珈琲の香りが馥郁と辺りを染める・・・。すると時の流れがつややかなアメジスト色に輝く…。
白髪と顔に刻まれた皴に、人生の年季を感じさせるОさんが、何か充実した表情で珈琲を入れてくれる…。
「香織さんは意外にもストロングタイプのコーヒー、お好きなんですね…。」
「うん。」
とワンピース姿の私が頷く・・・。
初秋・・・の午後、また充実したひと時の扉が開く…。
「東京の大学出て司法試験に落ちちゃってさ、で田舎に帰って司法試験目指して頑張っていた時が、一番綺麗だったな・・・僕の人生で…。」
「ここでバイトしてしてたんですね。」
「ここには粉を納品していたの。ハイエースでさ。納品しながら法律の条文や判例暗記していたの…。まだ25になるかならないかだったな…。同級生たちのなかではもう結婚して子供もいる奴もしたから、焦っていたよ…。」
とまるで昨日のことのように思い出を語るОさん・・・。
「でもこの街にあちこちにパン屋さんができたね…新しいパン屋さんはずいぶんとおしゃれだね・・・。」
「でもここはここで年季が入っていいよ。」
「そうだね。ここは僕があの頃お世話になった店だしね・・・。で今でもお世話になっているけど…。」
「シナモンレーズンロール…昔からあったよね…。」
「僕が子供のころからあったさ。新しくできたパン屋さんにはこういうのはないよね。」
「うん。」
「もう僕は法律屋時代のことなんか思い出したくないし、もう関係ないんだけどね、でも国選で引き受けた人のことは思い出すな…。実刑になっちっやって塀の向こう入っていたんだけど、出で来るとき、ご母堂と一緒に一緒に行ったんだ…。クロッカスが咲く季節でね・・・女の人なんだけど、出で来るときに付き添いの二人の刑務官に『お世話になれました』って挨拶してね、刑務官たちも『もう来ないでね…』といったけど、でも7双方とも名残惜しそうでね・・・。」
「なんか卒業っていう感じだね。」
「うん。クロッカスも咲いているしね。」
そして私は一人旅に出て帰ってきたあの時のことを思い出した…。
「あたしさ、以前あのМ会館に勤めていたの…。恋に破れて東京の会社を辞めて田舎に帰って来るしかなかったの・・・。そこで父の先輩にМ会館の仕事世話してもらったの…。」
「へぇ・・・。」
「2３才のときかな…。でね、まもなく二十五だからそろそろ結婚しないと…と父の先輩から県職員の男の人、薦められたの…でも私全然乗り気じゃなくて・・・。」
「そうだよね…。」
「それはМ会館に翌年だから、２４歳のときかな…でその年の秋に、その男の人と山寺に一泊の旅行に行ったの…。間が持たないから。ついつい男の人に『あたしのこと、抱いてもいいよ。』って言っちゃったんけど、それで妊娠したかどうかすごく不安で…でも妊娠していなかったの…。」
「へ・・・。」
「で私はその男の人を振ることを決意したの。とそれと同時にМ会館を辞めて外国に一人旅に出ることも決意したの・・・。そしてその翌年・・・２５歳の私はМ会館を辞めて、そして梅雨寒の中、成田から一人で旅だったの…で秋に日本に帰ってきたの…。」
「そうなんだ・・・。」
「でももうМ会館は辞めちゃったし…М会館のみんなに挨拶したんだけど、もう私の居場所じゃなくなったМ会館がすごく懐かしくて恋しくて…涙が出そうで…でМ会館のみんなは近くのビーフシチュー屋で送別会してくれたんだけどね・・・М会館をやめた私は居場所も無くなっちゃったしどう生きていったらいいかわからなくてね…。Оさんの話聞いてその時のこと、思い出したの…。」
「・・・なるほど・・・。」
「それでも、外国に行く直前に銀行で外貨交換とかの世話をしてくれた女の行員さんがいたんだけどね、その人に道でぱったりあったの・・・。その人も私が外国に行っていた夏に、銀行辞めていたの…わたしよりも十歳ぐらい年上なんだけどね…独身でね…。」
「その銀行員だった人って綺麗な人なんだ・・・。」
「細くて髪が長くて私に似ているってみんな言うの。」
「へ・・・」
時間をコーヒーの香りがアメジスト色に染め、そして私たちを過去への扉へと誘った・・・。
「僕が司法試験受かったのは二十五か二十六のころだったな・・・司法修習っていうのがあって、そしてそれ終わって先輩の紹介で法律事務所でイソ弁っていうのだけどイソ弁…雇われ弁護士何年かして…やっと法律の条文やら判例の知識持ち出しても誰も恐れ入ってくれないっていうこと思い知ってね…あとはなんとか自分の店持てて・・・いいのか悪いのか次から次へと依頼が来て…とにかく必死になつて泥水の中潜り抜けてきたよ…。」
