今年の4月1日に職場の同僚(男性で親子ほど年が離れている)から、育てる水草を誕生日プレゼントとしていただきました。

ものぐさな私ですので、種を蒔くタイミングを見計らっていると言いつつ、箱のまま机の上においておいたのですが、

ようやくこの連休前に土を入れて種を蒔きました。

テーブルの上に置いておくと床にぶちまける危険性があると妻に言われたので、書斎の机の奥に設置。

しかし日が当たらないので、連休終わるまで変化なし・・・・。

意を決して、窓際のパソコンデスクの上に移動(5月9日)。

芽が出た(5月11日)

説明書によると水草が根をおろしてから水を入れないと、水草が浮き上がって成長できないとのこと。

5月12日ある程度根が張ったと判断し、水を入れていい感じとなりました。

 

水草を見ながら感じることは「変化は面白い」と言うことです。

子供たちが小さい時は、何かできることが増えるたびに感動し、楽しんだことを思い出します。

でも小さくなくても、人は常に変化し成長しているものです。

私も横や前に成長している(お腹周りが・・・)ことをネタにしている場合ではなく、

この年になっても成長し変化し続け、見る人に感動を与えられるように頑張りたいですね。

 

 

本日、主日礼拝後に阪急箕面駅〜箕面大滝まで往復走ってきました。

これは滝までたどりつけるのか??????と思いました。

 

主日礼拝の説教で、最後までやるには過程(プロセス)が重要だとおっしゃいました。

環境や状況、雰囲気に合わせてやることが最後までいく方法だと神様が教えてくださいましたので、「そうだ、マイペースだ。」と思って最後まで走り続けました。

 

人生は目的を成すことが重要ですが、目的を成すために、無理をして最後まで行けないのは本末転倒です。

時には背伸びをして無理をすることで成長する要素もありますが、無理をして疲れたなら一休みし、また歩き出して主キリストと共に歩くことが重要と感じました。

 

時に休みながら、時に挫折もあり、背伸びをして、倒れることがあっても、最後までいくと、来てよかったと思う景色が広がっていると思います。

足がつりながら、滝までたどり着いたときに、このように思いました。

 

 

徒然なるままにひぐらしをするほど、心に余裕があるわけではないですが、

すずりならぬ、パソコンにむかって、神様と聖霊の感動と共に心に移り行く他愛もないことを、そこはかとなく書きつづっていこうと思います。

 

1年前にそろそろ・・・と思っていたのですが、ようやく書く気持ちが出ました。

さして文才もなく、理屈っぽい(屁理屈っぽい?)ので固い文章となる部分はご容赦をお願いいたします。

 

さて今日は母の日、母親との思い出はたくさんありますが、最近ふと思ったことをを書きます。

 

4人兄弟で父母入れて6人家族、夕食は決まった時間に必ず全員そろって食べる家庭でした。

しかし母親だけは食卓に一緒につくことなく、ずっと台所に立って食卓にできたてのおかずを

常に運び続けて、全員が食べ終わってから残り物を食べる人でした。

しかも、なんと子供たちは食べた食器を台所にもっていくこともせず、食べたらそのままの状態でした。

そこで私が小学校4年か5年のころ、食器は台所までもっていきましょうというルールができました。しかし子供の頃、自分で食器を洗った記憶はありませんでした。

 

教会に通うようになって、学生時代ルームシェアをすりょうになって、みんなの食器を洗うのが普通になりました。

今も仕事から遅く帰って自分の食事をする前でも子供たちの食器を洗うことも時々あります。

子供たちが受験や今大学の事業で頑張っているところを少しでも応援し、祈る思いで食器を洗っています。(母が知ると腰を抜かすくらいびっくりするでしょうね。)

そして、昔、母はどのような気持で私の食器を洗っていたのだろうと思い出しながら食器を洗っています。

 

考えてみれば母が体調を崩して休んでいる記憶がなく、いつも前向きに活動的で、数年前に脳梗塞で倒れてから言葉が出なくなって、普通の人の1.5倍しか話せなくなった母は、最近大腿骨を骨折して、今入院しています。骨折して病院に運び込まれた際の写真を送ってきたのですが、なんとピースしていました。折れたレントゲン写真も送ってきたのですが、かなり大きく折れています。全身麻酔で手術する前日にその明るさは”さすが”と思いました。

いつも前向きで超プラス思考なお母さん、いつまでもお元気で、そのうち親孝行しますので。