The Southern High Bridge

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主に自身の教育観や人生観、持論や書評などを綴っていきます。

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先日、ツイッターにて「現在小学生や中学生の子どもを持つ保護者の多くは、学校や塾に子どもの”教育”を押し付けすぎていると思う。」と呟きましたが、今回はその理由を私自身の経験談を交えながら少しだけ綴らせていただきます。(少し分量が多いため、二部構成となる予定です。)



きっかけは、先月26日(火)に私がアルバイトとして勤務している某自立型学習塾で、勤務終了後に今後の学習指導の在り方などに関する意見(提案)を室長へ持ちかけていた時の事です。


その時私が室長に持ちかけていた提案は、ずばり「本教室における指導シマの撤廃、もしくは指導シマ数の削減」。


「指導シマ」とは、簡単に言えば複数の子どもたちが一つの場所(シマ)へ集まり、担当の先生が随時指導を行うスペースの事ですが、これは言い換えれば、巷に溢れている個別指導塾と同じような環境が自立型学習塾であるはずの公○式教室の中に複数存在している、という事なのです。


「なぜ指導シマを撤廃する必要があるの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
それでも、私は指導シマを撤廃するべきであると考えています。


なぜか。


それは、「指導シマの存在が生徒の成長を妨げる」からです。



ではなぜ「指導シマの存在が生徒の成長を妨げる」のか。


それは、生徒が指導シマに居座る事で、「自学力」が養成されない可能性が高いからです。



ちなみに、私が考える「自学力」とは、主に次の3つの要素から形成されている力の事です。


・「自学力」を形成する3要素

①思考力→他人に頼らず、自分で創意工夫する力。

②挑戦力→リスクを恐れず、果敢に試行錯誤する力。

③解決力→①と②で得た知識や経験を応用する力。


これらの要素を全て含む総合的な力の事を私は「自学力」と呼んでいます。


勿論、社会人基礎力に見られるような様々な要素も後々必要になってくると思いますが、個人的にはこれらの3要素を含む「自学力」があれば、高校までは特に問題なく自分で学習を進め、また、何か大きな問題に直面しても自分の力で乗り越える事ができると思います。



しかし、仮にこの「自学力」が早い段階で身に付かないとどうなるでしょうか?



推して知るべし。


ずばり、自分の頭で物事を考える事ができず、新たな価値を生み出す事のできない"創造性のない人間"が出来上がると思います。



最近は「ぶら下がり社員」という言葉が流行っていますが、その「ぶら下がり社員」を生産する一因として、自学力の低下が挙げられるのではないでしょうか。(それを実証するデータがない事が悔やまれますが)


勿論、最初から自学力のある人間など存在しませんので、ある程度のサポート期間は必要であり、そのサポートの場が主に家庭や学校、塾になると思います。


しかし、だからと言っていつまでもそれらの場所に依存して良いというわけではありません。

親はいつか死ぬものであり、また、学校や塾から卒業する時は必ず訪れるからです。



さて、話を戻します。



先程私は、指導シマの存在が生徒の成長を妨げる理由として、生徒が指導シマに居座る事で「自学力」が養成されない可能性が高いという事を述べましたが、ここで私が勤務している教室における実体験に基づいた例を少し紹介したいと思います。


私は、数ヶ月前から一つの指導シマの一担当者として子どもたちを見てきましたが、私が小学生のころに比べ、現代の小学生は「考える努力」を怠る傾向があると思います。(と、ゆとり世代の代表格のような私が言うと周りの方々にボコボコにされそうですが)


例えば国語の読解問題では、本文に堂々と答えが書いてあるにもかかわらず、いたずらに「先生わからない!」と喚き、すぐに解答を諦めてしまう子どもが多いのが現状です。


公○式の読解教材(国語)は、99%本文に問題の解答(或いは解答の言い回しを僅かに変えたもの)が書いてありますので、ある程度パターンが掴めれば問題なくスラスラと解ける仕組みになっています。

私は常に「先生に聞く前にまず本文を何回もよく読んで考える事!」と偉そうに言い放って対処していますが、それでもすぐに同じ質問を繰り返す子どもの割合が圧倒的に多いです。


また、算数の問題(足し算や引き算)などでは、逐一「先生これで合ってる?」と尋ねてくる子どもも数多くいます。

私は生徒にまず考える作業を促し、基本的には何も教えないスタンスを貫いていますが、そうすると当然生徒の学習意欲が格段に下がるので、ある程度バランスを取るようにはしているつもりです。(それでも基本的に何も教えませんが)