「・・・そうなんだ・・・私もね、外国から一人旅帰ってきて、そしてМ会館も辞めちゃったし・・・そんな時に私の父が近くに住んでいる大学教授の息子さんがどっかの大学の先生になれたから、その子と一緒になれつていうの・・・その子も、間もなくこっちの大学に呼び寄せてここで所帯も持てって・・・。でもね、その近所の大学教授って私の父が死んだときに私たちの家や資産を乗っ取ったのよ・・・。乗っ取られそうになったんじゃなくて乗っ取られていたの…いつの間にか気が付くと…。」
「ほー、それで誰か弁護士さんに頼んだ…。」
「その時ね、私ね、本八幡に島流しにされていたからね、それでたまたまあることで知り合った近くの弁護士さんに相談したの…三十分いくらかのところ、私も別のことでその弁護士さんの相談に乗ったあげたからドトールのコーヒー代も割り勘…。」
「香織さんが弁護士さんの相談相手って？？」
「その弁護士さんの心の問題…なんか・・・。」
「そういうこともあるんだ・・・。」
「でね、父が死んで必死になって私は家と自分の立場を取り戻したんだけど、やっと自分たちの家からその大学教授の有形無形の影響力って排除できたのが父が死んで一年半たってからなの、。その大学教授も、突然後期の授業すっぽかして大学辞めて誰にも行き先を告げないででこかに引っ越していったの・・・。でも父の書斎から金の万年筆や琥珀のパイプやそういうものがみんな無くなっているの…あの大学教授、毎日来ては一人で父の書斎であちこちに電話していたから・・・。」
「いろいろあったんだね…。」
「父も含めて私たちみんな信頼していて家族ぐるみ・・・って言うことまではいかないけど、その大学教授夫妻とは親しくお付き合いしていたからね・・・。」
「でも香織さんの家ってお父さんがいた時は、ずっとお父さんが私物化していたんだよね。お父さんの理想の独文科教室にして・・・その大学教授ってその独文科教授の生徒というか弟子とっていった感じだったのかな…。」
「うん、そう・・・。私たちの家は父の私物になってしまっていて、父はそこに理想の独文科教室を作ってしまったの…。そこに私は相応しくないっていうのから、本八幡に島流しにされていたの…。十年弱…居たんだ・・・。本八幡の『カラスのわら人形荘』通称『がらわら荘』っていう古くて小さな安アパートにね・・・。」
「十年間も・・・。」
「うん。晩秋にそのアパートにやってきて、そして早春にアパート引き揚げて、九年半ぐらいかな・・・アパートに住んでいる人、入れ墨あるけど疲れ果てて顔色も悪い五十ぐらいの男の人とか・・・。」
「その間山形の家ではどうしていたの？」
「うちの父が次々と歴史評論とか小説書いては本に出していた。一冊も読んだ事ないけどね。」
「お堅いドイツ文学者だったんだよね。」
「そう・・・本の知識だけしか知らなくて、あとはクラシック音楽と登山とスキー・・・私が島流しにされているときにね、山形の父から電話があったの、何とかっていう銘柄の高級ワイン買って来い、近くに住んでいめる大学教授ん゛飲みたがっているから買って来いっていうの、むなんでもその大学教授の誕生日がすぐだから飲ませてやるっていうんだって・・・。」
「へ・・・。」
「それであちこち探して買ってきたんだ。で山形は本八幡よりも寒いから、こげ茶のダッフルコート来てワイン抱えて山形に帰ってきた…駅から歩いて、そして途中南高近くのミッシェルというケーキ屋さんでケーキかって…大きなケーキで四角くて赤いケーキ・・・なんていう名前だったかな・・・わたとしもパティシエールになりたいと思っていたから、ミッシェルの店内に入ってそして『もう今からじゃ遅いかな…』っていう気持になったの覚えているよ…。で家に着くと、父が『おうっ買ってきたか。』とワインを受け取り、後は私はドイツ文学者宅には相応しくないということで隅っこに隠され、例の近くの大学教授がやってきたというわけ。私が買ってきたミッシェルのケーキもその大学教授に出したと思う。で九時過ぎにその大学教授が帰ると父はワインの残りをその大学教授に持たせては私たちは後片付け…今思い出しても頭にくるよね。」
「ほんとだね・・・。よく耐えてきたね…。」
「だからその大学教授は父が死んだとき、私に『お前は使い走りに過ぎないんだからっ』っていう訳、私はそれが許せなくて・・・。しかも『僕が不利になるようにな余計なことは言うなよ。なんか余計なこと言ったら訴えるかな、こっちには知り合いの弁護士もいるんだからな、』と脅すし…。」
「そうか・・・結局あの業界もカネ次第で、相手に罪がなく悪いのは依頼者だと分かっていても、カネを積まれると何も悪いことをしていない弱い立場の相手をあの手この手でねじ伏せては依頼者を立てることになる・・・だから当然恨まれるし嫌われるしね…。そしてそのことで失ってしまう幸せもあるし・・・。」
