文部科学省の中央教育審議会の部会資料を読んでいて思ったのだけど、中学の英語教育ってかなり難しい舵取りを迫られているように思う。
学校の教科で最も必要性を感じる教科は「英語」だと全国の中学生が応えているにも関わらず、中学3年でもっともわからなくなってしまう教科も「英語」だというのだ。
それほどに中学英語は難しいのか?!
子どもたちの名誉のためにも簡単だとは言わないが、十数年前から削られ続けた文法のことを考えればできないことではないはずである。少なくとも、英語を学習することは不可能ではない。しかし、現実は上記の結果の通りである。
何が原因か?
一概に学校での教育方法や文科省の方針への責任転嫁や中傷は現状の打開にはならない。善処するためにも、子どもの心理を読み解く努力は必要なのではないかと思う。
例えば、大学時代に学んだ心理学の理論を持ち出して考えて見たりする。
「学習性無力感」ってのが当てはまるのではないだろうか。
例えば、一匹の犬を部屋に入れて出れないようにする。その部屋は、床一面と壁全面に電流が流れるような仕掛けがされていて、電流を流すと当然、犬は走り回ってもがく。しかし、どこへ逃げても電流からは逃れられないために、犬は抵抗することをやめてうずくまってしまう。次に、その犬を別の部屋へ移して、今度の部屋は床の一部分だけ電流が流れるようになっている。つまり、電流が流れないところに移動すれば苦痛から逃れられるわけだが、電流を流しても犬は動こうとはせずにうずくまったまま、電流の苦痛にひたすら耐えてしまう。これは、実験として同じような結果が繰り返し起こる現象である。
犬には何が起こっているのか、それは、「がんばっても、もがいても無駄」だという経験から学習した事実を受け入れた「学習性無力感」を感じている状態なのである。
褒め方を忘れてしまった大人たちを前に、子どもたちは何を感いいているのか。そこで学んでいることは、「学習性無力感」へとつながってはいないと言い切れるだろうか。
もう一つ、成功体験が少ない現代の子供たちは、大人とは違う次元で失敗や挫折を味わいながら生きているのではないかという懸念もある。
子どもたちの今の精神状態が「学習性無力感」だと言いはるだけの根拠はないにしても、少なからず、心の中を理解するきっかけやヒントになるのではないかと考えるのは、行きすぎであろうか悩んでいたりする。
学校の教科で最も必要性を感じる教科は「英語」だと全国の中学生が応えているにも関わらず、中学3年でもっともわからなくなってしまう教科も「英語」だというのだ。
それほどに中学英語は難しいのか?!
子どもたちの名誉のためにも簡単だとは言わないが、十数年前から削られ続けた文法のことを考えればできないことではないはずである。少なくとも、英語を学習することは不可能ではない。しかし、現実は上記の結果の通りである。
何が原因か?
一概に学校での教育方法や文科省の方針への責任転嫁や中傷は現状の打開にはならない。善処するためにも、子どもの心理を読み解く努力は必要なのではないかと思う。
例えば、大学時代に学んだ心理学の理論を持ち出して考えて見たりする。
「学習性無力感」ってのが当てはまるのではないだろうか。
例えば、一匹の犬を部屋に入れて出れないようにする。その部屋は、床一面と壁全面に電流が流れるような仕掛けがされていて、電流を流すと当然、犬は走り回ってもがく。しかし、どこへ逃げても電流からは逃れられないために、犬は抵抗することをやめてうずくまってしまう。次に、その犬を別の部屋へ移して、今度の部屋は床の一部分だけ電流が流れるようになっている。つまり、電流が流れないところに移動すれば苦痛から逃れられるわけだが、電流を流しても犬は動こうとはせずにうずくまったまま、電流の苦痛にひたすら耐えてしまう。これは、実験として同じような結果が繰り返し起こる現象である。
犬には何が起こっているのか、それは、「がんばっても、もがいても無駄」だという経験から学習した事実を受け入れた「学習性無力感」を感じている状態なのである。
褒め方を忘れてしまった大人たちを前に、子どもたちは何を感いいているのか。そこで学んでいることは、「学習性無力感」へとつながってはいないと言い切れるだろうか。
もう一つ、成功体験が少ない現代の子供たちは、大人とは違う次元で失敗や挫折を味わいながら生きているのではないかという懸念もある。
子どもたちの今の精神状態が「学習性無力感」だと言いはるだけの根拠はないにしても、少なからず、心の中を理解するきっかけやヒントになるのではないかと考えるのは、行きすぎであろうか悩んでいたりする。

