Keyaki -32ページ目

『未来からの日記』

『未来からの日記』


今、突然全ての電車が止まった。
バス、車、全ての交通機関、そして街のネオンや巨大ビジョンの広告までもがいっせいに停止した。
一瞬全てが静寂に包まれひっそりと静まり返ると、やがてそこら中からゆっくりと歓喜の声があがり始めた。
その喜びの喚声は次第に次第に大きくなり、まるで順に花が咲いていくように各地が呼応し、地に響きはじめた。
声の地鳴りはまるで巨大な生き物のように大きくうねりながら空にむかって上昇し、さらにそれは世界各地から合流したかと思うと透明で輝くものとなって地球を覆い込んだ。


振り返れば長いようで短かかった。
あの2010年の日本での原発爆発、その後の選挙で政府が国民から搾取し続ける態度を明確にしたあの後、日本の一般市民達は密かな革命を始めた。それは一人ひとりの決意だった。それはまず声をあげて意見を示すことだった。


2013年、それぞれの土地でそれぞれが己の才能を使って声を上げ始めた。
ある者は絵画で、ある者は音楽で、ある者は踊りで、ある者は演じることで、ある者は美容で、ファッションで、小説で、映像で、写真で、広告で、漫画で、建築で、料理で、農仕事で、それぞれの得意分野でメッセージを発信し始めた。

「原発全廃、戦争禁止、脱資本主義、地球と生きよ」と。


可視化できる意志表現はどんどん増えた。

「反原発、戦争反対」など、意志を明確に書いたワッペンやバッジなどを堂々と通勤カバンにつけたり、脱原発がデザインされたマークの入ったネクタイや帽子をつけ、常に態度を明確に示した。広告やWebなど目に入るものの中に常にメッセージが組み込まれた。最初、発信者達はこれまでの仕組みとの孤独な戦いであった。しかし続けていくうちにその人数は増え始め、繋がりも増えていった。
集まった飲み会や集会ではいつもこの国の未来を話し合い、天候の挨拶と同じように日常的な会話になった。

若者達はどうやって今の政府を変えるかを真剣に話し合い、年配者達はどうやってそれを手助けできるのかを真剣に話し合った。

何年か経過した後、やがて市民のほとんどがこの意識になった。
今や消費よりも生産&シェア、戦争よりも共存、エネルギーはオールフリー、地球と共存する生き方。これが常識になっていた。

この動きは日本だけに留まらなかった。
日本よりも早く既にこの動きがはじまっていた中東やヨーロッパや南米も日本のこの動きに喜び呼応した。
世界の市民たちが戦争をなくすアイディアやエネルギーの平等や地球と共存することなどについて、情報を交換し合いはじめた。
ここ数年は世界は加速度的に変わり始めていた。

それは作られた資本主義の次の社会構造を模索する旅でもあった。
地球上の仲間たちが真剣に意識し、議論し、テストしてきた。


ここ数年は、次第に武器を捨てる人が少しづつ出てきていた。兵士が兵士である事を拒否し、辞職者が続出。そして武器に関わるビジネスをする人が仕事を辞め始めたのだ。
「これ以上自分は続けない」と自己判断したからだった。
原発に関わる人間も次々と職を自分の意見として辞めていった。
未来を残していくという責任を実感した者は「これ以上続けない」と自己決意したのだ
それは個人個人、一人ひとりの戦いだった。
そして全て各自の判断において行われた個人的な行動だった。
誰の強制も訓示もなく、それは個人の決意と選択の連続の上におこった事だった。。
個人個人が目をつぶろうとせず、真剣に考え立ち上がっただけだった。
そして戦争ビジネス、金融ビジネス、人身ビジネス、エネルギービジネスなどは一気にしぼんでいった。
それは多くの人が正しい未来を望み自己の判断でそれらに関わることを放棄し始めたからだった。

今や人々が利己的な権利を主張しあい奪い合うことから、地球の恩恵をうけながら共存し、良いものや財産はシェアしながら次の世代に残していくと言う価値観に変わった。
各地の紛争や戦争はますます減っていった。
誰か特定の権利層がつくる貨幣に価値は無くなっていった。
生産に基づく実態のある循環経済が各地で生まれはじめた。
人間と環境に対して健康な農作物の研究成果はどんどんシェアされ、規則や条約によってその流れを止めることはもうできなかった。
大自然からのエネルギーは誰のものでもなく、それぞれが自由に平等にシェアされていった。
もう残る戦争はあと幾つかをのこすのみだった。

