「石橋を叩いて渡る」

これは日本にあるよく知られた諺の1つ。
軽はずみな行動を避けよ、足元をすくわれるぞ、慎重に安全を確かめてから行けよ、

という、ものですよね。

というのは、橋を渡っている最中に橋が崩れたら大変だもん。
川に落っこちるだけで済めばいいけど、命を落とすかも知れないし、命の次に大事なものも失ってしまうかもしれない。

でも、慎重に行くのはいいんだけど。
慎重に慎重、さらに慎重、、、
こんな感じで続いていったら、どうなっていくと思う?

慎重のエンドレス。
ずーっと、それが続く。
どこまでも。

石橋を叩いて叩いて叩いて…
ええっと、結局、渡れない…。

もしかしたら安全点検にばっかり
注意が向いてしまって最初の動きというか、
任務というのか完全に忘れてしまっていたりしてね。

そんなことも考えられる。

時間切れ、タイムオーバー!ってヤツに引っかかってしまったりして。

笑えないけど実際ある話かもしれない。

慎重さはいいよ。
慎重さは良いけど、なんにもさっきから進んでいないよ。
慎重さはいいよ。
慎重さはいいけど、もうその辺にしといたら…。
悪いけど、遅過ぎるよ。
これ以上、待っていられないよ。

仕事でも一緒。
プライベートでも一緒。
この考え方は変わらない。

作家で、ひろさちやさんが<「論語」生き方のヒント>~って、本を書かれています。

約2500年前の、お隣の大陸の孔子の教えが論語として今に伝わっています。
論語は漢字ばっかりだし、難しいところも多いですけどね。
論語は孔子の教えだけど、著者は孔子本人ではなく孔子の弟子によるものがまとめられたものです。

儒教の基礎が論語ですかね。

論語の一説にこんな文章が登場する。

<季文子(きぶんし)、三たび思いてしかる後に行なう。子、これを聞きて曰わく、再びすればこれ可なり>

季文子というのは人物の名で、子というのが孔子本人を指しています。

季文子は春秋戦国時代のお隣の大陸において、魯という国がありました。
その魯で家老を務めた程の人物であったから、実力者であったと思われます。
孔子の誕生の十数年前に亡くなっていて、慎重さで知られていたようです。

何事をするにも三度考えて行動したので、弟子の1人は、賞賛する形で季文子を引き合いに出しました。

ところが孔子は、再びすればこれ可なり、と切り返している。。。

「三度は多過ぎる。二度熟慮すれば充分だよ」
という、意味らしい。

人間の勘というのは、あながち馬鹿にできないようです。
テストなんかじゃ悩んだ揚げ句に山勘が外れ
てしまうこともあるけど、
でも悩んで迷う前の一番最初の直観が案外正解だったりすることがあるようです。

何か嫌な予感がする。
虫の知らせがある。
幸先いい感じだぞ。
これは手応えありそうだ。

そんな勘が現実に存在する。
女の勘の鋭さには、脱帽してしまう亭主や男もどこかにいるのではなかろうか。

物事を決める時、判断する時。
こんな考え方をするものなのかなぁ?というのが提案されていました。

1:物事を決めるとき、いちばん大事なのは直観です。たいていの場合、直観が正しいようです。

ただし、

2:直観だけでは頼りないから、もう一度、二度は考えましょう。
でも、そこで抑えておきなさいよ。

3:どちらでもいいと直観的に思えたときは、考えるだけ時間の無駄。
デタラメに決めなさい。

こんな説明がされてました。

3番目に関してなんですがね。
僕、はじめて知った言葉がありました。

ビュリダンのロバ!です。
ビュリダンのロバでっせ、でっせ。

14世紀のフランスの哲学者ビュリダンが提起した問題と書かれていたけど。
心理学用語のようですね。
本当にビュリダンが発祥元かどうかは定かではないようです。

これはたとえ話で、

・飢えたロバが登場する。
・道の分岐点にさしかかる
・それぞれ、どちらの道に進んでいっても
同じ量の乾し草あり。
・また乾し草までの距離も同じく一緒。
・ロバはどちらの道を行くか迷ってしまって、そのまま餌にありつけずに餓死した。

こういう話なんだそうです。

可でもなく不可でもなく、
どっちもどっちだなぁと悩んで決めあぐねているのなら、
どっちでもいいから進んでみるといいみたい。
じゃないと、野垂れ死んでしまうよ、それでいいのかい?ってコトらしいんだ。

まとめ!

出来れば直観を大切にする。
心配なら二度まで考える。
どっちを選んでも良さそうなら、いずれかを選ぶ。


石橋を叩いて渡るに留める。
石橋を繰り返し何回も何回も叩かないこと。

ビュリダンのロバは、
飢えていて、どちらの乾し草を食べるか迷っているうちに餓死してしまった。

コレって
二兎を追うもの一兎も獲ず、
に、なんか似ている気がしたな。

物事を決めるとき、いちばん大事なのは直観だそうです。
孔子に言わせると季文子はナンセンスだそうです。
三度は多い、二度熟慮すれば充分だそうです。

さて、これが活きてくる時が僕にもあるだろうか・・・・・(><@)(>_<)


モデルのような身体。
これを一般的には望むんじゃなかろうか。

綺麗!
芸術!
スタイルいい!
洗練された!
スマートな!
セクシー!
かっこいい!
えろかっこいい!
文句なし!
美しい!