これらの例はもはや認知のレベルという話ではなく、子どもたちの根本的な学習姿勢が養われていない証拠だと思います。


そして、残念ながら私が勤務している教室でこのような現状を作り上げてしまっているのが指導シマの存在だと思います。

一つの事実として、全国に点在する公○式教室では、そもそも指導シマという概念自体がありません。(※例外あり)

私は小学3年生の頃から中学3年生の頃までずっと地元の公○式教室へ通っていましたが(細かく言えば、中学の頃に通っていた教室の室長が引退する事になり、途中から地元の別教室へ移動する事になりましたが)、少なくとも私がかつて通っていた2教室では指導専門のブースなどは存在せず、また、私の友人(主に関東地方出身者)の中で公○式教室での学習経験がある者やスタッフとして働いている者に対して、指導シマ或いはそれに準ずる学習スペースの存在有無を尋ねたところ、全員が「そのようなものはなかった」という内容の回答を示した事から、この状況が如何に異質なものであるかが容易にわかると思います。



・いかに「教えない」か。
・いかに「気付かせる」か。
・いかに「学ばせる」か。



自立学習を促す教育においては、これらの工夫を最大限に凝らす必要があると思いますが、どれもなかなか難しいものです。


それにもかかわらず、室内に指導シマが存在する事で子どもたちは徐々に「考える努力」を怠るようになります。

また、常に学習監督者がいないとたった一問でさえ進める事ができない子どもも増えています。



いつかのエントリーでも触れましたが、元塾生の私が考える公○式最大の良さとは、大きく分けて


1.独力で学習を進める事ができる教材

2.徹底した反復学習を課すシステム


の2点であり、公○式最大のメリットとは、何よりも私が先に挙げた「自学力」が学習過程において自然と養われる事だと思います。


先ほど述べたように、全国に点在する公○式教室では、そもそも指導シマという概念自体がなく、公○式の教室内では、基本的に誰も教えてくれません。

泣いても喚いても、よほどの事が起きない限り先生は敢えて子どもに手を貸しません。


なぜか。


それは、子どもたちの自学力を養うためです。


一見無謀に思える教育方法かもしれませんが、その一連の作業を可能にしているのが解法パターンや手掛かりなどが要所に記載されているオリジナル教材です。

公○式の教材は、問題や例題をよく読めば基本的に解けるような構成になっています。



さて、ここで一つ疑問があります。



生徒の横に座って随時指導を行う「指導シマ」の存在は、はたしてこれらの点を十分に活かし、自学力を養う事ができるものでしょうか。

もし、却って自学力養成の妨げとなっているのであれば、体制の見直しが必要ではないでしょうか。


とにかく、わからない箇所があればまずは自分で考えて、考えて、考えた先にまた考えて解答(勿論おざなりではないもの)を導き出すという作業が公○式の鉄則であり、基本方針であったと思います。

そしてその繰り返しにより子どもたちの自学力が養われ、創造性のある人材が育成されてきたと思います。(少し大袈裟ですが)


ところが、複数の指導シマにおける現状としては、終日マンツーマンで指導を行う光景を目にする事が多く、また、特定の生徒が長時間滞在するという現象は既に私自身も体験済みです。

これでは通常の個別指導塾と変わりありません。

無論、指導シマにもメリットはありますし、指導シマを完全に撤廃しろとまでは言いません。

しかし、"指導シマの常連"を作ってはいけない事は確かです。


ということで、そろそろ公○式の原点回帰を図るべきではないでしょうか。


仮に、自立型学習塾だからこそしっかりと指導する機会(場所)が必要だと言うのであれば、教師はあくまで学習における根本的な姿勢と目的を意識させる事を教育の主軸とするべきであり、学習内容に関する細やかな指導などはそこに付随する形でも良いのではないでしょうか。


これは「自立型学習塾としての公○式」の在り方に対する、とても深い偏見混じりの考え方かもしれませんが、個々の入塾や学習の目的、認知レベル、保護者の教育観や経済力などを考慮しなければならないという事は十分に理解しているつもりです。


しかし、指導シマに関しては、せめていつでも利用できるものではなく、上記の過程(※自学力のステップ)を踏まえた上で、それ以外にどうしても選択肢がない場合のみ利用する事ができるという体制を作り上げる必要があるのではないでしょうか。



