(405回)

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今年4月
津和野街道
廿日市、津和野間で
トレイルランが

開催されるにあたり
少し
廿日市と津和野の
関係を
振り返って見ましょう


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にひひ=仁助先生 
叫び=与吉

にひひ血液の話
は大体分かったかな?


叫びはい!

分かりました

話は変わりますが
先生の名前
誰がつけられたのですか?

にひひそうじゃなあ?
ちょっと
古臭いと思うかね?


叫びどこかで
聞いたことのある
名前なんですよね!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

にひひそうか

じつは
わしの名前は
祖父さんがつけてくれたんじゃ


叫びへ~え!
ほんとですか?

にひひそうよ

なんでも
祖父さんの
祖父さんの
祖父さんの
祖父さんの
友達の名前
から
つけたそうじゃ

叫びへ~そうなんですか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

にひひそうじゃ

なんでも
堀田仁助という人の
名前じゃそうじゃ

叫びえ~えっ!

聞いたこと
ありますよ

廿日市の
佐方八幡宮
に石灯篭が
ありますよ

にひひそうか
よく知ってたな~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
堀田仁助さんは
この大学のそばにある
桜尾城址(桂公園)の
西側に津和野藩の船屋敷で生まれ
幼少期を
この佐方八幡宮のそばで
過ごしたのじゃ

叫びそうなんですか

じゃあ
どうして仁助さんは
石灯籠を
八幡宮に寄贈されたのですか

にひひそうじゃ
それはな
少し話すと長くはなるが
まあ
伝え聞いた
話をしよう

叫びはい


にひひそうよ
堀田仁助は
幼少期は
兵之助といっていたそうじゃ

子供のころから
数理に秀でていたそうじゃ


石見国津和野藩が
当時の
武家諸法度による
参勤交代の道を

日本海に面した
益田港ではなく

広島藩に
佐西の浦
(現広島県廿日市市)
の港を借り受け

津和野から
三日かけて
ほぼ直線的に
山を越えて
来て
今の兵庫県明石に
船で向かうために

津和野藩御船屋敷を
作ったのじゃ


叫びはい!

にひひその御船屋敷
蔵屋敷紙払役人を
していた
父親嘉介の長子
として
1747年に
生れたのじゃ


叫びへえ~

そうだったんですか

◇  ◇  ◇  ◇

にひひそうよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうして
幼少のころから
数理に秀でており

14歳で
藩の御船手役所見習いに
抜擢され
藩の任務に就いた
廿日市の生んだ
秀才だったのである


叫びどっひゃ~

偉い人だったんですね

にひひまだまだこれからじゃ

1762年15歳で
津和野に帰り

勘定所見習いに抜擢された

その後
湯永経に数学を学び

17歳で守居組
18歳で大納豆手伝い
となり
19歳で川普請手伝いとなり
甲州に出向するなど
若くして活躍した

35歳の時
第7代津和野藩主亀井氏に
随伴し
江戸に行った

仁助の才能はじゃ

非常に優れており
幕府中枢に知れることとなり

翌年36歳で
幕府天文方に召抱えられたのじゃ

先が長いから
また今度じゃな!

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