そんな賞賛の言葉、ほめ言葉の数々、
一瞬で見るものを虜にし、惹きつけ、魅了する。

そうなりたくはないだろうか?
そこまで望んだりはしない、そこそこで
留まっていればいい方ですか。

モデルといっても、女の人ばかりではない。
男のモデル、メンズモデルもいる。
小さな子どものモデルもいる。
主婦のモデルもいる。
赤ちゃんのモデルだっているし、
犬猫、身近な動物やペットのモデルもいる。
マッチョのモデルだっているよ。
ヌードモデルだっている。

いろんなモデルがいる。

商売戦略の一環として起用される者、
自らの身体を売りに仕事している者、
芸術となり絵になる者、
自らの美を保つためにモデルになる者、
自己意識、ステータスの高い者、
ナルシスト、
観客やお客さんのためにモデルになる者、、、
生きた証しを記念として残すため、、、

「ダ・ヴィンチ7つの法則」
この本にあった、個人的に面白かったところを続いて書くね。

あなたの人生を劇的に変える身体づくり!
という章あり。

真っ先にダ・ヴィンチに関するゲーテの評が書かれていた。

こうあった。
「ハンサムで素晴らしい身体つき、彼こそ完璧な人間のモデルのようだった」
と。

レオナルド・ダ・ヴィンチは強靭な肉体の持ち主だったようです。

彼は、ウォーキング、乗馬、水泳、フェンシングを日常の中で好んで運動に取り入れ。
彼の解剖学ノートには、動脈硬化症が老いを促進すること、また、その原因は運動不足であることが書かれていたとか。

彼は菜食主義者で、完璧な料理人でもあり
良く考えられた食事が健康と幸福の鍵であると信じていた。

彼はまた、自分の身体の左右のバランスをよく考えて、絵を描くこと、文字を書くことが右手でも左手でもできるように訓練していた。
彼は、心理的、肉体的にも器用な人物だった。

このようにレオナルド・ダ・ヴィンチについての説明がされていた。

まさしく、
完璧!
非の打ち所がない。

ない、ない、無さすぎる!!
まるで、この地上に舞い降りた神様のような。

憧れちゃいますね。

モデルのような身体になるには、
彼をお手本として真似ると良いのかもしれません。
もっとも素質そのものもあるだろうけど。

彼はもう同じ時代に生きてはいなくて、
過去の人だけど。

彼が残した名作の数々は今に伝えられている。
それも世界じゅうに知られている。
今も教科書に載せられ、授業で取り扱われ、
歴史を刻み、愛され、感動を伝えている。

生きた彼が、この地上に時を同じくしていたのなら。
ゲーテが絶賛する程の、
その完璧なモデルのような身体を、
僕も見たかったな。

彼の裸を、肉体を想像する。
一方で自分の裸を、鏡でみる。
全身をそこに映し出す。

この違いはあって当然のもの、
それは僕が一番よく知っている。

この本を読んで面白かったところは、
鏡に全身を映して観察しよう!
そしてスケッチしよう!
…ここだった(笑)
…まさか、そんな発想があったなんてね。

勇気があれば、裸でこれをするとよい、って書かれていたよ。(^^)v

身体のバランスがどうかとか、
左右差はどうかとか、
緊張が走っているところ、
疲れがみえるところ、
エネルギーがなくなっているところ、
逆にここは生命力を感じるところ、

そういうのをよく見分けて、観察して知るんだって。

まずは知るところから。
何でもスタートはそこから。

鏡に自らの体を映し出して、観察して、スケッチするのは身体意識を高めるためのトレーニングでありエクササイズなんだって。

面白そうだけど。
ちょっと。。。( ´艸`)
やるかどうかは未定。

これを読んだ人で、誰か、やってみる人いたりするかな?
そっちも実は内心、期待しております。
大丈夫、あなたなら。
大丈夫、君なら出来るよ。

だってさ、
スタイル良いでしょ?( ´艸`)

モデルのような身体。
この日記はタメになりました?

紹介したくて書きましたよんヽ(^0^)ノ
あのな、今から表題の日記を書くことにするな。
読める人は読んでくんろ。
カエル、けろけろ、けろけろけろっぴ(^^)v

僕もよく失敗する話やねん。
また、この話が、出てきたやんけ。
って、、、なぜに、まだら関西トーク?(笑)

でも、この表現方法はまっこと面白い!
面白いし的確やね。

請求書の祈り。
領収書の祈り。

<ひろさちや>さんが紹介してくれました。
ひろさちやさんは、おばあちゃんから教わったことだそうです。
それも子どもの頃に。

、、、よく、覚えていましたね。
印象に残る特別な存在のおばあちゃんだったのでしょう。

「論語」生き方のヒント、に出てきたお話です。

ひろさちやさんは、子どもの頃に祖母様からこう教わったそうです。

おばあちゃんはわたしに毎晩、ほとけさまを拝むことを命じましたが、そのほとけさまを拝むときに、

「お願いごとをしたらあかん、<ありがとうございます>と拝むんや…」
と言っていたんだそうです。

ひろさちやさんは、その言い付けをすぐに忘れてしまって
おばあちゃんは、忘れた頃を見計らって

「けさはどう言って拝んできたか?」
尋ねるんだって。

彼はおばあちゃんに答える。
「あんな、おばあちゃん、今日は算数の試験があるねん。そやから、<百点とらせてください>と拝んできた」

・・・
聞く人によって、この孫は、目標意識が高くてたいへん宜しい。
そうか、そうか、がんばるんだぞ、
自慢の孫や…となるところ。。。

でも、このおばあちゃんは違う。

おばあちゃんは言う。
「あれほど、お願いごとをするなーと教えてあったのに…。あかんやんか。もう一遍拝み直しておいで。」
と、叱ったそうです。

大人になった、ひろさちやさんは、おばあちゃんの教えが正しかったことを、当時を振り返って確信するそうです。

そして、著者は独特に命名しました。

それが、
「請求書の祈り」と、「領収書の祈り」。

これについて、さらに説明は続きます。

神仏にお願いごとばかりする祈りは、要するに神仏に請求書を突きつけているわけで、これは「請求書の祈り」です。
このような願いごとをするなと祖母は教えてくれた、と。。。

祖母は「ありがとうございます」と祈れ、と教えてくれましたが、それが「領収書の祈り」なのだと。

請求書の祈り、つまりお願いごとの祈りはなぜしてはいけないのか?