さて、過去のエントリーと無理矢理統合させた部分も多いため、文章として理に適っていない部分が多々見受けられると思いますが、どうぞご容赦下さい。笑


また、冒頭のつぶやき(テーマ)に関する記述は全くと言っていいほど含まれておらず、一見本来のテーマに沿っていないような記述のオンパレードでしたが、テーマに関する事柄は後半にてじっくりと説明させていただきます。(というのも、このような前置きがないと説明する事ができない部分が多いため)


尚、後半部分は私の教育に対するジレンマを全面的に押し出す事になるかもしれませんが、まだまだ知識も経験も浅い若輩者ですので、赤子を見るような目でご一読いただければ幸いです…笑


(※後半へ続く)


北條氏の「文字指導を中心とした小学校英語活動の試み」という論文を読了。(と言っても10ページもないが)

ここでは第一印象のみ記述する。


氏の論文の中で、各活動指導案における[指導・支援上の留意点・評価]の部分に、必ず「がんばったことを誉め、楽しい雰囲気で授業を終えられるようにする。」と記載されていたが、この言葉には少し引っかかる部分があった。


それは「楽しい雰囲気で授業を終えられるようにする。」という一節だ。


前半の「がんばったことを誉め」という部分に関しては、特にこれという疑問点はない。

むしろ、生徒がきちんと努めていればどんどん誉めるべきであり、誉めて伸ばす事自体は悪くないとさえ思っている。(実際、子どものモチベーションを上げる事は重要であり、私自身もバイト先では基本的に最後は誉めるようにしている。勿論その分厳しく接しているつもりだが。)


しかし、「楽しい雰囲気で授業を終えられるようにする」という一節は、裏を返せば「楽しい雰囲気を作る事が最終目標」と言っているようなものではないだろうか。

確かに、小学校の英語教育では外国語に対してまず良い印象を持たせて、学習意欲の向上や英語の楽しさを伝える事が大切かもしれない。

だが、どのような内容の授業であれ、生徒には何かしらの「学び」を実感させてやらない限り、それこそ小学校の英語教育がただの"お遊び"になってしまうのではないだろうか。


私は氏の論文に記載されている実際の学習活動例をいくつか読んでみたが、どうしてもそれらの活動例の中に効果的な「学び」を見出す事ができなかった。

これはおそらく私の児童英語教育に関する知識量が極めて乏しいためであり、決して氏を批判しているわけではないが、いずれにせよ、実際の学習活動を見てみない限り何とも言えないのが現状である。(言い訳かもしれないが)


しかし、小学校に英語活動を取り入れるのであれば、少なくとも何らかの形で中学校で行われている英語教育との連携を図る必要がある事は確かである。

そうでなければ、小学校で英語教育を導入する必要はない。



子どもたちが小学校で英語の美味しい部分を吸ったとしても、中学校に上がった途端に全く内容の異なる授業が待っており、結果的にはそのギャップに耐えられない子どもたちが英語を嫌いになり、ますます子どもの英語離れが進んでしまうという懸念も僅かながら抱いているというのが本音である。


(続く)


※まだ「考えながら書いている」段階であり、具体的な改善案などはこちらのエントリーにて後ほど記載する予定。



AKB48 チームAキャプテン 高橋みなみの政見放送が素晴らしかったので書き起こしをする事にしますw

初見の方は以下のリンクへ飛んでいただき、政見放送の動画を先にご覧になる事をお勧めいたします。


高橋みなみ 政見放送 (YouTube AKB48 22ndシングル 選抜総選挙チャンネルより)





・高橋みなみ政見放送内容 (以下全文)


「みなさんこんにちは、AKB48チームA、高橋みなみです。今回の政見放送では、私の夢について少しお話ししたいと思います。私の夢は、一人のソロの歌手になる事です。この夢はまだ叶っていません。AKBに入って、その夢に近づいているのか、遠回りしているのか…わかりません。悩む事もたくさんあります。でも未来に先回りする事は出来ないから、今やっている事が正しいんだと、意味があるんだと信じてやれば、今日今起きている事が全て楽しく思えるんじゃないかなと思っています。この総選挙にも、意味があります…きっと、あると信じています。ここで夢を追いかけている、追うか迷っている人に一言!自分に嘘をつくな!やりたい事をやれ!現状に甘えるな!私がこの身をもって夢が叶う事を証明します。ここで、スティーブ・ジョブズの言葉を借りて一言。Stay hungry, stay foolish!」






まさに素晴らしいの一言。

ジョブズにかなり影響を受けているなぁという印象を受けましたが、昔から言っている事はずっと変わっていない気がします。
そしてやはり動画でしか伝わらないものがありますので、時間に余裕のある方は先程貼ったリンクへGO!w(※ちなみに顔より大きなバカリボンを付けています。)

