セミロングも、綺麗なそしてプラムのような甘酸っぱいオーラを放っていたYちゃんが、山形北高を出てそして仙台に行ったけど、その、Yちゃんが仙台の東北学院大学を出て再び山形に戻って来たのは、私が小学校三年の時...だろうか...

私の通ってきた千歳幼稚園近くの緑町のM会館に勤めているという。そんなYちゃんは北高時代のプラムのように甘酸っぱいオーラではなく、なにかダーリンティの香りにも似たラベンダー色のオーラを放って、そしてセミロングヘアをトレンチコートに流して訪ねてきた。

北高時代のような訛りも消え、どこかあか抜けしてそして何かしら奥行きのある大人の女性というオーラだ、

そんなYちゃん

「連れが待っているので...。」

といってうちに上がって紅茶を飲むことなく、玄関外に止まっている白い車に乗り込んで行った、

連れとはその白い車を運転していた男性の事なのだとわかり、そしてわたしは、もやはりYちゃんが北高時代のYちゃんとは違うYちゃんであり私たちとは別な世界にその「連れ」と一緒に居るのだと悟って寂しく感じたものだった。涙が出るほど寂しくそして悲しく感じたものだった。


ところでその頃私のあの日とはまだ一介の公務員であり決して糞文学者などではなかった。あの人の書いた本などは例えば本町の八文字屋などにならんでおらずあの人は郷土在住の作家などでもなかった。そしてその頃私は夕方テレビで

魔法使いサリー

の再放送なんかをよくみていた。

ちょうどその頃、私の父は職場で当時都内の大型書店K国屋書店に勤める湊臭二に出会っている。その後湊臭二は私たちの運命を紡ぐ私たちの家庭に大きく入り込んでは私たちの運命に大きな影響を与え続けた人物だ。150センチあるかないかの低身長、なぜか高級スーツや高級時計などを身に付けては知識自慢経験自慢や有力者や有名人と親交があるという話ばかりの人物で、私の父あの人の死後も頻繁にやって来てあの手この手で私たちからお金を引き出そうとしていた胡散臭い人物だ。


さて、私がデニムショートパンツにテンガロンハットを被っては友だちの入る緑町のアパートなどに遊びにいっては時には友だちの通っている緑町のピアノ教室に顔を出していたあの頃、かつて私たちが山大前東原町の官舎にいたときに官舎に来て勉強していた当時北高生のYちゃんはすでに仙台の東北学院大学を卒業して緑町のM会館に勤めては白い車に乗る「連れ」つまり、男性と交際していた頃だ。結局Yちゃんはその白い車の男性とは結婚しなかった、ある時、緑町のM会館帰りにYちゃんがやって来たことがある、その当時私たちはもう山大前東原町の官舎を引き上げ、山大裏下小白川の一軒家に住んでいた。あの家はマントルピースと作り付けのガスオーブンのある洋風の家だったが、あの家がある当時の下白川は、まだホップ棚やさくらんぼ園地が残る緑豊かなな町並みだった。そんな下小白川の町に、トレンチコートに身を包んだMちゃんが何かしら懐かしそうに訪ねてきた。そして食堂でコーヒーをのみながら思いで話をしたものだった。久しぶりだから晩御飯をどこかで食べようかとかそんな話を出たと思う。トレンチコートを脱ぐとブラウスにスカートのYちゃんはまさしくダーシリンティなようなラベンダー色のオーラを放っていてなにかとても奥深く感じた。


その晩、綺麗なY値やんか一人で山大裏下白川から山大前東原町まで買えるのは痴漢などのいゆかもしれないから心配(あの頃山大北側の長屋とかにはとても品の悪い方々がすんで居られて長屋で夕食をとったガマガエルのような男性の方が、下着のパンツ一枚で山大北側の公道に出て来られてはお腹をさすっては大きな音でゲップをするなどという光景が常に見られた)なので私たちも山大前東原町のYちゃんの家まで送る事になった。

宵の小白川からは当時蔵王の三本木沼のテレビ塔の赤いライトがよく見えてそれが私たちの魂の故郷への郷愁を誘ったものだった。