……請求書の祈りをするとき、人間は惨めになるからです。
文中にこう出てきた。…。
人間は現状に不満があるとき、請求書の祈りをする。
でも、問題は現状に不満があることそのものであって現状を改変することではないのです、と。。

仮に状況が改善されても、新しい問題は次々に襲う、身に降りかかる、人間の欲もどこまでも続く。
満ち足りるということがない。
いつも不満タラタラ。
不満を持っていることそのものを止めない限り、決して解放はされない。

ある画家の話も紹介してくれました。

ある画家が鬱病にかかりました。
精神科医の治療を受けて、幸いなことに
めでたく鬱病が治りました。
願ってもない幸せですよね、本人も喜んだと思います。

ところが、それは画家の不幸にもなりました。

鬱病が治った途端に、今度、その画家の描く絵は売れなくなったそうです。
彼は鬱病だから、おもしろい絵を描けていたのです、
それが治って普通の人になると、ありきたりな絵しか描けなくなったわけです、、、
と、いう説明。

どんな祈りを神仏に捧げるか、
神仏とまではいかずとも、
心の中で何を思うか、
その胸に宿し、祈っているのか。

お願いごとの祈りではなく、感謝の祈り。
これこれこうなりますように、これを与えてください、これを叶えてください、ではなく、今の恵まれた状態と幸せにありがたく感謝すること。

請求書の祈りではなく、領収書の祈りをすること。

誰に?

神仏かもしれないし、
目にみえない何らかの働きにかもしれないし、
この命にかもしれないし、
両親にかもしれないし、
ご縁でつながる人にかもしれない。
出来事にかもしれない。

じつは、僕もよく失敗するんです。
じつは、僕もよく請求書の祈りをしちゃっている自分がいることに気付かされます。
請求書の祈りをしている自分を認めます。

それじゃ、いけないよね。

確かに受け取りましたよ、という、
領収書の祈り。
<ありがとうございます>が、
きちんと言えたらいいね。
そうなりたいものです。

メドゥーサとペガサス♪
この意外な関係について初めて知ることがありました。

メドゥーサとは怪物ですよね。
ギリシャ神話に出てくるもので、
その姿はみるもおぞましい・・・
海の波に囲まれた岩のようなところにいて、
美しいアンドロメダだっけ、縛りつけている。

そこへアンドロメダを助けに来たの勇者ペルセウス。
でもまともに闘っては倒せない怪物、それがメドゥーサ!髪が蛇になっている女で、
その顔をまともに見れば、見た人間はみな石になってしまうという…。

そのメドゥーサと、
今度はペガサス!

ペガサスは天空を駆ける白馬ですよね。
真っ白な美しい馬で、天使のように大きな翼を持ち、自由に空を飛ぶことができる。
駿馬の代名詞でオリンポスの12神の最高神ゼウスから雷を預かり世界各地に運ぶ馬。

雷鳴が轟き稲妻が光れば、ペガサスが電光石火の勢いとスピードで飛び去っているという。

この似ても似つかないようなものたちが、実は親子だったなんて。
ペガサスがオスかメスかどちらかはわかりません。
でもメドゥーサは怪物ですが、これは元は女で、ペガサスの母親に当たるのだそうです。

なんだか信じられないでしょ?
じゃあ父親は誰だ!?って話ですよ。

メドゥーサは元から蛇頭の女メドゥーサではなかったそうなんです。
メドゥーサは最初から化け物なんかじゃなくて、もとはとても美しい娘だったんだって。

でもね、彼女の場合はその美しさが仇になったようなんです。
メドゥーサは美しさゆえに、あろうことかオリンポスの12神の1人、海の神ポセイドンにレイプされてしまったんだって。

しかもその、レイプ現場がまずかった!
そのレイプ現場が、やはり12神のうちの1人、戦いの女神アテナの神殿だったようで、
アテナはカンカンに激怒する。
その怒りはポセイドンにではなくてメドゥーサに向けられて、
〈神殿をよくも汚してくれたわねー!!!>

アテナによって蛇の髪の毛の、見るものを全て石に変えてしまう怪物、おぞましい生き物に変えられてしまったようです。

ギリシャ神話の中では、レイプとはいえ神と寝る女性は間違いなく妊娠するんだそうです。
そして生まれたのが、気高いペガサスだそうです。

でも、蛇頭の女に変えられてしまったあとで、普通の誕生の仕方ではなかったようですね。

子ペガサスの誕生と
母メドゥーサの出産のシーンはこういう形だったそうです。
それを今から話します。

先にも述べた勇者ペルセウスによってメドゥーサは倒され退治されてしまう訳ですが、

勇者ペルセウスが死闘の末にメドゥーサの首を、その顔を見ないようにしながら切り落とし、
彼が、蛇の髪を掴んでその首を掲げたときに、首から血が滴って地面に落ちると、そこからペガサスが飛び出してきたんだそうです。

ペガサスとメドゥーサは似ても似つかないようにみえますが、どちらも立派な翼を持っていたんだそうです。

なんか、、、あれなんですね。

神話の世界になると、妊娠して生まれてきた子どもはいきなり成人というか大人なんですね。
びっくりです!
しかも馬だし!
それも特別な神の子の白馬!

僕は「妖精・天使、眠れないほど面白い事典」を読んで、

メドゥーサとペガサスの関係を知りました。
まさか母と子の関係だったなんて!

