がんばったあ
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がんばったなーこの一言

わたし桜の咲く美しいときにこの世に生まれました  多分?  先ずわたしの名前みこといいます

ここよりみこのながーいお話にお付き合いお願いします。 生まれてから小学校までボーっと暮らしていたみたいです記憶にない馬鹿なのかも?

小学校は岐阜県の明智とゆうところで過ごしました 家は昔ながらの一円菓子屋で毎日どうしたら親の目を盗んで友達の分までと勉強より頭を使い頑張ったしかしいつも母親が私のうごきを目を皿のようにして見張っていましたその状況でくすねたあとの喜びはやったーでした。小学校も四年になったころ名古屋に引っ越して父親が自動車販売の仕事を始めました。ちなみに今から五十何年まえにことです。そのころは軽自動車の出始めです営業マンはいりません。電話だけでもいつ納入できるかわからないうれしい悲鳴でした。

我が家もだんだんお金持ちになり、中学校時代はお手伝いさんが二人いてみこはお嬢様と呼ばれていました。私のキョウダイは、5人で弟が二人、姉が二人私は真ん中、一番威張っていました。ただ修学旅行の時母が忙しいので買い物など一人でした。今でも覚えているのはあるデパートの入り口で同じ年の子が母親と楽しく話しながら歩いていくのを見てポーと羨ましく何十分もみていました。私の買い物はお金で買うのでなくサインだけで自由にまた金額設定もなし、今からおもえば夢のようなことです。今そんな時がきたらうれしい  無理だっちゅうのへへ  さあ次は高校生だ


高校受験でもめましたとゆうのは勉強大嫌いのみこは私学に行きたかったちなみに、私が中学生のころは

進学するクラスと就職クラスがわかれていて、全員の一クラスが進学組みでした。私は小さいころからピアノを習っていて音楽学校なら普通科目が少ないと勝手な理由で菊里を受けることにしました。やっぱりお嬢様だったんだなー。しかし現実は甘くなかった、そこでない知恵を絞って考えました。そのころは三月でも結構さむかった、受験する教室の廊下に大きな火鉢が手を温めるために置いてありピアノを弾く人が使うのです、今から考えても不思議な人が多いでしょう。べつに明治の話じゃないです

私の考えた悪知恵とは?いよいよ私の名前が呼ばれました、教室に入っていくと先生が八人楕円形でじーっとみつめていますそこでみこの一言今火鉢で指をやけどしましたので音が少し飛ぶかもしれませんよろしくお願いいたしますと。これがよかった多分見事合格喜んだ、喜んだ、ただし親が!
桜が咲くころ分けもわからず入学式。このときばかりは、母親がついてきてくれました。久しぶりに一緒で式よりもうれしくてはしゃいでいて、名前を呼ばれたのも知らなくて一人でニター、ニター、三度ぐらいかも、気がついたのはへへへ  終了後母親にこっぴどく怒られたでも帰りにいっぱい服買ってもらちゃった。       

音楽科は一クラスで四十人いて、その中に声楽、バイオリン、ピアノ、作曲の部門がありました。  

みこは声楽です高い声だすためにいつもキー、キーと練習してた、私の練習中は家の人が逃げ犬までが

ワオーン、とまねをするんです。きっとご近所に迷惑かけていたでしょう。ゴメンナサイ。
学校へ行くと校庭に入ったとたん普通科の男の子がピーッと手笛をならしいい気持ちで手を振ったり調子に乗っていて、それだけのために学校へ行ってたりしてナンチュウコッタ。
制服はスカートのヒダの数が決まっていてみこのはオーダーメイドのため本数オーバーで、いつもチェックされていてそれでも完全無視、ところがあるひ朝礼のとき朝礼台の上に立たされ,それも全校生徒の前で数をかぞえさせられました。それでもメゲナイ、メゲナイ

その先生が体操の先生でオールドミス、ちなみに私の体操の担当私の三年間成績表は体操のところだけオール1おまけに赤座布団つき、ヤッター? なんとか高校卒業する。これからがながーいきびしー人生のお話です。まっててねー


みこは、大学をあきらめ、とゆうより、親に猛烈反対され、あっさりあきらめた。

そして、角丸証券、今の勧業角丸証券に就職、仕事は受付私にぴったり。種種雑多な人たちと出会い、カウンターで、株の売買をしたりして、楽しい時でした。丁度バブル絶頂期面白いようにお金が、飛び交っていました。  同じ会社の営業の横山さんと出会い、交際を始めました。

暑い夏も終わりに近く頬をなでる風が、寂しさを感じかけた其のころ、会社内で、キャンプに行こうって話があり、私も横山さんと、参加することに 何か?期待をして其の日を待ちわびていました。

きた、其の日が、 車六台に相乗りして蓼科高原へ   心わくわく

夜です、皆がキャンプファイヤーの時、私は彼をバンガローに、誘いました、そして抱きついてアマーイキス

それから  それから、とうとう合体、私は処女ではありませんでした、が、彼は童貞でした

彼の体は小刻みに震えてとてもかわいい、私は手を添えてやさしく、導いた。

外へ出たら星がダイヤモンドのように、輝き、風が私の頬をキュウーンと、なびかせ 生きてる幸せを、かんじさせてくれた。


それから 二年位過ぎたころ結婚することに、しかし、話がグチャグチャ、持参する荷物の件で、ここはチョウ田舎で、ご近所に、荷物の披露をするんです。又食事もご馳走しなければなりません。それでもめて、破談。

もうやけくそだ。

もう遊ぶことがないくらいあそびまくった、一年くらい。親の会社(自動車)で、営業で働いた。

一番初めに契約をした時の嬉しさは今も忘れられない、でも、夜な夜な遊んで、飲み歩いている。

そんな私を親は心配したんでしょうね。会社に勤めてたセールスの人と、たった三ヶ月で、結婚を決めてしまったの、その人が今の主人です。その人は小さいころから両親がいなくて、自分たちの思うように、話が進められたってこと、私を放置しておくと何をするかって心配でさっさっと決められた。しかし、結婚して私が食事を作るなんて、思ってもいなかった。アパートに、ひとり、暗くなっても食べるものがない、主人が帰ってきて  ご飯は?って、私は誰もご飯って言ってくれないんだけどっていったら、

馬鹿 お前が作るんだって 怒られたけど、私何もできないよーやったことがない、其の時の顔が怖かった。それからが、大変 ご飯はベチャベチャ、 魚はまるこげ、煮物なんかとんでもない、でも、何ヶ月もやればできるよ。味は別にして、

そして七ヶ月過ぎたころ、子供ができました、お腹にいる時は本当に優しくしてくれました、大きな男の子。私は実家に戻っていましたお手伝いさんが、ミルクを作ってくれたし、おむつも洗ってくれて、幸せ。

でも、アパートに帰る気が全然おきません。一年くらいたったころ、主人の、ご機嫌が段々おかしい、もっとも、主人も私の実家に一緒に住んでたのですが、俺は養子にきたんじゃないって、自分だけ、アパートに帰ってしまいました。それが心に引っかかっていたのでしょうか?二人の間に異変が、まず、食事がまずいと、机をひっくり返しました。私はもう、心臓が飛び出そうでした。それから、主人の夜遊びがはじまり、少しずつですが、私に対して暴力が始まったのです。