本人は去年の総選挙で「私はどんな順位に立とうとも変わりません。高橋みなみは高橋みなみです。」と言っていましたが、今年が最後の総選挙になる可能性も十分にありますので、本人が望む結果を出す事ができればいいですね。


僕も今年は運営に搾取される頑張ろうと思います。


文科省:「文法訳読中心の指導や教員の一方的な授業ではなく、英語をコミュニケーションの手段として使用する活動を積み重ね、これを通して、語彙や文法などの習熟を図り、4技能のコミュニケーション能力を行う場面を多く設定する事が大事。」

→相変わらず不明瞭。英会話の中で語彙や文法を習得するという考え?


松本氏:「生徒が英語に触れる機会を充実させるとともに、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業は英語で行うことを基本とすること。」、「高校におけるコミュニケーション重視の英語授業とは、英会話の授業ではない。日本語を介さずに大量の英文を読むのが基本となる。」
→現状で見られる教師主導の授業ではなく、生徒主体の授業を目指すべきという主旨も含まれている。


○問題点…仮に「英語の授業は英語で行う」という事が正式に決定(制度化)した場合


・教師に関する問題

→まず「教師自身の英語運用能力の向上」と「英語による英語教授法の習得」が必要となるが、この二つの技能をある程度のレベルまで身に付けるだけで数年かかると言ってもよい。「英語で英語の授業を行う」ということは、当然生徒への授業のアプローチの仕方も変わってくるわけであり、従来の「英語科教育法」などとは全く別物となる可能性が高い。その結果、「英語による英語教授法」を習得するためのまとまった時間が必要となる。国や自治体が研修制度を設けるとしても、現役教師も自治体も研修に多大な時間を割く余裕はない。そして研修に関連する予算はどこから捻出するのか、また、指導者はどこから確保するのか。(そもそも指導者を十分に確保できるのであればその者達がそのまま高校における英語の授業を担当した方が良いはずである。) 結局教員免許更新制度と似たような問題を抱える事になるのでは?


・授業の対象となる生徒(高校生)の問題。
→リスニングにおいては、「聴く」というレベルから最終的に「理解する」というレベルへの引き上げが必要であるが、高校レベルの生徒の英語運用能力では、まず教師が言っていることを聴きとる事すら難しいと思われる。そのために、段階的にCDを活用した聴きとりの反復練習などが必要である。また、思春期の高校生は英語による発話を毛嫌いする者も多く、英語による授業の場合、ますます英語に対する苦手意識が生まれてしまうのではないか。(外国語の専門大学である本学の学生さえ、ネイティブの先生に話しかけられてもまともな受け答えをする事ができない場合が多く見受けられる。)


・O大学における英語の授業について
→中井氏の大学では、英語で英語の授業を行った結果、75%以上の学生が「英語力がついた」と回答しているが、個人的には疑わしいところである。そもそも、なぜ「英語で授業を行うと英語力がつく」という自己評価に繋がるのか。本人が英語ができるという錯覚に陥っているかもしれないため、せめてTOEFLなどの客観的評価基準が必要ではないか。


※その他にも、数多くの問題が顕在している。


○まとめ(筆者の主張)
→文法を理解する事は英語学習の必要条件であり、日本語で説明した方が分かりやすい。しかし、それだけで終わるとその場の理解に留まって実際に使えるかどうかまではわからないため、taskを取り入れた活動も必要である。



◆自分自身が考える、これからの英語教育に必要なもの(覚書、4.25時点)


・現段階では、英語学習の基礎となる「型」と単語を徹底的に学ばせて、とにかく反復練習をさせることが有力。


・ここで言う型とは、基本的な文型や文法知識などといった従来の文法訳読式英語教育に近いものの事である。


・まずはこれらの知識を暗誦などの作業をさせる事で英語のリズムを覚えさせ、頭と体の両方へ徹底的に叩き込ませる。(この際にCDも活用すればネイティブの発音とリズムに触れることができる。)


・そして単語の習得。スピーキングやライティング(勿論LRも)が苦手…などという人は基本的な型と単語の知識量が圧倒的に少ない場合が多い。


・文科省が定める中・高で学ぶべき英単語の数は2200から3000語に戻るが、これはどう考えても少ない。


・単語をアウトプットする練習、より正確に言えば単語を「型」にあてはめる練習を行う機会を設けるべきである。


・単語を正確に理解すれば文法処理能力もかなり補強される。例えば何かに「感謝している」と言いたい時に、その意味を持つappreciateとgratefulを知っていたとしても、感謝の対象によって使い分けができないと英語の質は格段に落ち、また、誤訳に繋がる恐れもある。