メドゥーサもかわいそうですよね。

望んで男の神様と関係持ったわけじゃないんです。
レイプされたんですよ。

父は海の神ポセイドン
母はメドゥーサ
子はペガサス

他、関係する人物は女神アテナ
オリンポスの最高神ゼウス
自分を倒しに来た勇者ペルセウス
あと、アンドロメダ?
ペルセウスはアンドロメダ姫を助けに来て、
確かメドゥーサを退治しに来たと思う。

望まない妊娠をし、
望まない罰を受け、
望まない姿に変えられてしまい、
望まない死に方をし、

ペガサスはペガサスで誕生と同時に母親を失う。
父親が誰かもわからなかったかもしれない。

全く、ポセイドンってオリンポスの12神のうちの1人、海の神様はとんでもない奴だ!

それにしてもペガサスは綺麗です!
見たことないけど。


翼が生えてて空を飛べる馬。
乗れるものなら乗ってみたいし、
僕に力を貸して欲しい。

ドラえもんの映画では、お馴染みの登場人物の誰か、しずかちゃんだったっけ?
ペガサスに確か乗っていませんでしたかね。
(笑)

メドゥーサにまつわる、僕の過去の失敗談もあります。

高卒後、働いたアルバイト先にて。
中級レストラン、ファミレスと高級レストランの間なんですけど。
そこで僕はアルバイトしていました。

同じくアルバイトで働いていた、主にキッチンを任されていた、威勢のいいお姉さんがいたんですけど、
ある日、髪型変えられていたんです。

ソバージュっていうの?
ソバージュパーマ、髪の毛クルクルしててチリチリしてて爆発したような頭になっていたんですよ。

その人からしたらオシャレでね。
僕はちょっと笑ってしまって、
もちろん悪ふざけとかじゃなく、
笑い飛ばしてもらうつもりで、口にしたんだ。

「メドゥーサみたいですね♪」って。

相当、衝撃的、インパクト大なコメントだったみたいで、
そのお姉さん、苦笑いしていた。
僕は、やば…生きて帰れないかも…その瞬間思いました。(笑)


…メ、メ、メドゥーサですって!!

今になって、当時のあの場面とお姉さんの反応を思い出してしまいました。
若気の至り…。
僕の言葉の過ち…。

もう、時効だろうけど。
あの時はごめんね、お姉さん(^-^;
僕が介護を仕事に選んだキッカケ。
良かったら聞かせてくれませんか?

現役でデイサービスセンター長を務めているらしい、○○さんからメッセージがポンと飛んで来て質問に自然に答える形になりました。

僕なんかに関心示してくれる物好きも世の中にいるんですね。
いやはや驚きもののき大きな木!(*´▽`*)
ありがたいこっちゃ。
えらいこっちゃ。
恥ずかしいっちゃ。

どっか、隠れる場所なぁ~い?(笑)

介護を始めるようになったキッカケ…。
そんなものあったのかな?
ただ、自然とそういう方向に僕が進んでいった!で終わらせたら。
あ、そ…で終了しちゃうね。

そんなことはしませんよ。

僕ね、
いろんなところで、こんな僕にも人生の節々で変化があったと思います。
33で人生語ってどうすんのよ・・・
ヘンな奴♪

とりあえず中学生まではトントン拍子。
義務教育課程は普通に進級していった。
一般家庭の子どもと何ら変わらなくて私立でも専門でもなく、市立の小学校、中学校。

進路を決めなきゃいけない段階に来て
僕は中学の夏休み、たまたま近くの神奈川県立平塚農業高に1日体験した。
顔出して覗きにいったわけ。

農業高は元々は農家の後継者を育てるための学校だったけど、農家が減って来ている現在、僕の頃は必ずしも農業に将来携わる必要もなかった。
園芸科学科、食品科学科、生産流通科があった。
僕は食品科学科を選んだ。

1日模擬体験で、平農の食品科学科では様々な食品に関する知識を学べると思った。
授業の中でフルーツカルピス作ったり豆腐作ったり、ソーセージ作ったり、クッキーやカステラを製造したりするというのを知った。
夏の暑い中、冷たいフルーツカルピスを瓶でもらって飲んでおいしかった!

そう、餌にホイホイ釣られて、
あっさり平農高を選んだ。
そして、様々な食品を扱う、授業でいろんなもの作る=食品に関する知識を学べる=調理師という図式が僕にあった。

でも、いざ高校に進学してみると僕の描いていた夢は脆くも崩れ去ってしまう。
調理師養成の専門校では決してなかったんだ。
いろんなものを学校の授業で作るだけ。
それはそれで楽しかったけど。

平農は学力低くて中学よりも授業が僕にはなんか全体的に優しくて中学以下…。
僕がクラスで上位三位にいつも入ってたような成績。
次の進路にさしかかった。

推薦入試枠がもらえて、茅ヶ崎の今宿にある平塚看護専門学校に僕の足は向かったんだ。
面接と論文だけ求められたから、一般入試枠のテスト勉強なんてしなかった。
面接はまずまずの手応え、論文も形にはなったと思う。

でも、推薦入試に僕は落ちた。
僕が落ちるとは夢にも思わなかったクラス担任が問い合わせて理由をきいてくれたらしいんだ。

そしたら、先方の学校が言うには、
論文の論点がズレていたらしい。
論文にはテーマが決まっていて「歩く」
僕は看護師として歩いていくという自らの思いを書いた。
でも、学校が求めたのはその歩くじゃなく、
人間の身体歩行に関する見解を求めていたらしい。

まさかのまさかで、クラスの他の子が次々に進学なり就職なり決めていく中、
僕は進路が結局決まらないまま、高校を卒業する。
取り残された痛い子でした。

とりあえず働かないと…。

大磯にある、湘南平のふもと、ベーカリーレストランサンマルクでアルバイトで働き週5、時には週6で接客業をした。
朝か日中かいずれかに。
夜が大丈夫な時は夜も働いた。
でも、基本的には夜。

サンマルクで働きながらホームヘルパー二級の養成校が、夜間週3のペース、三時間ずつ割いて半年かその位で取れたから、
昼間はアルバイト、夜は講義と実技でホームヘルパーを取った。

