つゆのです。

 

2年ぶりの更新みたいです。

 

またブログに帰って参りました。

 

 

 

久しぶりなのでまずは最近思っていることをつらつらと書いていきます。

 

 

 

最近はラムネを摂取しています。

 

今書いているこの瞬間も、ラムネを片手に机に向かっています。

 

でも食べ過ぎは糖分過多で未来に影響を及ぼすようなので、

 

オリオンの30円の駄菓子を1日3缶までと条件を定めています。

 

 

 

ここで考えたいのが、

 

生命を持つ我々動物は欲求に従って生きているので、

 

即ち今したいことを為しているに過ぎないのであって、

 

今この瞬間だけを考えれば、ラムネをもっとたらふく摂取した方が良いのであります。

 

しかし、来るかも分からない未来のことを心配し、欲求を制御するのが人間なのだとすると、

 

果たして知能とはそんなに有難いものなのかということを問いたい。

 

 

 

 

未来って何だろーか。

 

将来って見たことあるのか。

 

分かるのは「今」を感じるこの心だけじゃないか。

 

「今」はこんなにもドクドクしてるのに、

 

未来が頭をよぎるとなんで霞むんだろう。

 

ぼくたちは死なない為に生きている。

 

長生きするために生きている。

 

死ぬのは怖いから。

 

果たして知能とはそんなに有難いものなのかということを問いたい。

 

 

 

 

 

 

ぼくは音楽を作っています。

 

2年前と随分状況も違います。

 

ある程度作りたいものも固まってきたし、聴いてくれる人もいる。

 

変わらないのは、音楽が好きだということだ。

 

自分のことは自分が一番分からない。

 

美術は自分が美しいと思うものを表現することだとすると、

 

醜いものを表現したときにこぼれ落ちる救いのような陰鬱としたものも美しい。

 

「美」とは人類の理想であるとしたときに少なからず矛盾が発生する。

 

つまり何が言いたいかというと、

 

例えば黄金比の女の子を描くことに躊躇する自分がいるということだ。

 

ぼくは芸術を追うものとして、理想ではなく、リアルを追いたいと

 

そう思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくはスポーツをやってきた。

 

2年前社会人になってからは資本主義の中で生きている。

 

競争社会でしばしば生きている。

 

それでいて、まるで競争の類いとは無縁であるかのように振る舞うのである。

 

思考の話だが、

 

初めから競争があるのではなく、当人が競争と自覚した瞬間に競争になるのではないかという仮説。

 

ぼくは、競争を否定する。

 

反抗はしない。

 

ただ、否定するのである。

 

 

 

 

 

 

ぼく個人の話です。

 

学生時代の青春がスポーツであるとして、

 

今の青春が音楽であるとすると、

 

芸術とはなかなか奥深いものだなと、つくづく思う。

 

スポーツや勉学は、

 

それこそ先生やコーチに罵倒されたこともしばしばあった。

 

挫けたときに湧き上がるあの反骨心を、

 

ぼくは「少年ジャンプ的精神論」と呼んでいる。

 

 

 

 

 

ぼくは、「雨のち好き」という1日で完成してしまった曲がある。

 

つまり何が言いたいかというと、

 

良い作品(人の心を打つ作品)は風呂上がりの鼻歌で生まれるように、

 

ノートの端っこに不意に描いた落書きなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方で、苦心した末に完成させた曲もある。

 

「少女」は半年ほどかかった。

 

作者にとっては、こういった作品の方が案外思い入れがあるものである。

 

ただ、そんな生産者の都合とは一切関係ないのが市場の厳しさなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

スポーツで大切なのは根性、忍耐、努力。

 

芸術はそれよりも、脱力、リラックス、自然体。

 

そんな具合がするから奥深いのである。

 

頑張らなくていい世界なんてのは、自分の辞書にはずっとなかった価値観だ。

 

 

 

 

 

 

掻き鳴らすギターの一部となれ。

 

降り止まない雨に溶けろ。

 

扇風機の風を感じるこの心に、

 

グルーヴは生きている。

 

 

 

ぼくはこんな涼し気なフレーズの歌がつくりたい。

 

これでピンときてくれたら、

 

あなたとは趣味が合いそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと溜めてたもの、吐き出してていいですか。

 

不条理で埋め尽くされた今の世界に、

 

生き場所はないし、

 

かといって死に場所もない。

 

 

 

ぼくらは「繋がり」という何とも面倒なしがらみに絡まって生きている。

 

切れるか?

 

切れやしない。

 

 

お母さんが大好きだし、お父さんが大好きだ。

 

学校に行かなかったら、親になんて言われるだろう。

 

レールに乗らなかったら、親に失望されるだろう。

 

好きに生きるくらいなら、親に嫌われたくない。

 

ぼくは理想を生きることは諦めたのです。

 

 

 

 

 

なぜ生きるのか?

 

しょうがないから。

 

なぜ勉強するのか?

 

しょうがないから。

 

なぜ働くのか?

 

しょうがないからだ。

 

 

 

「自由」とは何か。

 

好きに生きることではない。

 

好きに生きると、かえって嫌われる。

 

これは「不自由」ではないか?

 

 

 

 

 

思うに、

 

「自由」は放課後にしかない。

 

ぼくは「学校」を「戦場」と定義し、

 

「放課後」を「自由」と再定義することにした。

 

「戦場」という「不自由」がない限り、

 

「自由」もまた存在しないのである。

 

何という皮肉だろうか?

 

 

 

「競争」の世界は「調和」の対極にある。

 

和を以て貴しとなす世界は全然訪れないよ、聖徳太子さん。

 

 

 

 

 

 

放課後から生み出される音楽こそ、

 

ぼくの音楽。

 

いつの日か世界が調和で埋め尽くされたらいいな、と思う。

 

また、来るかも分からない未来のことを考えてしまった。

 

 

 

憂さを晴らす音楽もいいが、

 

世界を晴らす人になりたい。

 

と思う。

 

この反骨心は「少年ジャンプ的精神論」だろうか?

 

だとするならば、結局ぼくも理想を追っているのか。

 

。。。

 

だって、ジャンプ好きなんだもん。

 

 

 

 

読んでくれてありがとう。

 

また、書きます。

 

お互いがんばりましょう。

 

 

つゆの