世界はドミノのように変わり始めていった。



そして2XXX年○月○日。本日。

やっと今日、最後の戦争が終わった。Newsの速報が最後の兵士の帰還を伝えた。
争う事を辞め武器を捨て、家族の待つ家に帰ったのだ。

そのNewsはたった今、世界中に流れた。

そして今、突然全ての電車が止まった。
バス、車、交通機関の全て、そして街のネオンや巨大ビジョンの広告までもがいっせいに停止した。
一瞬全てが静寂に包まれひっそりと静まり返ると、やがてそこら中でゆっくりと歓喜の声があがり始めた。
その喜びの喚声は次第に次第に大きくなり、まるで順に花が咲いていくかのよう各地が呼応して地に響きはじめた。
声はまるで巨大な生き物のように大きくうねりながら空にむかって上昇し、さらにそれは世界各地から合流したかと思うと透明で輝くものとなって地球を覆い込んだ。

大地は震え、海の生き物は跳ね、鳥達は歌っている。風が木をなで、葉は笑って舞っている。

今日、人類はここで次の段階へ意向した。

年末のご挨拶

$Keyaki Narusawa

2012年、相当に濃い一年だった。

オーストラリアのパースで年始を向かえた2012。初めてづくしの1年間だった。

この1年間で自分がやってきた事はすべて誰かが協力してくれたお蔭、もうこれに尽きる。自分の実力以上のことができたのは、出会ってつながってくださった人々が暖かく見守り、育て、協力をしてくれ、助けてくれたからです、完全にそうです。それを多く感じる1年だった。

1月はPerth市内の地元FM局に出演し、生演奏を放送。全て英語の対応は必死だったな~。これはStreetでCDを買ってくれた人がチャンスをくれた。

ヒナタカフェのT姉さん達のお陰で地元Mandurah高校のサマーキャンプでも演奏させていただいた。
アボリジニ達の聖地であるポイントウォルターでの夜の演奏は自然と融けるような体験だった。

2月、大家に許可をもらってはじめたAfrican DrumingのクラスはPerthの友人達が応援のつもりで沢山きてくれた。バラクランジャンとソリの計8回のクラスで、最後はPerth市内のナーシングホームで演奏の機会を頂いた。

$Keyaki Narusawa

そしてFremantleのDidgeridoo Breathで初めてのSolo Gig。オーナーのSanshiの気前のいい協力のもとで、初めて自分の看板でのGigを経験させてくれた。Byon KeyやSanshiも演奏サポートしてくれた。その後のヒナタメンバーの食事も含め、多くの人の協力のお蔭でできたものだった。

$Keyaki Narusawa

4月に日本に帰国。Visa獲得と結婚と目覚ましツアーの3つをするため。

5月に沖縄からはじめた目覚ましツアーは各地のミュージシャンやオーガナイザーの協力やサポートが繋がって無事に最後の大宮まで行うことができた。なにより嫁の協力がなければできなかった。人の協力、紹介のみで繋がっていく演奏の旅。Perthからの後方援護もあった。
この時各地で多くの刺激的な人に沢山であった。皆すむ土地は違えど同じ想いと気持ちで暮らし、世の中を少しでも良いものに変えて行こうと熱く熱く燃やしていた。
農業で、公務員で、ヨットで、温泉宿で、イチゴで、介護で、福祉事業で、デザインで、出産で、子育てで、海産物で、料理で、野菜で、音楽で、絵で、踊りで、家業で、店で、唄で、作品で、縫製で、マイケルで、食事で、寿司で、漁で、接客で、旅で、それぞれが熱いものをもって変えようとしてた、伝えようとしていた。彼らと出会えてことは財産だ。もうまるで奇跡のような話だ。全て人の協力だけでこんなことが起こるなんて。。。
このツアーで出会った人達には感謝だけじゃすまない特別な感情がある。
<Thank u for ur support>
石垣島、沖縄首里、沖縄読谷、沖縄那覇、沖縄北谷、奄美大島笠利、奄美大島名瀬、カケロマ島、鹿児島、硫黄島、熊本、佐賀武雄、福岡太宰府、福岡飯塚、福岡大入、長崎、山口、広島、岡山、鳥取、島根、丹波、大阪九条、京都、名古屋、岡崎、豊田、蒲郡、郡上、富山、長野戸隠、静岡用宗、静岡市、静岡富士市、南伊豆、横須賀、東京、大宮。


Keyaki Narusawa

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そして9月の結婚式は仲間の協力のお陰で無事におわり、10月から東京に入った。
Visaの申請準備の間3ヶ月、学芸大学の友人の快い気配りで居候させてもらった。
準備は思った以上に大変で、でも多くの人が助けてくれたお陰で申請までは漕ぎ着けた。申請後は1ヶ月の審査待ちで結果Visaは取れなかったが、その間で旅中に溜まった唄をCDにして、さらには愛知に演奏ツアーに行くこともできた。
CDにする際に音楽業界の大先輩のアドバイスを頂けたのは貴重な経験だった。