ホームヘルパーを取ったから、これを使わなきゃと思って、
オープンしたての平塚の老健施設でデイケアスタッフのパートからこの世界に入った。
介護の仕事を選んだ。

そして、流れるままに、時のままに幾つかの転職を繰り返し今がある。

でも、過程はそうだけど、
今思えば介護を始めるようになったキッカケはお爺ちゃんの存在だったと思う。

僕はお爺ちゃん子で小さい頃、お爺ちゃんによく遊んでもらった。
公園にも散歩によく連れてってもらった。
サングラスが似合うタモリさんにそっくりなお爺ちゃんだった。
その頃の僕の感覚では。

お爺ちゃんが脳梗塞で倒れた。
左麻痺になった。
最後は寝たきりになった。

お婆ちゃんが1人で介護して面倒みて、
長男であった父が毎週日曜日には必ずお婆ちゃんの家にいって父からしたら母を手伝い、お爺ちゃんの介護を繰り返していた。
家の中で僕だけお父さんの運転する車の助手席に乗って僕もお爺ちゃんに会いにいった。

僕でも、お爺ちゃんの尿瓶の取り扱い位は出来たから。
お爺ちゃんがなんか訴えたときは大抵オシッコの時で、尿瓶をあてがい、それをトイレに流して。

正月に親戚が集まる時も、
健ちゃん、よく、嫌じゃなく出来るねぇ、ありがとね~っておばさんとか。

尿瓶の取り扱い介助をしてたのは4人兄弟の中で僕だけ。
兄や双子の僕の片割れはしなかった。
母もあまり、、、。
僕に任せてたのかな。

僕からしたらお爺ちゃんに希望を与えたかった。
お爺ちゃんに元気でいて欲しかった。
お爺ちゃんが七沢のリハビリ病院にいた時も、父に連れられて同伴し面会にいった。
僕は小学生。

お爺ちゃんは2000年に亡くなった。
お婆ちゃんは2011年3・11の地震の日にお爺ちゃんの後を10年ちょっとして追う形で息を引き取った。

僕が介護の道に進んできたのは自然な流れだったのかもしれない。
というより、それしか、僕にはできない気がする。

僕は僕に出来ることをするだけ。
ただ、それだけ。


つまらない話をしました。
終わり。(´▽`)
「人ニハ|一」
これは暗号化された言葉です。
何と読むか知ってた?

大阪のある墓地の墓標の言葉ですよ。
ある墓標と言われても、そのお墓がじゃあ大阪のどこにあるのかまでは知らぬのですが…。

「夢をかなえるお金の言葉」バイ宣田陽一郎さんの本を読んで、その中に取り上げられていたんだ。

墓を建立したのは高利貸しだそうで、
何のためにこの文字を刻んだのか、僕にはわからない。

推察するは、亡くなった友人か近しい人に墓碑に刻む言葉というか文字を頼まれていたか、
先人のイメージをそこに刻んだのか、
はたまた別の思惑というか狙いがそこにあるのか、、、

コレ!
「人には辛抱(芯棒)が一番」と読むんだそうです。

また暗号のような文字を一個一個パーツのように組み合わせると…。

…もう、おわかりですよね?(笑)
「金」
黄金の金、お金の金、金玉の金!
ごめんなさい、みっつめは、悪ノリでふざけました。(´▽`)

宣田陽一郎さん、著者は、この墓標の言葉は、金に生き、金を追っかけて地獄も極楽も見た男の実感が生々しく伝わってくると述べていました。

そ、そ、そうなんですね。(^_^;)

生きることはがまんすること
生きることは耐えること
生きることはひたすらこらえて、
ひたすらぐっと辛抱しないといけないんだよ、
そうしないとお金持ちにはなれないよ、って。

忠臣蔵の話も取り上げられていましたね。
忠臣蔵というと赤穂浪士の四十七士。
名誉を傷つけられた主君のために!
名を残し今に伝えられるもの。

でも、ここでは赤穂浪士を結果として死に追いやった主君であり藩主である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に焦点が当てられて作者は彼を非難しているんです。

彼はお坊ちゃま育ちのひ弱な藩主だったので、忍耐力が弱く、おかげで、四十七士をはじめ多くの家臣が勤め先を失って路頭に迷ってしまったと。

赤穂藩青年藩主・浅野内匠頭は、意地悪じじい吉良上野介にいじめられてがまんができず、江戸城松の廊下で禁断の刀を抜いて切腹になってしまった。

主君を失ってしまった赤穂藩は主君の敵討ちをする。
憎き存在、吉良上野介の首級をあげて彼を成敗しないと気が治まらない。
彼を討ち取らなければ、主君の名誉を取り戻せない。

旅は道連れ、世は情け…。

浅野内匠頭は、家臣がまさか自分の後を追うように死ぬなどとは考えも及ばなかったのではあるまいか?、、、

彼が、松の廊下で禁断の刀を抜くことさえしなければ・・・
意地悪じじい吉良上野介にいじめられても、とことんとことん最後までがまんして
乗り越えることができたなら・・・

赤穂浪士の生き方はまた違っていたかもしれない。
死の道連れを増やすことは避けられたのかもしれない。

宣田陽一郎さんは指摘する。

誰にでも悔しいときはあり、生きることはがまんすることであると。
すぐにアタマにきて耐えられないようでは、金持ちになれるわけがないと。

「娑婆(しゃば)」の言葉の意味も教わった。

刑務所の囚人は外の社会を「娑婆」と呼ぶ。
あともう少しで娑婆に出れる、娑婆に戻ったら俺は何をする、あれをする、これをする、
そんな使われ方をする言葉だけども。

「娑婆」の語源はインドから。
古代言語サンスクリット語の<サハー>に由来していて、意味は「耐える」

それが仏教用語で「耐える=世間=娑婆」となったんだそうです。

お金持ちになるには時間がかかる。
本当の意味で豊かになるためには、
時間がかかるんだ。
時間だけでなく、ひたすらコツコツ努力と
、辛抱と我慢が求められることがある。