・英語の4技能は全て単語と文法の知識に基づいていると言っても過言ではないため、まずは型をインプットして、そこに単語を組み合わせる事で一つの英文をアウトプットする練習を重ねる必要がある。


・まとめとして、まずは型と単語の習得が絶対条件になる。


・そもそも、学校教育のレベルで「英語を話せる人材を育成しよう!」という考え方が無謀である。


・文科省は英語教育の意義を明確にするべきである。


・特に「小学校における英語教育の目的」ではコミュニケーションという曖昧な言葉を乱用しており、本当の狙いがわからない状態である。


・そもそもコミュニケーションの定義が明確ではない事自体が問題である。


・「どんな英語話者を生み出したいのかという目標の設定」も必要。


・英語を生業とする、もしくはそれに準ずるレベルの英語運用能力は凄く高いものが求められるが、その中で諸外国の官僚レベルの者達と英語で対等に渡り合うためには、日本語での複雑な情報発信と同レベルの発言を英語で行う事ができる話者の育成が必要である。


・しかし、現状として国民全体の英語運用能力を底上げしても、日常的に英語を使用する者はごく一部である。


・通常科目と第二言語の教育はそれぞれ教え方や目的が異なると思うので、第二言語教育に関しては思い切って三分してしまえばいいのではないか。


・具体的には、「1.英語に関する授業(極端に言えば映画の上映でも良い)を通して異国の文化や社会を理解する層」、「2.1+基本的な日常会話レベルの英語力を持つ層(いわゆるGlobishという簡易型英語)」と「3.1+英語を生業とする層、もしくはそれに準ずる層」の3種類の人材を育成する設備や体制を整えるべきである。


・英語に関しては高校から選択科目のような形にしても良いのではないか。


・そのかわり失われた日本語教育や日本の文化教育を充実させるべき。


・「英語が楽しいと思わせるような環境づくり」は大切かもしれないが、そもそも英語の習得を強要する必要はない。


・小学校の英語教育における「楽しい雰囲気作り」は、学習者が中学校に入った途端にますます英語嫌いを量産するのではないか。


・「英語は義務教育の中に組み込まれているから」という理由でこれだけの厚遇を受けているのであれば、理科や社会などに対する不遇はおかしい。


・アメリカ人は、日本人が8年間(中~大2まで)かけて英語を学んでいる間に、英語という工具を使って独自の武器を次々と生産している。(高めている。)


・日本は技術大国。自国の技術と英語の両方に力を分散させるよりは、世界に通用する技術に磨きをかける方が先決では?


・しかし、英語が世界で主導権を握っている事も現実である。



とりあえず今日はここまで。


突然ですが、今日は「ミーティングにおける発言量」に関するお話を少ししたいと思います。



ずばり、集団におけるミーティングでの発言量の差は、一メンバーとしての自覚や目的意識、組織に対する貢献度や理解度、熱意や欲求などに起因していると思います。


僕が所属している集団の例で言えば、「組織にとって最も理想的な状況」から「自分の発言が組織に及ぼす影響」を差し引いた結果、発言を控える人も少なくはないと思います。


つまり、自分が何か意見を言う事で組織全体の雰囲気が悪くなったり、物事の進行ペースが狂ったり、新たな問題が発生したりするのではないか…?という心理的な要素が働き、いつの間にか発言という名の行動を制限しているのです。


しかし、これらのものはあくまで一例であり、僕自身はミーティング内での発言量の差を招く要因(制限の種類)は、大きく分けて4つあると考えています。



○ミーティング内での発言量の差を招く4つの主要因


①時間的制限→時間やタイミングの都合で発言が難しい場合。
②空間的制限→議論の形式や出席者の人数などの都合で発言が難しい場合。
③身体的制限→体調不良による発言障害などが生じており、発言が難しい場合。
④精神的制限→(※下記参照、2種類)
・地位的制限→役職や年齢などの都合で発言が難しい場合。或いは発言する必要がないと考えた場合。

・効果的制限→自分の発言が組織に及ぼす影響や発言に付随するリスクなどの都合で発言が難しい場合。



はい、ということで、時間やタイミングに関する時間的制限、議論の形式や出席者数などに関する空間的制限、体調などに関する身体的制限、情緒や気質に関する精神的制限(役職や年齢などの都合で発言が難しくなる地位的制限、自分の発言が組織に及ぼす影響や発言に伴うリスクなどを考慮した結果行動を停止させる効果的制限など)という4つの制限がミーティングなどの場において知らぬ間に出席者を支配しているのではないかというお話です。


