このところ、夜中の読書が増えていた。

実は読書が苦手と言う思い込みから抜けられない私でして(笑)

必要な書籍を読むというのがものすごいプレッシャーになって逃げまくる私がいる

今回、主人が資産運用のことで「この本読んでみて」と渡してくれた本がある。

ひと言「サッと読めばいいから、斜め読みでいいから」と優しそうな言葉をおまけにつけてくれた。

でもね、、、、サッと読む、斜め読み、、、できたら、苦労してないんだけどねぇ、と苦笑い。

単行本だけど、老眼鏡が必要な字の大きさ(笑)ではあるけれど、字数自体はそれほど多くなく、びっしりではない。

ぱらぱら開いてみて、ちょっとホッとして読み始める



さっき読み終わって「はい!読んだよ~」って言ったら、ものすごく驚いて「あなたにしてはすごい早さだね」っと


どんだけ読書が遅い私でしょって感じですけど。

さすがに夜中の読書タイムは、集中してるんでしょう、行きつ戻りつが少ない。

私の癖?!不器用なところは、読み飛ばすと後で「アレっ?!」と戻って読むことになってしまうところ(爆)

ほんとにね、、、自分でもどうにかならんの~~~と言いたいんだけど、ダメなのよねぇ

かといって、じっくり頭に詰め込んでるかってことはイコールではないのだけど



気づいたことがある。

カウンセリング、セラピー、心理関係の本だと、じっくり、いろいろ頭巡らせて、自分と照らし合わせて読むし、理解できないところがどうしても行きつ戻りつになるし、だから余計に時間もかかるし、という感じ。

今回の分野は基本、主人担当の分野(と勝手に決めている)なので、理解できたらラッキー的な読み方をしていたんだなぁ、と。

理解できなくても、戻らないし、あ~そっか、と思うことも、さっと流していた感じ。



読む本によって自分の中にこんな大きな差があることがおもしろい。



みつほが亡くなった頃には、亡くなるとどうなるのか、魂って存在するのか、だったらその世界ってどんな世界なんだろう、とか、一生懸命に読んでいた。

理解する前提がほとんどなかったので、ただただ読んだ。

それでも遅いことには違いないんだけれど(笑)

そのうちに、魂は永遠である、その理解は肉体を持って生きる私の頭の容量を遥かにオーバーしているので理解できなくても当たり前、でも、生きている、という証を探す読書になっていった。

そして、私の中でそれが真実になっていった。

もちろん読書だけでなく、7年半のあがきがその確信をもたらしてくれたのだけど。

悲しみは無くなりはしないけれど、あの日から

「お母さんは今のみつほの幸せを邪魔することだけはしないからね。心配かけないようにするからね。」(天国で幸せに暮らせるようにとの願い)

毎晩泣きながら寝ていた日々を思うと、楽になっている自分と確信を持っている自分を感じている。



今日の読書終了は、とってもおもしろい気づきになった