10年前のあの日
私は夫と
海外にいました。



あの日の朝、羽田を飛び立ち
あの時刻
私と夫は超高層ビルの展望台から
眼下に広がる広大な景色を見ていました。



その時は、日本で大地震が起きているとは
知る由もなく
私たちはその後も
何事もなかったように観光している間
ニュース速報を目にする機会もなく
夕食を楽しんで夜9時頃、ホテルに戻り
テレビをつけると…


初めは画面に映し出される映像が日本のこととは
まったく思わず、
気仙沼の火事の炎の空撮の映像を見て
ハワイかイタリアの火山が噴火したのかと
他人事のように見ていましたが…


CNNの英語放送を見ているうちに
「KESENNUMA」という単語が聞こえて
え❓ と思ってよく見たら

その火事の空撮映像は
日本のことでした。



信じられない…

こんな真っ暗な寒い夜に
こんな恐ろしい炎に追われている人がいる。



現実の事とは到底思えず呆然…



夫がすぐに家族に連絡を取ろうと
ホテルの部屋から国際電話(IP電話)を掛けると
当時夫の赴任先に一緒に住んでいた長女の携帯には
かからなかったが、
IP電話だった家の電話にようやく繋がった。


他の家族の普通電話や携帯電話は
なかなか繋がらず
子どもたちはそれぞれまったく離れた所に住んでいて
メールで安否確認していたが
その頃、私たちは海外では携帯電話ネットワークを
契約していなかったので
外でメールを読むことができていなかった。


電話回線はだめだったが
ホテルのIP電話が使えたのは助かった。


長女は
余震の続くマンションで
1人恐怖に震えていた。


当時、長女は勤務先に趣味とトレーニングを兼ねて
片道20分ほどの自転車通勤をしていた。



職場で地震にあった長女は
当時ビルの25階で仕事をしていたので
その揺れは凄まじいものだったらしい。



その恐怖は完全に長女を動転させてしまい
揺れが落ち着いて退社の指示が出るとすぐに
同僚たちと帰途についた。


同僚は近くの駅へ。


長女は自転車で自宅へ。


恐怖から一目散に自転車を漕ぎ
家までどうやって辿り着いたか
覚えていないという。


家に着いてようやく一息ついたのも束の間
海外に行ってしまった私たちは家におらず
長女はひとりぼっち。


停電の心配もあり、余震の続く中
心細さは例えようのないほどだっただろう。


しばらくすると
一緒に帰ったはずの同僚たちは
電車などにはまったく乗れず
仕方なく会社に戻り
大勢の同僚たちと一緒に一晩過ごしたという。



長女は偶然自転車通勤だったため家に帰れたけど、
1人で不安な時を過ごすなら
同僚たちと一緒に職場に留まった方がよかったかもしれない。


たまたま無事に家に帰れたけど
余震の中、外を歩くのはいろいろなリスクがあり
きょうもテレビで
「無理に帰らず職場や近隣の大きな建物に
留まった方がいい」
と言っている。


長女は25階の職場は揺れでPCも書類も
すべての物が床に散乱し
ものすごいことになっていたのに
そう離れていない我が家はグラス一つ落ちておらず
まったく元のままでとても奇妙な気がした、
と言っていた。



長女が心配で
私たちはすぐに帰りの飛行機を手配しようとしたが
当然、まったく飛行機など飛ぶ状態ではなかった。


とにかく長女の不安を少しでも取り除くために
何度も電話をして
安否を確認した。



幸い長女も落ち着いていて
マンションの防災設備や備蓄も整っており
災害時用の水や非常食も配られ
いつも優しい管理人さんにも気にかけていただき
私たちが帰るまでの約1週間を
長女は無事に切り抜けた。


それでも長女は今だに時々地震の夢を見て
夜中に目が覚め、眠れなくなるという。



仕方がないとは言え
あの日長女を独りぼっちにして旅行に行ったことを
今でも申し訳なかったと思ってしまう。


あとから友人達とあの日の話になり
偶然あの日、羽田にいた友人は
もうすぐ搭乗というところであの地震が起きて
すべての交通機関がストップし
何時間もかけて歩いて家に帰った、と話していた。



人それぞれの3.11がある。



「普通の日」を送れることに感謝し


「もしもの時」に備えなければ と



改めて思います。