「何かわかる、失われてしまう幸せ…。Оさん、今その幸せ、取り戻せた・・・？」
「うん、ここに来てパン屋さんの弟子入りさせてもらってからね…。」
「実はね、私が訴えるぞ、へこっちには弁護士ついているんだからな…って言われたのはあのときが二回目だったの・・・。その前はまだ父が存命中で、その時にね。会社やっている小母が急死したの、会社って宝飾や不動産とんだけど・・・で私を訴えのは従姉妹…私よりも年下の…もうその従姉妹の私への態度がすごく悪くて…。」
「ほ・・・。」
「従姉妹が『役所に用があるからアンタも来いっ』て呼び出されたの・・・。で従姉妹の高級マンションの前に行くと、白いSクラス・・・ベンツが止まっていたわけ…いつもは運転手の男の子が運転しているんだけど、その時従姉妹が運転席にいたの、で私が後ろのドア開けて乗り込もうとすると、従姉妹はカチッと運転席から後ろのドアをロックしてはバス停を指差しては『バスはこっちだよ、』というの、そして『港区役所だからね。。。遅れんじゃないよ！』というわけ…、」
「そりゃひどいっ。」
「その日は雨でね・・・。私は傘差してバス停に並ぶしかなかったのよ。そうしたらバス停で並んでいた四十ぐらいのサラリーマンの人が『ああいう奴はろくな目に言わないから…』と優しく声歩掛けてくれたり、私と同じ位の年のОLさんも『そうよ、居間にひどい目にあうからっ、』って行っては私を優しく受け入れてくれるの…その優しさで私は泣き崩れそうになったの・・・。で従姉妹にはボディボートのB君というガタイのいいの子と、Iさんというおばちゃんのメイドさんがいて、従姉妹はその二人の前でも私にひどい態度だちったの…だからこの二人、私に動じようしてくれていたの…。従姉妹はセレブだったから吉野家なんか絶対に行かないけど、ボディガードのBくんとメイドのIさんは庶民だから吉野家にいくの。そして私はB君Iさんと三人で吉野家に行って庶民トークしていたの。そこで従姉妹の悪口言っていたけど、その時に従姉妹の会社の財務状況知ったの…かなりヤバいって・・・・それで従姉妹となんとか絶縁することを本気で考えたの・・・。」
「従姉妹さんは香織さんが自分のボディガードやメイトさんと自分の知らないところで話したりあったりしたり怒りそうだね・・・それはどうだった？」
「たぶんそれバレたら怒ると思うけど、どうだろう・・・？」
「でどうなっての？」
「とにかくその後、私は従姉妹に訴えられたのよ…従姉妹の弁護士から内容証明が来て…びっくりして…」
「で香織さんも弁護士に頼んだ…？」
「そんなお金なかったから、どうしようかって思ったら、示談しろって行ってきたの、私が従姉妹の悪口をっていたから不法行為だって…従姉妹だっとさんざん私の悪口言っているのに・・・。」
「で香織さんどうしたの・・・？」
「命がけで従姉妹の弁護士のМ君にハニトラかけたの・・・これがうまくいってМ君は従姉妹の弁護士としては機能不全、井の頭公園で私の案件から手を引かせたの…。吉祥寺のコンテっていう喫茶店でそれやった・・・。あとはМ君は私のペースで・・・。」
「香織さんきれいだから・・・。」
「いやいやそんなことないよ…、。」
「でも大変だったね・・・ウルトラＣの逆転劇・・・。」
「ほんとにね・・・。その後従姉妹はМ弁護士に訴えられることになるんだけど…。そして従姉妹の会社は経営破綻して・・・。」
「それからは…。」
「時折年賀状が来たこともあるけど、自分の住所書いていないのね…ケータイの番号とメールアドレスだけ・・・。」
「・・・。」
「コロナ禍の少し前…にね…その従姉妹から突然連絡が来て、居間かに山形に行くから・・・というの、こっちは絶縁したつもりなのに…。絶対ヤバいとおもったの・・・だったらめちゃくちゃヤバかった。丁重にお引き取り願ってあとはもう絶縁…。とある観光地の旅館に住み込み出中居さんとかしているらしいけど・・・。かつてはベンツのSクラスやＳL乗り回してはエルメスのケリーやボリードなんかいくつも持っていたけど、コロナ禍直前にウチに来た時、もうぼろぼろのスニーカーによれよれのジーンズに洗いざらしのコットンのシャツ・・・。」
「香織さんの家、狙っていたんだね・・・。」
「それすぐわかった。」　
「それから従姉妹さんは・・・？」
「全然…もう絶縁しているから…。」

「・・・私もパン・・・焼こうかな…ブリオッシュなんか無理だけど…。クルミとレーズンの入ったライ麦系のリーンなパン・・・。サラダには私はいつでもライムバジルを添えるの…。」
「ライムバジル？」
「うん、ライムの香りのするバジル・・・。」

珈琲とシナモンレーズンロールとライムバジル