生涯大島裕行獅子魂@レオ赤い彗星

生涯大島裕行獅子魂@レオ赤い彗星

こんにちは。謙吾です。引退しても僕の中の1番のプロ野球選手は大島裕行選手

Amebaでブログを始めよう!
大河ドラマ 青天を衝けが昨日始まりましたね。
主人公の渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市)に生まれ様々な藩から『良質な藍』と認められるほどの藍玉販売と養蚕産業を営む農家の家庭に育ち、後に実業家として江戸、明治、大正、昭和初期にわたり91歳と長生きしました。そんな渋沢栄一の主な人生を振り返っていきましょう。

渋沢栄一の人生が大きく変わった点。それは
文久3年(1863年)義理のお兄さんの尾高惇忠、渋沢喜作と共に、高崎城を乗っ取っり武器を奪いとり、横浜の外国人居留地を焼き討ちにし、長州と連携して倒幕計画をたてたのですが。従兄弟の尾高長七郎からの反対もあり倒幕派から佐幕派に変わる場面です。
当時、武市瑞山率いる尊王攘夷思想が若者の心を動かしていました。尊王攘夷というのは天皇を中心とし政権を担い敵国に乗っ取られてしまわないように外国を討ち払うという思想です。後に大政奉還の立役者となった坂本龍馬もいました。
もしここで渋沢栄一が焼き討ちをしていたらおそらく岩崎弥太郎とは同じ実業家として切磋琢磨し、トーマスグラバーや坂本龍馬とは手を組みまた違った形で後の近代日本を作っていたことでしょう。
坂本龍馬もすぐに尊王攘夷思想から代わり世界を見据え最新の知恵を取り入れ奮闘していた1人です。
何故私が坂本龍馬と深くなりそうなのかと推測するかというと坂本龍馬と北辰一刀流の千葉道場との関わりは非常に深く、千葉定吉の二女のして産まれた千葉さな子はずっと坂本龍馬に想いを馳せていた記録が残っています。勿論千葉定吉とも仲が良かったようです。同時期に渋沢栄一は千葉道場で剣術を学んでいたからです。互いの利害が様々一致するのではないかと推測しました。

若かれし頃の渋沢栄一。
同年、佐幕派へと変わった(佐幕派と位置付けてよいのだろうか?私の視点からすると倒幕派と佐幕派の中間にも思える?)渋沢栄一は江戸遊学の際に一橋慶喜(後の15代将軍 徳川慶喜)の家臣である平岡 円四郎に才能をかわれ、なんの強運の持ち主か一橋慶喜の家臣となりました。そこから先の渋沢栄一は才能を最大限に発揮していくこととなりました。最初は兵力増強のために農兵募集に尽力しました。
5年後の慶応2年(1866年)12月に一橋慶喜は15代将軍になったのと共に渋沢栄一は幕臣となりました。
慶応3年(1867年)4月1日から10月31日まで行われたパリの万国博覧会に一橋慶喜の代わりとして渡航しました。その後はヨーロッパ地域を訪問し近代化に必要な知恵を取り入れていきました。
慶応3年といえば坂本龍馬は船中八策を作り出し土佐藩主の山内容堂や後藤象二郎などに提出し大政奉還が下され坂本龍馬が暗殺された歳でもあります。日本が混乱の渦の中で世界にいた渋沢栄一はそこも強運だと思います🤣
慶応4年(1868年)5月に新政府から命じられ日本に帰国してきました。その時渋沢栄一はどのように日本が見えたのであろうか、、
渋沢栄一の偉いとこが帰国早々に静岡に隠居していた一橋慶喜にきちんと面会に行っているとこです。すぐに会うのはそう容易いことではなかっただろうに、、、
その際一橋慶喜から我が道をいけと言われたが恩義で静岡藩で出仕(勤労)したようです。
静岡でフランスで学んだ株式会社制度を取り入れ、新政府からの借金返済の為に明治2年(1869年)1月に商法会所を設立しました。
早稲田大学を設立したことで知られる大隈重信は渋沢栄一の姿をみて説得し渋沢栄一は明治2年(1869年)11月に新政府に出仕しました。つまり、政治家になったということです。民部省改正掛として全国の測量、郵便制度、廃藩置県により生活困窮した武士への生活支援、鉄道、関税、電信、紙幣制度などその他33項目もの事業に携わりました。
明治6年(1873年)5月14日までの退任の間に富岡製糸場を作り上げたりもし渋沢栄一の事業は拡大していきました。

