日本人の友達と一緒に遊ぶことはない。僕じゃない僕を知ってる日本人。僕じゃない僕をしってる外人。疲れるから別々にしとく。

今週末はジェシーのバッチェラーパーティー。ジェシーは外人の親友。来年の1月に結婚する。ベストマンを頼まれたからバッチェラーバーティーの幹事は僕。パーティーといっても飲み会とはちょっと違う。土曜の朝ここから運転で1時間くらいの海辺で集合して、朝の8時からチャーターフィッシング。釣った魚をバーベーキューして、土曜の夜は男9人で飲み会。飲み会は海の近くで一泊だけ借りた別荘。もちろんNZ風コスチュームパーティー。朝起きたらゴルフ。
日本ではあり得ないバッチェラーパーティー。

でもこの良さは日本の世界をを知ってるからより分かるんだ。

君もきっとなに人?って思うときがくる。


答えはないけど、一つだけ言えるのは日本界とNZ界があって僕は良かったと思える。
人3倍の経験をしてる気がするよ。





母親

母親は死んでも母親。

僕、産婦人科として働いてたことがあるんだ。

その時に女の強さ、母親の強さを毎日目にしてきた。

昔からのアフリカの言い伝えで、「妊婦は半分お墓入り」っていうセリフがあるんだ。
本当にその通りなんだ。まったくな安産なんて存在しない。
でも母親は自分を犠牲にしても子供を守る。
「私はどうなってもいいので、子供を優先してください」って何回言われたことか。
それが母親の誇りで、女の強さだよ。自分より子供の幸せなんだ。

僕の母親も強い女だ。

母さんは弱音を吐かない。じゃなきゃ親父みたいな人間に付いてけない。
母さんは子供3人の面倒をみながら40歳でニュージーランドの大学に行って、卒業して、今でも一生懸命自分も大事にしてる。スキューバの資格取ったり、展覧会したり、インドネシアでも親父と一緒に美術教えてる。柔軟性があって、心が広くて、チャレンジ精神が豊富。

僕の母親は僕が知ってる中で一番強い人間だ。



だから母親は死んでも母親。

君の母親も一緒だよ。

大切にしなさい。




父親とは

僕の親父は明治男児だ。

でもちょっと変わったニュータイプの明治男児。
15歳中卒でナイトスクールに通いながら、働いて、19歳でシルクスクリーン会社の社長。
20代で何を思いついたのか、危篤の母親の面倒をみながら芸大に行くことを決心し、嫁の家族や、自分の周りの人間から猛反対されたが、入学に合格し、卒業してから名古屋でアートスクールを築く。
1年間家族を置きっパナにして、一人でニュージーランドを下見。気に入ったらしく、引っ越しを決心する。

そして23年前に大川家はニュージーランドに移住。

理由は。日本は子育てする場所じゃない。もっと違う世界がある。

今は母親と一緒にインドネシアに住んでいる。6年前に南太平洋ヨット旅行を二人でした時にそこで出会ったジャイカのシニアボランテイアに影響され、二人で応募することに。それ以来、ヨルダンに2年、バンコクに2年、そして今はインドネシアの小さな島の大学で美術を教えている。

親父は口数が少ない方だが酔っぱらうとよくしゃべる。最近は同じ事何回も繰り返すように。
確かに足も臭いし、怒ると恐いし、頑固で最近は忘れっぽくそそっかしいが、親父は常にチャレンジ精神が豊富だ。
なんでも恐いもの知らず。そして何より、遠くを見つめてる。

今こうやって僕がニュージーランドで医者をできてるのも、日本語話せるのも、世界に目を向けれるのも全部ひっくるめて親父の前向きの考え方のおかげ。

そんな親父を誇りに思う。 

僕は明治男児じゃない。

どっちかいったら親父とぶつかってばっかだ。ニュージーランドの男はちょっと違うから考え方がぶつかって当然なんだけどね。
でも親父の素敵なところはちゃんと見てるつもり。親父に負けない親父にならないと。。。

そんな親父を支えてきたのが僕の母。