義に生きた「越後の龍」
謙信の生涯のライバルは、やはり信玄といえよう。
その好敵手の信玄からも、義理に厚い謙信の性格は信頼された。
信玄が駿河の今川氏から塩止めを受け、山国の甲斐が塩不足になった時、謙信は信玄に越後の塩を送った。
「敵に塩を送る」という言葉は、ここから生まれたといわれている。
これらのことから、信玄は死に臨み、跡継ぎの勝頼に「自分の死後は越後の謙信を頼れ」と遺言したほどである。
また、大の酒好きで肴は梅干。
過度の飲酒と塩辛いものを摂り過ぎたせいか、天正5年(1577)、春日山城にて急死。手取川の戦いの後、謙信は越後に帰還し、次なる遠征の大動員令を発したが、その直後における突然の死であった。
倒れてから昏睡状態に陥った症状により、死因は脳溢血の可能性が高いといわれている。
信玄の場合と同じく他にも死因説があり、厠で用を足していたところ信長の刺客に槍で刺されたとか、信長による毒殺などといった説もある。辞世は「四十九年、一睡の夢、一期の栄華、一杯の酒」であった。
「毘」の旗印のもと敵なし
同じく永禄4年には、関東管領・上杉憲政の要請により山内上杉家の家督と関東管領職を相続。
以来、関東管領の権威を重んじ、関東へ出兵すること17回、生涯では70回もの合戦を行ったといわれるが、ほとんど敗け知らず。
自らを毘沙門天の化身として信じ、向かうところ敵なしの天才型戦術家であった。
「毘」の文字を使った旗印をひるがえし、銃弾や弓矢は我に当たらず、と恐れることなく突進し敵を震え上がらせた。
特に加賀・手取川の戦いでは、鉄砲隊を編制した織田軍に対して、火縄の使えない雨夜に奇襲攻撃。
この戦いで織田軍は2千人が戦死、さらに数千人が手取川で溺死するという大敗を喫した。こうした謙信の戦いで特筆すべきこと、それは単に領土拡大や私利私欲のためではなく、義を重んじた戦いを展開したことにあるといわれる。
武田信玄と川中島で度々戦う
享禄3年(1530)、越後守護代・長尾為景を父として春日山城に生まれた。
幼名は虎千代。
武田信玄のケースと同じく、謙信もまた幼年期に父との仲が良くなく寺に預けられた。しかし、やがて元服、越後の内乱を治める初陣を飾り、天文17年(1548)には病弱な兄に代わり家督を相続、越後守護代となった。その5年後の天文22年から5度にわたって繰り広げられた川中島の戦いは、あまりにも有名
である。
いきさつは、武田信玄によって領地を追われた信濃の豪族が謙信を頼ってきたことにある。そのため謙信は北信濃の川中島へ度々出兵、信玄と対峙した。
中でも永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは最大の合戦となり、両軍入り乱れて激しい白兵戦を展開。
謙信は単騎で信玄の本陣におどり込み、太刀で馬上から信玄に斬りつけたところ、信玄はその軍配でハシッと受け止めたという伝説が残っている。