政界引退後の明治6年(1873年)に第一国立銀行(現:みずほ銀行)の総監査役につき日本初の銀行事業をとり行いました。
株主の経営破綻の手助けもしたようです。
その他様々資金の支援も行いました。明治25年(1892年)に小口の貯蓄制度が制定されたのを気に東京貯蓄銀行(現:りそな銀行)を設立しました。
明治26年(1894年)には埼玉県に熊谷銀行(現:さいたまりそな銀行)を設立しました。私もりそな銀行を使っています。それは渋沢栄一のおかげですね。
明治32年(1899年)設立の黒須銀行(現:さいたまりそな銀行)の顧問役もしています。
後に熊谷銀行と黒須銀行は合併し現在へと引き継がれています。
そして半官半民(政府と民間が出資する形)の銀行がつくられてからは開業に向けての指導もとり行いました。
明治6年(1873年)から明治40年(1909年)にわたり500の企業に携わってきたと言われています。
こちらに企業リストが記載されています。その多くは現在の日本を支える大事な企業となっています。
そんな多くなんか見たくねーよって人は代表的な会社をまとめた下記サイトをご覧ください


明治42年(1909年)6月6日の実業界引退後は海外との外交に尽力しました。

ウィルソン大統領やハーディング大統領などと会談をおこなったようです。
そんな活躍の渋沢栄一はノーベル平和賞の候補にも上がりました。

昭和天皇に招かれ会話を交わしたりもしたみたいです。
2024年渋沢栄一は1万円札となります。
これを気に日本の実業家たちは渋沢栄一という日本経済全てにおいてオールマイティに活躍した人物を追うと何かキッカケをみつけられるかもしれません。
昭和6年(1931年)11月11日 渋沢栄一は91歳まで変化が激しい江戸、明治、大正、昭和を生き抜き一生涯を終えました。
渋沢DNAは現在も引き継がれています。
20歳の若さで活躍している渋沢莉絵留は父方の先祖が渋沢栄一です。
今年ブレイクしたら大河ドラマと共に世間の注目であるだろう。

via 謙吾の空間
Your own website,
Ameba Ownd
皆様お久しぶりです。最近はインターネット生配信を中心に活動していましたのでなかなかブログを更新しませんでした。
今年の1月25日にリスナーさんに勧めていただいたLGBTの祭典が地元川越でありましたので配信しながら遊びに行きました。そこにフェンシングサーブル日本代表杉山文野さんという方がいらっしゃいました。
LGBTとは性同一性障害のことです。必死に生きてきた証の本を買いました。
ハンディーキャップを抱えたフェンサー同士色々考えさせられました。ハンディーキャップに打ち勝つ自分を見つけれたような気がします。
お互いファントのポーズで写真撮りました。
そして3月15日にはWRESTLE-1大田区大会にて友人の土方隆司先生が歳三に舞い戻り帰ってきました。
歳三のウエストベルトで叩く姿は爽快感を感じます。
※週プロ引用

私事ではありますがインターネット生配信者が集うSparkという格闘技の興行試合に参戦します。本来新型コロナウイルスがなければ5月17日に開催されるはずでした。日程が決まり次第追ってブログに書きます。
対戦相手は土橋政春さんという方です。総合格闘技ではアウトサイダーで活躍し、プロレスではハードヒットに出て葛西純とタッグ組んで今は亡き青木篤志と対決したり、ᔆᵘᙚᑋⁱと対決したことあるようです。
現在練習頑張っています。立ち向かいます!

Sparkのステッカーは無料配布していますので欲しい方はコメントお願いします。
また数ヶ月後ブログ書きます!
久々のブログで下手な文面で失礼致しました🤣

via 謙吾の空間
Your own website,
Ameba Ownd