チーズに発酵時間が必要なように。
ワインに寝かせる時間と熟成期間が求められるように。

ちなみに、忠臣蔵の話は大河ドラマにもなりましたね。
主人公を務めた大内内蔵助だったっけ?
内蔵助の役を務めた人はつい最近に故人になってしまった…。
早過ぎる死でしたね…。

物語で浅野内匠頭も最初に出てきました。
浅野内匠頭は東山紀之さんが演じてましたよね。

ちなみに僕は東山紀之さん、好きです。
彼はイケメンだし、筋肉も見事だし。
ただ、彼にしごかれると命が幾つあっても足りなさそう。
僕は筋肉を眺めているだけでも十分です( ´艸`)

多分。

東山紀之さん演じる浅野内匠頭はかっこよかったです。

でも、がまんしきれなかったことは、
自らの死によって、家臣の命までも、巻き込んで死に追いやったのは、
考えなきゃいけない、唸る部分です。
反省する点ですね。

「人ニハ|一」

人には辛抱が一番。

覚えておきましょう。
僕の胸のポケットにしまっておきたいと思います。


「目は世界の美を包み込む」

なんか素敵なコトバですね。
これは芸術家として名高いレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉だそうです。

「ダ・ヴィンチ7つの法則」
この本からちょくちょく引用しながら話したいと思います。
書くだけの価値が十二分にありそうで。

耳から入ってくる音楽、音、人の声、会話、話、その他もろもろは
聴いている最中はいいんですけど、

音が次第に消えていくことがあります。
せっかく楽しんでいたのに音はなくなってしまうことがあるんです。

音のない世界。。。
聴覚障害者が経験していることです。
聴覚障害者は音を聴きたくても聴けません。

目はどうかというと、
確かに生まれついての視覚障害者は、
色をみたことがありません。

色のない世界も味気ないものです。
そうなのだけど。

仮に耳か目か、いずれ、その機能を失うとして、それでもどちらも生まれてからしばらくは感覚を持っていたとしたらどうでしょう?

どちらが優れているとか優劣をつけるまではいかないけど、どちらが魅力を感じます?

それは目かも知れません。
なぜならば。

音は止んだり、静まったり、消えたりするからです。
でも光景は絶えず繰り広がっていて変化しています。

途中から耳の感覚をなくしてしまった場合、もう音を拾うことはありません。
過去に聞いたことのある音楽も思いだすのは難しいかも。
再生ができない。

それに対して目はというと。
その瞳に情景を焼き付けさえしておけば、
忘れたくない光景や風景を瞳の奥にしまっておけば。
途中から視力を失ったとしても、再生することができます。
二度と色を識別できずとも、見れずとも、
少なくとも過去に刻まれたものは瞼を閉じてしまっても再生が可能です。

イメージが可能です。
音は止むけど、色は色褪せない。
その違いがここにあります。

「目は世界の美を包み込む」

もちろん、美だけが世の中にあるわけではない。
目にするもの、入ってくるものは、見たくないもの、醜いもの、そういうものもある。

あるけれど、美しいもの、清らかなもの、すがすがしく、爽やかなもの、鮮やかなもの、芸術を見る目も人は持っている。

沢山見よう! 

微笑ましいものを。
喜びにつながるものを。
幸せにしてくれるものを。
優しくなれるものを。
感動するものを。

音楽は聴覚を維持し続けないと、再生ボタンを押した時、再び聴くことができない。
映像は仮に視覚低下が人を悩ますことがあっても、少なくとも過去に見たものを本人の頭の中、瞳の奥、胸のうちでは再生できる。

ところで、ダ・ヴィンチ7つの法則の中で視覚を研ぎ澄ます、幾つかのエクササイズが書かれていた。

簡単だけど、僕は思わず試して見たくなって、実際にやってみたエクササイズがあったよ。

それはね。

手のひらを使った目のエクササイズ!

やり方は次の通り。

1:両手の平を、20秒位強く擦り合わせる。
2:両肘を軽く机に突いて、両手の平を少しくぼめて静かに閉じた目の上に当てる。
3:リラックスしてゆっくり深呼吸しながら、そのまま5~10分目を閉じている。
4:時間が来たら目を閉じたまま、手の平を目の前から外し、20秒目を閉じている。
5:静かに目を開けると視界が明るくみえるだろう。

摩擦熱で瞳の保温、血行促進!
ハンドパワーを目に送る。
目を閉じたままで瞳をしばし休ませる。

気になったら、やってみてください。

閉じた瞳の上から、温タオルを当てるのも気持ちいいし、
お風呂では水圧を柔らかめに加減したシャワーを閉じた瞼の上から、また閉じた瞼の周りを円を描くようにかけるのも気持ちがいいよ。

そのあと目をゆっくり開けて見てごらんよ。

する前に比べたら、くっきり、はっきり、
見えるから。
明るくなった気がするから。
世間知らずな王女様、マリー・アントワネット。
彼女の話を今日は書くことにするね。

1日のうちでも先延ばしにしてると結局何も書けないまんま、1日が終わっちゃうこともあるから、今日は早めに。

マリー・アントワネットといえばフランス革命時に、フランス国王ルイ16世に嫁いだ王女様、王女というか王妃ですよね。

フランスの民衆の怒りを買って、
最後には斬首刑に処された女の人です。
いつだったか読んだ昔の漫画では、首だけ突き出して、上から鉄の板のようなものが降りてくる、そんな死に方だったと思う。