愛知のツアーは協力のラッシュだった。駅まで迎えはもちろん、会場まで運んでいただき、泊めていただき、宣伝していただき、何から何まで沢山の沢山の人にサポートしていただいた。新しい嬉しい出会いも沢山あり、思い出させられる事もあり、勉強になることもあり、愛知の人達からはいつも何か大切なものを頂く。

Keyaki Narusawa

Keyaki Narusawa

Keyaki Narusawa



東京でもよく演奏させていただいた。すべて以前からの仲間からいただいた話だった。ソロの弾き語り、Busking set、たまきん、カフェでのカバー曲BGM弾き語りの仕事、新しく出会ったミュージシャン達と仕事をすることができて沢山勉強させていただいた。刺激的な東京Life、出会いは偶然じゃなく必然。

$Keyaki Narusawa



今の時点で自分のCDを勝ってくれた人は、自分に対する応援の気持ちで買ってくださっていると思う。それに対する自分の責任は技術と知識と経験をあげることだ。

一つの音を突き詰めてこだわって意味を持たせるまで追求すべきだ。
一音の責任。その一音に意味があるのか?
音の技術を最高峰にする。
それが協力してくれている、応援してくれている人に対するお返しだ。
その上で魂のために演奏する。

出会う人が協力してくれるから、支えてくれるから成り立っている今の生活。
であれば、自分の音楽のレベルをもっと上げる以外にない。

人の協力をひしひしと感じた1年間。

今年を締めくくる言葉、「人のお陰で今がある」
この協力してくれた顔を思い出せば来年自分がやることがおのずと決まる。


来年の目標、「基本のスキルをコツコツと」

・歌をうたうスキル上げる。
・ギターを弾くスキル上げる。スケールや和音の知識。
・ディジュの基本的なスキル上げる。吹き込む。
・バラフォンの習得。アフリカンリズムの習得。
・録音の知識と技術向上。
・Gigの経験値を上げる。
・フランス語習得。
・曲を沢山つくる。

年の瀬にお世話になっているミュンヘンの音楽家から大事なメッセージをいただいた。
忘れないようにここに記しておく。

「地道にムダにも思える練習や訓練をバカのようにひたすら毎日繰り返すことはできますか?誰かに聞いてもらうためにではなく、ただ自分の理想に近づくためだけに。けやきさんは今そういう時期に入ってきているように思います。妥協しないで最後の最後まで自分を追いつめて、けやきさんの本物を追求してみて欲しい。
自己満足とか、格好良くありたいと思う気持ちや、楽しみだとかから生まれる自信もあるだろうけれど、苦しい環境で、救いを求めてあがいた末に見つけた真実はもっと多くのひとに届くと思います。」


今年も関わってくれて、応援してくれて本当にありがとうございました。
多くの人にお世話になりました。
貴方にとって充実した2013年になりますよう。


また来年もよろしくお願いします!!!おりゃ~~~!!!


$Keyaki Narusawa




Visa申請は許可されず。しかし!

9月に東京に入り、VISA申請書類を準備すること2ヶ月。
役所に行ったり、警視庁行ったり、書類を作成したり、翻訳したり。
友人や家族にも協力してもらってやっと申請。
審査を待つことさらに1ヶ月。

その間GigやBuskingをするも、東京のBuskingは欧州や豪州ほどは稼げず、支出が多いバランスに焦ったりして。
食べ物や呼吸も気になる3ヶ月の東京Life。

Visaの審査を待つ一ヶ月の間は弾き語りのアルバムを作り、愛知のミュージシャン達やオーガナイザーにお世話になり演奏ツアー。
皆さんの協力のお陰で愛知も無事に終了。

東京に戻っていくつかのGigを終え、昨日いくつかの荷物をフランスに送った。

そして今朝大使館にいきパスポートを受け取ると、そこに・・・

「申請は受理されませんでした」の文字。

そうきますか~、なるほど~、我ながらなかなかドラマチックな人生ですな。
つまりアレでしょ?もっと苦労して試行錯誤して現況を良い状況に自分の意思と行動で変えてみろって事でしょ?

いいじゃね~か。やってやろ~じゃね~か。
自分の意思で乗った船だ。エンジン壊れたって目的地に着くまでは漕いででも押してでも行ってやる。
目的地に着くまではどんなことがあっても絶対あきらめないぞ俺は。

とりあえずあと5日で出国。観光なので期限3ヶ月の滞在だけどなんとかしてやる。


そうすんなりはいかない「音の旅 第2弾」。
もうさっそく始まってるって事だ。



PS 笠利ジャンベクラブの皆様

居候宅に戻ったらプレゼントが届いてました。
勇気と元気を貰いました。本当にありがとうございます!


FreeStyleLifeの瑞穂兄貴とフォトセッション。
http://www.freestyle-life.net/free-100-page-41.htm