とは言ったものの、実際にはより多くの制限がかかっている気がしますし、結局本を正せばほぼ全てのものは精神的な部分に起因していると思います。


ミーティングを主導する者は、できるだけ全員が発言しやすいような環境づくりに配慮するべきですね。

(僕は全くと言っていいほどできていませんが…)


本来はその方法論をここに書くべきですが、僕自身、まだまだ模索中ですので今日はこの辺で…笑

ということで無理矢理綴った感が否めないですが、失礼しますw


今日もバイト、明日もバイト。


[1]
今日は"指導シマ(指導専門ブース)の常連"を作ってはならないと強く感じた。
というか、本来俺が働いているような自立型学習塾では、そういうものはあってはならないと思う。
少なくとも、俺がかつて通っていた2教室では指導専門のブースなどなかった。


[2]
とにかく、わからない箇所があればまずは自分で考えて、考えて、考えた先にまた考えて解答(勿論おざなりではないもの)を導き出すという作業が当時の鉄則であり習慣だった。
そして、解法パターンや手掛かりが要所に記載されているオリジナル教材がその作業を可能にしていた。


[3]
公○式の良さであり、最大の強みでもある部分は、大きく分けて

1.独力で学習を進める事ができる教材
2.徹底した反復学習を課すシステム

の2点だと思う。


[4]
指導シマの存在は、はたしてこれらの点を十分に活かす事ができるものなのだろうか。
却って学習の妨げとなっているのであれば、見直しが必要である。


[5]
指導シマにおける現状としては、終日マンツーマンで指導を行う光景を目にする事が多い。
また、特定の生徒が長時間滞在するという現象は既に体験済みである。
これでは通常の個別指導塾と何ら変わらないと言える。(と思う)


[6]
勿論、指導シマを完全に撤廃しろとは言わないが、自立型学習塾だからこそしっかりと指導する機会(場所)が必要だと言うのであれば、教師はあくまで学習における根本的な姿勢と目的を意識させる事を第一目標とするべきであり、学習内容に関する細やかな指導は二の次でも良いのではないだろうか。


[7]
これは「自立型学習塾としての公○式」の在り方に対する、とても深い偏見混じりの考え方だが、勿論個々の入塾や学習の目的・認知レベルなどを考慮しなければならないという事は十分に理解しているつもりである。
結局、何事も一般化するという事は不可能に近い。(という言い訳)


[8]
指導シマに関しては、いつでも利用できるものではなく、上記の過程を踏まえた上で、それ以外に選択肢がない場合のみ利用する事ができるという体制を作る必要があるのではないだろうか。


[9]
親の教育力(方針など)や経済力、友達や学校の先生、そして本人のパーソナリティーなど、人格形成には様々な因子が影響を及ぼしている。
その中で個々に共通の意識を持たせるという事は、決して容易な事ではないだろう。


[10]
それでも、プレイヤーは成長過程において、半ば強制的なイベントに遭遇しない限り、大きな殻を破る事はできないと思う。


(中断)


(これらの)140字以内の記述群を、いかに合理的かつ客観的な視点に基づいた文章に仕上げるかによって、今後の一自立型学習教室における教育の在り方に対して、僅かながらも変化を起こす事ができるかもしれない。
そう考えると、自然とやりがいを見出す事ができる。











…しかし、いくら覚書とは言え文構造と内容が…orz
同年代の優秀な友達の日記とは大違いだ。
これでは仮に私案書を提出しても、そのまま返却されるのがオチだろう。
基本的に世の中は自己満足の世界だと考えているが、こういうものは自己満足で終わらせて良いはずがない……うー難しい。






そろそろ師匠のような存在が欲しい。
松原さんは多忙だしなぁ…



うーん。
結局いつものパターン。

永遠の中二病ですw

◆5つの基本方針(本当は10個あるけど)

1.全ての物事は捉え方次第で「学びのきっかけ」或いは「学びそのもの」になる。

2.「自分はどう思うのか」、「自分はどうしたいのか」という観点を大切にする。

3.そのかわり、自分の意思に責任を持って行動する。

4.親しき仲にも礼儀あり。

5.世間や周りの目を気にしない。








マインドマップ(笑)にはより詳しく書いてありますが、大体こんな感じでしょうか。


2.については勿論、「他人はどう思うのか」、「周りはどうしたいのか」という「相手の事を思いやる気持ち」も重要ですが、結局他人がどう思っているかという事を考えて最終判断を下すのは自分しかいない(自分がこれから行う事を決めるための判断基準・決定権・実行権などは全て自分にある)と思います。