マリー・アントワネットといえば、
それはそれは綺麗な女性で、
でも、考え方が幼すぎて、高慢知己で、
民衆の暮らしに無頓着もいいところ…。

国家の財政を破滅に追い込んだ一つの因子だったのではないかと言われております。 
それだけではないと思うけどね、

国家財政が危機に陥って、フランス全体の人々の暮らしが悪化の一途をたどり、ついには民衆が立ち上がってフランス革命を起こした!
時は1789年、僕が生まれる約200年前の出来事です。(僕は1980年生まれ)

マリー・アントワネットの民衆への暮らしに配慮を欠いた点に関して。
こんなエピソードがあるようです。

「民衆は、重税に苦しんでおり、パンも買えません」との臣下の訴えに対し、
マリーが答えた返事は、「パンがないなら、お菓子を食べればいい」というもの。

(洋菓子を家で作ったことのある人ならわかると思うけど、お菓子の基本ベースはバターと卵と砂糖と塩と<小麦粉>なんだよね。
もっとも、パンを作るには強力粉、菓子は薄力粉、に分けられるけど小麦粉がなければパンはおろか菓子すら焼けないことを王妃は知らなかったみたい…)

一方で、王妃は自分のオシャレや余興には金を惜しまなかったので民衆から憎しみを買う有り様だったとか…。

でも世間知らずな王妃ではあったけど彼女も可哀想な人物であったらしい。

育ち方や性格に問題があったとしても、日ごとに大きくなる民衆の怒りを、国王ルイ16世が知らなかったはずはなく、妻であるマリー・アントワネットに働きかけても良さそうなもの…。

お前、お金の無駄遣いはよしなさい。
民の暮らしを知るようにしなさい。
諫めたり注意しても良さそうなもの…。

でも、そこには教科書にはとても載せられない切実な理由があったようなんだ…。

ルイ16世(国王)は性的に不能だった、
(起たない、使い物にならない?)みたい。

当時は、結婚してから初めて性交渉するのが常識で、絶世の美女とうたわれたマリー・アントワネットも嫁いだときは処女だった。
しかし、彼女は結婚後も処女のままで、性的な欲求不満はどんどんたまっていく。。

(何せ、夫の下半身の逸物が使い物にならないのだから。)

美しい王妃のこと、当然王妃を慕う男たちは、数多くいたとは考えられるけど、
王妃という身分ゆえに臣下は手が出せないし、マリー・アントワネット自身も男遊びをするわけにいかない。

悶々とした欲求不満のはけ口が、どうやらオシャレに行ったり、はたまた趣向を凝らしたパーティーを自ら開いたり、
そうさせたところがあったみたい。

でも、ストレスのはけ口、解消法を自分で生み出したというのは見上げたものだと思うな。
パーティーを開くのだって計画が必要だし、
そういうのも自分で考えたんだから偉いかもね。
ただ、問題はそのお金がどこから出ているか?というものと。
そのお金の使い道が適切でなかったことにある・・・

ルイ16世は、その後、一大決心をして手術を受け、やっと男性としての機能を取り戻し、
マリーは4人の子どもを産んだらしい。

それにしても、夫である国王が手術をしたのは、結婚してから7年後で、
その後は王妃の欲求不満は収まり浪費も減ったのだけど。

時は既に遅かった…。
失われた時間は戻ってくることはなく。
過去に民衆に刻まれた王妃の印象も色濃く残っていて。
王妃のお金の無駄遣いぶり、浪費ぶりに対する民衆の怒りは消えなくて。

マリー・アントワネットは美しい美貌に生まれたにも関わらず、あるいみ不幸な女性だったかも知れない。
例えばルイ16世とは別の男性に嫁いで、初夜から男を知って愛されていたら
別の生き方をしていたかも知れないね。

そして、もっと民の暮らしに目を向ける必要も大いにあったと思われる。

今の日本はどうかな?
政治家たちは国民の生活を重点にいれた政治をしているかな。

今日の話は
「世界史の謎がおもしろいほどわかる本」を参考としました。






「歳を取るのは、酸化されていくこと」、、、
体は否が応でも錆びる、、、かぁ~。

山梨県出身の神経内科の先生で、医学博士でもあり作家でもあり、講演もされたりして幅広く活躍されているらしい、
米山公啓(ヨネヤマ・キミヒロ)さんの本を一冊読みました。

医師って、小難しい話をする人が実に多いものだけど、
この米山公啓さんの話し方というか説明はわかりやすかったように思います。

僕が読んだ本のタイトルは、
「そろそろ親のこと…」

年老いた親の先々のことを想定に入れて、
なんとか親を元気に介護を必要としないで、
自立した生活を親が送れるように。
子どもとして予防的に親と関わっていってくださいね‥という視点から扱われたものです。

それが親も元気に
子どもも元気でいられる
方法だからと。

親を元気にしておく為に、

・異性の友人をつくらせよう
・生涯現役でいさせよう
・スーツを着て食事に行かせよう
・トレンド物の服を着せよう
・旅をさせよう
・新しい家電を使わせよう
・その他

なんかね、色々提案されていました。

そして、末尾の方で最後に出てきたのが活性酸素の話。

歳を取るのは、酸化されていくこと!
人間の体は錆びるんだよ…って大事な話でした。

人は呼吸しないと生きていけません。
これは人間に限ったことじゃなく動く生き物はたいていそうだけど。

植物と全く反対だもんね。

僕は呼吸をする時、大気から酸素を体内に取り入れて、脳に酸素を送り、脳だけじゃなく体全体に酸素を取り入れて。
その代わりに今度は二酸化炭素を外に排出している。

美味しい澄んだ空気、
特に大気が浄化されて朝靄の外の空気は
格別に美味しい。
森林の空気や農場や、牧場や、自然豊か、緑豊かなところの空気(酸素)は美味しい!

