みなさんは、人と話すとき相手のどこを見ますか? 僕は大体の場合は、相手の目を見ます。もちろん見っぱなしだと良くないので、視線は頻繁にずらしますが、数十秒に一回は視線を合わせるでしょう。普通の人より目を見る回数と時間が多いので、時々「見すぎだよ」って指摘されたりもします。
でも、目を合わせない人、顔を背けて話す人って世の中結構居ますよね。こういう人に遭遇すると、僕は「この人はそんなに自信が無いのか? 何か裏で考えてるのか? やましい事があるんじゃないか?」と色々な疑問が心の中にわいてきて、ますます相手のことを見てしまいます。そうすると相手はますます、こちらを見なくなるっていう悪循環に陥ることが多々あるんですね。
なんで、僕が会話の時に人の目を見るのか? この背景には、僕が人生の半分以上、武道に関わってきたということがあるでしょう。小学校から中学校にかけて約10年間、剣道をやってました。先生方は大体、自衛隊とか警察・消防関係の方々で稽古の時は色々と厳しいながらも、それ以外ではとても優しい方々でした。稽古の時、それ以外の時のいつでも、どの先生方も決まって強調するのが「目を見て話せ。話は目で聞け。」ということでした。「相手を目で圧倒できない奴がどうして試合に勝てる? 相手の目を見れない奴がどうして相手の話を正しく聞ける?」というのが、先生方の口癖のようになっていたことを記憶しています。
高校の時は空手と合気道をやっていました。そうすると、偉い先生方のお話を聞く機会が多くあるのですが、往々にして館長とか師範クラスの凄い人って、目力が凄いんですよね。空手の場合は体がデカイ人が多いので、体のでかさで圧倒され、ギロって睨まれたときには逃げ出したくなります。一方で、合気道の凄くえらい先生方は、はっきり言って、「認知症の方が、老人ホームから間違ってきちゃいましたか?」って聞きたくなるぐらいの、おじいさんが多いです。でも彼らの目力はそれはそれは凄いものでした。見た目は、ただの爺さんでニコニコしているように見えて、相手のことは心の奥底まで見抜くような目を持ってるんですね。空手の本部道場に行ったとき、目だけで相手を圧倒するっていう稽古をしたことは今でも鮮明に覚えています。相手の目を10分ぐらいぎっと見続けるというのは、今考えるととても貴重かつ有意義な経験でした。
さてさて、そんな方々と常々接しながら、またそういう環境に接して育ってきたので、僕は目を見ないで話すことに凄く抵抗感があります。「目は口ほどにものを言う」とはよく言ったもので、「目で会話」することも重要なコミュニケーション手段の一つです。
人間のコミュニケーションは、言語よりも言語外で為される割合が高いという話をどこかで聞いたことがあります。僕も、目で会話することは大事なコミュニケーション手段の一つだと思います。
Ludwig Wittgensteinは、ある一つの論考の最後を“What we cannot speak about, we must pass over in silence.”という言葉で締めくくりました。いかにもWittgensteinらしい神経質な、そして思考するという行為に誠実な言葉で、僕が大好きな言葉の一つです。
一般的な哲学者の間で、この言葉は、“cannot speak about”=「言葉に出来ないもの」と解釈されているようですが、Wittgensteinほどの哲学者が果たして、文字通り「言葉に出来ないものを語ってはいけない」というようなことをいちいち主張するでしょうか? 僕はそうは思いません。むしろ、“What we cannot speak about, we must pass over in silence.”→「そのsilenceの中で、言葉以外の方法(目で語る)などでコミュニケーションをとればいいじゃないか!」というように、Wittgensteinが言語外のコミュニケーションの重要性を主張しているような気がしてならないのです。Wittgensteinの言葉にあえて補足を付け加えるなら、“… silence. But under this kind of silence, we can communicate with each other by using another way of communication.”という感じになるでしょうか。
相変わらずお酒を飲みながら、今夜はこんなことを考えていました。