だからこそ、「自分」という"基準"(軸)を設ける事で、思考過程における代表値がある程度定められ、自分の意思に責任を持つ(自分だけでなく、二人称や三人称の事についても考える)事で、主観的な言動と客観的な言動の両立が可能になると思います。

つまり、「自分はどう思うのか」、「自分はどうしたいのか」という観点を大切にする事で、結果的に真の「自分らしさ」や「思いやり」が発揮されるのではないでしょうか。

個人的に、真の相互理解とはぶつかり合いの中から生まれると考えています。

ここで言うぶつかり合いとは、単純な暴力に頼った意思の疎通や強制などではなく、互いに"本当の自分"を曝け出すという意味の方が近いかもしれません。

少し荒い言い方をすれば、"本当の自分"とは、「俺はこういう人間だ!俺は誰が何と言おうがこう思うんだ!俺はこうしたいんだ!」という自分の意思(建前をなくした本音)の事です。


意思と意思のぶつかり合い。

時にはそれが意志と意志のぶつかり合いにもなるでしょう。

異なる意見を持つ者同士が本音を打ち明ければ衝突は避けられなません。



しかし、それこそが至高のコミュニケーションなのではないでしょうか。



つまり、お互いがあらゆる境界線を取り除いた状態で気を遣わずに言いたい事をガンガン言い合う。

以前テレビで「真剣10代しゃべり場」という企画がありましたが、まさにあんな感じです。





ボイスにも少し書きましたが、


自分の意見を持つこと。
自分の意見を発信すること。
相手の意見を聴くこと。
相手の意見を受け入れること。
考える努力をすること。
理解する努力をすること。
批判する勇気を持つこと。
批判される勇気を持つこと。




どれも難しいことだと思います。




そして、大人になればなるほど自分の言動に伴う責任の大きさは増していく気がしますが、そこからずっと逃げているだけではいつまでも成長しない気がします。



ちなみに僕は「協調性」という言葉は「自分」があってこそ成り立つ言葉だと思います。

つまり、自分の意思を明確にした上で物事を判断し、周りと協調していく。そんな形が理想だと思っています。


自分の意思を持たないで周りに同調するという行為は協調性のある行為とは呼べず、ただ周りに流されているだけなのではないでしょうか。

少しキツイ物言いかもしれませんが、僕はそう考えています。



まとまりのない日記ですが、今日は眠いのでこの辺で。


ある友人が僕が支持している「文法訳読型英語教育」を徹底的に批判していたので、現時点での自分の見解を列挙します。



・(コミュニケーション重視の英語教育支持者が)「英語を英語の語順のまま理解させる事が日本語を介さない自然なコミュニケーションの流れをつくる一歩に繋がる」と考えているのであれば、尚更文法や語法体系の理解が重要となってくる。


・大抵の日本人は、日本で生まれ、日本に住み、日本語を主として使用してきた場合が多いため、日本語(或いは日本語による思考過程)を介さないで英語を理解する事は難しい。


・行動は思考によってなされ(無意識の場合を除く)、思考は母国語によってなされる。


・「英語運用能力を向上させる教育」か、「英語によるコミュニケーション能力を向上させる教育」か、「自立学習能力を養う教育」か…など、いずれにせよ教育は目的を明確にする必要がある。


・所謂「コミュニケーション重視」の授業は実用性に重きを置く事で文法や語法を軽視する傾向がある。


・結局、実用英語(会話)重視の英語教育は中途半端なピジン英語話者を量産する場合がほとんどである。


・自分のレベルに応じて学習を積み上げるための基礎力を養う文法訳読式の英語教育の方が最終的には学習者のためになる。


・勿論コミュニケーション重視の授業にも数多くのメリットがあり、文法訳読式の授業にも欠点は多い。


・人によって得手・不得手があるように、それぞれに適した教育方法があるため一概に「○○が良い!」とは言えない。


・個人的には、英語教育よりも日本語教育に力を入れるべきである。


・英語を正確に理解するためには英文の構造を理解する必要があるが、母国語である日本語を理解する事ができなければ英文がどのような構造になっているのかさえ正確に理解する事ができない。