霞(酸素)だけを食って空腹を凌ぎ、生きている訳じゃ決してないけど、
酸素によって僕が生かされているのは確かなこと。

でも酸素を取り入れるということは、
活性酸素を取り入れている、というより
酸素を体内で活性酸素に変えていることでもあるんだ。

ただ単に酸素だけなら人体に有害程ではないらしいんだけど、

活性酸素は普通の酸素に比べて他の物を酸化する力が非常に強いんだって。
細胞や遺伝子までも酸化させて破壊していく危険因子なんだって。

呼吸をすることで酸素を取り入れ、体内でエネルギーを作り出すとき、
酸素の強化版、濃厚版とも呼ばれる活性酸素が出来上がってしまうらしいんだ。

そして酸素そのものにも、もともと約2%位、活性酸素を含むらしい。

風化されて酸化された鉄が錆びるように、
理科の実験で酸化鉄は、鉄が黒くなってしまったように。

人間の体も
歳を取れば取る程、それだけ呼吸を繰り返しているわけで。
おんなじように体も錆びていくらしくて。

酸素そのものが悪いわけじゃない。
寧ろ酸素は生命を繋いでくれているありがたい代物。

なんていったって、くせ者は
活性酸素ですよ。
酸素が悪いわけじゃなくて、活性酸素が、
忍び寄る招かざる客…。

活性酸素を減らしてくれる食品、
活性酸素除去に役立つ成分があるそうです。

こうゆうものを意識して取り入れたいですね。

挙げられていたものは例えば…。

亜鉛、アスタキサンチン、アップルペクチン、アリシン、アントシアニン、オレイン酸、カカオポリフェノール、カテキン、コエンザイム久Q10、サポニン、ビタミンA、ビタミンB6、ビタミンE、フラボノイド、βーカロチン、ルチンなど。

こうゆうものを多く含んでいるものを、食べるようにすると良いんだそうですよ。

活性酸素を減らす抗酸化物質として挙げられていた。

勉強になりましたよ(´▽`)
指切りげんまん♪
嘘ついたら針千本飲~ます♪
指切った♪

この簡単な歌をあなたに最初に教えてくれたのは一体誰ですか?
覚えている?

僕は誰だろ、やっぱり母親になるのかな?
同い年の幼稚園の友達だったような気もするし、幼稚園の先生のような気もしないでもない。

でも、やっぱり家庭が最初だったのかな?
母親が色濃い気がするよ。
でも、自然とこの短い短い歌が僕の耳に入ってきて、自然と指切りげんまんの仕草というか方法が身に付いていったような気がする。

僕が誰かと約束をする時、
約束を交わす相手に対して、自分の片方の手の小指を差し出し、
相手の小指と絡ませて、
簡単に上下にユサユサ揺さぶって、
「指切った!」で絡ませた指を解く。

でも、この歌の歌詞って、
こどもにはよくわからないけど、
恐ろしい歌詞だよね。
歌詞とゆうか、なんとゆうか、台詞?(笑)

子供の頃、小学校に通っていた時までは、この指きりげんまんの約束交わしたけど、成長と共に、することがなくなった気がする。

大人は約束は口約束したり、グーやグッドのサイン約束したり、OKの印を出したり、
大事な約束は書面化したりして約束を交わす。

ところで、歌詞が恐ろしい指きりげんまん。
だって、嘘ついたら針千本飲まされちゃうんだよ?(笑)
実際に飲ます人なんて、幸い出会って来ずに済んだケド。

でもこの指きりげんまんの約束を破った代償は高くつくんだそうです。
なんてたって針千本飲まされるだけで、罰が終わると思ったら大間違いだそうですよ?

「うける!雑学」の本に書いてあったんですけどね。

針千本飲まされた上に・・・

さらに<10000回も殴られる>んだそうです。
それも拳で・・・。

指きりげんまんの「げんまん」は、漢字にすると「拳万」!
拳骨で1万回殴ることも含んでいるんだそうです。

これは知らなかったなぁ~~~!!!

そして、指きりの話。

指きりは、江戸時代に、吉原などの遊女たちが行った儀式に由来していて、本気の度合いを示しているそうです。

男性客に愛の誓いを立てる際に、約束が本気であることを示すために、遊女は小指の第一関節から先を切り落とし、その指を客の男性に与えたとゆう。

これが、約束をするときに小指を絡ませる仕草に変化していったんだそうですよ。

欄外のコラムに指切りに関して補足がありましたが、そこにはこうありました。

「実際に指を切った遊女は少なく、刑場から死体の指を集めたり、作り物の指を購入していた。」と。

それにしても・・・

実際に指を切った遊女もいるにはいたようですね、なんちゅうことだ、ブルブルブル、恐ろしい!(゚Д゚;)
少なく…だもんね…。

それと死体とは言え、他人の小指を切り落として使うとは何事ぞ!
他人の身体を傷付けるどんな権利があると言うのか?
むぅ、許せん!!(*`Д´*)
つくりものの模型の小指なら、そこは許しちゃる!
けど、決して、良くはないな…。
悪い趣味だ…。

約束を守ることは大事ですよね。
どこまで約束を守れるでしょうね。
どこまで約束を交わせるでしょうね。
誰と約束を交わすのが相応しいでしょうか。
その約束はどんな約束でしょうか。
その約束は本当に守るべき約束でしょうか。

間違いに気付いたら、
改善し、修正し、直していかないといけないのも確かなこと。
必ずしも、幾ら約束したからといって、最後まで履行するのが良いとは言えない場合もあったりする…。

朝令暮改だって在ります。

でも、基本は
できない約束は最初からしない。
でも、約束したことはきちんと守る。
約束を破ってしまうことも、人間だから
あるけれど、心から悪いと思ったら、その時は反省する。
そして謝る。

でも、約束は実際は難しかったりする。
それもまた修行…。

指きりげんまんの唄から、
堅苦しい話まで。
長々と。

ご静聴、ありがとうございました!!!