一人旅をしていた頃から早くも一年が経ち、やっと腰を据えて仕事をするようになりました。
今まではどこか若さからくる其の場凌ぎの考えで仕事場を転々としておりましたが、、
しかしながら、職柄についてはずっと変わらず、建築一筋でここまで来ました。
15歳の頃、日雇で土木の手伝いに行ったのが最初でしょうか。
1日8000円の給料は、15歳にとっては大金でした。同じ歳の子が高校に行っている間、汗だくで泥だらけになりながらも働き8000円が入った茶封筒を財布に押し込み帰ってた事を今思い出します。ちょうど9年前になります。
なかなか、客観的に自分を見つめることが出来ずにただ目先の事しか見えてませんでした。今もそうかもしれませんが、、
求人の情報を閲覧し、職種も分からずに給料に惹かれ直ぐ電話。
いい家庭環境で育ちましたから、言葉遣いも他の15歳なんかよりはまともで、落ち着いていたとは思います。そんなところを気に入ってくれる方も多く、私の行く先々ではいつも恩師が居ました。
鉄骨鳶の社長さん。と言っても独立したてでまだ前の会社から仕事は全てもらっている状況だったのですが、その一人親方の下で仕事をしだしたのが16歳の頃。
休憩中詰所に入る親方達ですが、私は日雇いの名残か詰所に入っていいものか分からず、外で一服していました。、
これを知った親方はビックリしてそれから私を可愛がってくれるようになりました。
長期の出張が多く、2人でよく飲みに行きました。私は16歳なのでもちろんそんなに飲めないのですが、梅酒ロックは飲めると言ってついて行ってました。
なんか楽しかったんです。
何がか分からないけど、高校生になってたらこんな経験出来ないような事ばかりで、刺激的でした。勿論仕事となれば私も負けじと頑張りましたが。
そこに勤めて1年が経とうとする頃、何と無く私も客観的に自分自身を見つめれるようになってきました。
ゼネコンの現場には多業種の職人さん達が居ます。汚い格好をして日雇いの様なおじさん達。綺麗な作業着で図面を見てあぁだこうだ喋っているおじさん達。
ベルトにジャラジャラとレンチをぶら下げ詰所に入ってくる鉄骨鳶。(私達)
この詰所の中でもいろんな世界があったのを実感しました。
建築を勉強しないで今私が出来ている仕事は、誰にでもできる仕事なんじゃないかと、この仕事していつまで身体がもつのかと、この仕事をしている自分の息子は奥さんはどんな人なんだろう、とか考える様になりました。
でも、学歴のない私は今更どうしようも出来ずにただ無知故の世の中の壁と早くもぶつかったのでした。
そこでやっと高校に行く理由を身を以て実感しました。しかし、今から高校に行くことはやはり自分の妙なプライドが許さなく、ただ今の職を辞めるという決断のみをするに至ったわけであります。
そうして、私は17歳無職の少年となりました。よくニュースなどで、このパターンを耳にしていたので、私もそっち側の人間なのかと改めて痛感するものの、全く身動きが取れない状態でした。
当時は不良の友達や先輩しか私の周りには居ませんでしたから、何をするにも法をかすめるどころじゃすまない事ばかりで、このまま私はどうなるのか、と赤色灯を回しながら迫るパトカーをバイクのサイドミラーで見つめて思っていたりしました。
無職になり半年が過ぎ、前職の貯金も尽きてきた頃父がチラシを食卓に投げ捨てる様に置き、ここに行け。と言いました。
大工育成塾 です。
大工か、、、でも大工って仕事内容は?
わからない、、修行って大工はそんなに難しいの?俺になれる?
色々と父に質問しました。飲んでいた父は足を組み踏ん反り返って答えてましたが、呂律が回ってなかった為、何を言っていたのかわかりませんでしたが、俺の友達がその受け入れ工務店とやらになってくれるか相談してみる。と、まだ行くとも言ってないのに全く身勝手な人だ。でも父がそこまで半ば強引的に言うのも何かそれに裏付けされたものがあるんだろうと、薄らその頃感じていました。何をしていいかわからなかった当時の私でしたから、行かない理由は有りませんでした。
電話で父が友達の工務店の社長さんに了承を得たらしく、明日挨拶に行くぞと言ってきた。
カッコつけたかったのか、子供として見られたくなかったのか、いろんな感情が複雑に混じって私は当日の朝まで拒絶し、行くなら俺1人で行く。となかなか言うことを聞かなかったのを覚えてます。
結局はなかなか引かない両親に負け仕方なく同行する事になりました。
その社長さんと言うのは父と仲良しで、父の話では少し聞いたことがあったのですが、実際に合うのは初めてでした。
眉も細く剃り込み、茶髪で立ち上がった髪の毛で会う事になって、、今考えると考えられませんが、、
社長が奥から出てきて応接室に私達家族と向かい合う様に社長が座り、父の話を聞きながら社長は私から目を離しませんでした。ジーッと見つめるわけではなく、体制を変えながら上目でみたり横目でみたり、踏ん反り返って見下ろしてみたり。
落ち着きのない人だなと思いました。
私も人の目を見て喋るのは恥ずかしいと言うか、苦手でしたから社長の目線を合わさぬ様応接室に飾ってあるもの、本棚の本を眺めていました。
鋸はもちろん見たことあるのですが、当時見た事ない道具が棚の上に飾ってありました。鉋、鑿です。
そんなこんなで話も進み、あまりお金はあげれないけど、うちで面倒見ますよと社長が言いました。
面倒見ますって、、情けなかった。
今考えると何も出来ないクソガキを1人知り合いの子供だからと情に駆られて引き受けてくれたんだと思うと感謝に尽きるのですが、その頃は怒りしか湧かなかったんです。
その話をしたのが3月の半ば。ちょうど今から7年前になります。
春分の日の次の日から仕事始めと決まり、まだ車の免許がなかった私は、原チャリでヘルメットも被らずナンバーもしゃくりあげて会社に来ましたら、社長に凄い顔で怒られたのを覚えています。
あんだけ怒ってたのに、僕を車に乗るよう言って乗り込むとケロっとした顔で、新築の現場を回ろうと片道1時間する現場に連れて行かされました。
そこで見た家が私のスタートだったのかと思います。
黒い外壁。焼杉の板を貼っていた。
勿論、焼杉なんて材料はその頃知らないです。
玄関の引き違い戸を開けると、屋内から木の匂いが漂ってハァーと言ってしまうような感じでした。
私と家との出会いです。つづく