・そして英文の構造を理解するためには論理能力が必要となり、その論理能力は母語である日本語を基に養成される。



まだまだ知識が足りないので今日はこの辺で。

とりあえず自分は文法訳読式の英語教育に賛成です。

というか、そもそも日本の英語教育において「文法訳読型」か「コミュニケーション重視型」という二項対立のような図式を作る事自体おかしいと思うんだけどなぁ…


彼の日記には上記の内容を一気に書いてしまったけど、とりあえずもっと勉強しようと思います。


Gordon氏の"The Case for Changing English in Japanese Public Schools from Compulsory to Elective"を読了。


ABSTRACT


日本の公立中学、高校における英語必修化の数十年を経ても、教育学者や政府による定期的な改善策の実施をよそに、英語必修化の効果は期待に遥かに及ばない状態のままであるという事が一般的に認知されている。本論文は、今日の英語教育事情を概観し、英語授業の完全必修化は日本の英語教育環境に適していないという理論的枠組みを立証するためのものである。同時に、必修制から選択制への転換に付随する重要なメリットを記載する。



Contents

・国際的な観点―日本における英語教育に対する評価は低い。


・Kubota氏の主張:英語の授業を必修化させ、英語のみを使用して授業を展開させることは先見の明のない事であり国際理解を妨げる原因ともなりうる。


・英語は国際コミュニケーションにおける世界共通語としてこれからもずっと存在し続けると予測されている。


・一方で、日本のビジネスシーンにおけるリーダーたちは国際舞台で他国に引けを取らない国力を維持するために更なる英語教育の必要性を説いている。
→実際に国際舞台で英語を話すことができないと日本の評価は下がる。


・世界で二番目の経済大国へと成長する過程で英語教育に莫大な費用をつぎ込んできたにもかかわらず相応の効果は上げられなかった。



・近年の歴史―1970年代の中頃に出た主張


①英語は英語を必要とする学生にのみ教えるべきである。
→大多数の人は英語を必要としないから。

②試験などのための英語教育は日本人学生の知性を鍛えるために有益である。
  →①に対する反論。


・英語教育の現状―日本人にとって英語が難しい理由 (学生視点)
→日本の学生と「英語」の間には「地理的隔たり」、「言語的隔たり」、「心理的隔たり」が存在する。

①地理的隔たり→日本は島国なので海外との物理的距離が存在し、それが心理的な距離(おそらく日本語と英語が全く別物であるという意識)を生み出している。

②言語的隔たり→日本語は英語に比べて文脈依存の同音異字語(※新、心、芯など)や、一つの漢字で複数の読み方を持つもの(※書-く、ショなど)が多数存在する。
→日本語と英語は全く異質のものであり、外国人にとって日本語を習得する難しさがあるように、日本人にとっても英語を習得する難しさがある。

③英語の必要性に対する疑問→事実、日本は長い歴史の中で母国語の力で現在まで発展してきたにもかかわらず英語を学ぶ理由が理解できない。


・日本の高校教師が抱えるフラストレーションや不都合


①具体的な目標設定の欠如→大学における英語の授業名が実に広範囲に及ぶ曖昧なもの(※おそらく英語コミュニケーションや、Basic Englishなど)であり、教師たちは何が適切な内容を構成するのか定かではない。同時に、授業内容における明確な指針の欠如は生徒の進歩を評価する際に、より主観的なもの(判断)になってしまう傾向がある。

②調整や統一の欠如→英語科を有する日本の大学は生徒の成績(評価)のために、より明確な基準の構築に尽力するべきであるが、現状として、革新する自由の制限に対して抗議をすることでその問題を避けている。


・選択制へと転換することに対する主な反対意見


①文部科学省は何が学生に包括的かつバランスの取れた教育を与えるかを最優先としている。

②カナダやアメリカは大学入試において外国語の試験を設けていない。
 →日本が行う必要性は?



・必修制から選択性へと転換するメリット


①中等教育におけるメリット

→試験などのためだけに必要な文法訳読法(※受験英語?) などを教える必要がなくなり、それぞれの裁量でドラマやディベートなどの手法を取り入れ、学生の動機付けとなるような授業を展開することができるようになる。

②大学のメリット

→選択制にする事で本当に英語に関心のある学生だけが受講すると思われるので、英語の授業の質は著しく向上する。また、授業内容のレベルを上げる事ができるので評価も合理的に行うことができ、プロ意識を保つ事ができる。

③中学生にとってのメリット

→現状として、日本の中学生にとって英語=丸暗記、塾、試験地獄などと言った事柄を連想させる傾向がある。しかし、これを選択制にする事で、大いにこのようなイメージを取り除くことが可能である。