プロローグ

前項では“織田信長”が1575年(天正3年)11月に“至尊(天皇家・朝廷・貴族層)勢力”から“従三位・権大納言”の叙位、並びに“右近衛大将”の昇任を得“権威”を纏(まとう)ったその後から”織田信長“は、一層、不退転の覚悟で”全国統一”事業を進め始めた状況を記述した。

其の中には、1577年(天正5年)9月23日の“手取川の戦い”で“上杉謙信”軍に大敗したが幸運にも1578年(天正6年)3月13日に“軍神・義の武将・毘沙門天の化身”と称され“戦国最強の戦国大名・上杉謙信”が急死するという“織田信長”にとってはラッキーな事態が生じた。

この事は“足利義昭”にとっては、彼が主唱する“第3次・織田信長包囲網”の中心に据えるべき有力武将が“武田信玄”に続き、又もやこの世を去るという不運な事態であった。この結果“足利義昭”にとって残る頼みの武将は“毛利輝元”だけと成ったのである。

この項で一つ目の主題は“織田信長”にとって残る一人と成った“最強戦国大名・毛利氏”の動き、そして“毛利氏”と同盟し“山陽地区進出”への多大な貢献をした“宇喜多直家”そして彼の台頭、並びに“備前”(岡山県の一部、香川県の一部)地域で戦われた戦闘に就いてである。

“宇喜多直家”は“毛利氏”に徹底して敵対した“浦上宗景”の被官?従属的同盟者?という立場であった。前項6-23項では“宇喜多直家”がその“浦上宗景”を裏切り“青山・土器山の戦い”(1569年5月~6月)で敵方の“龍野城主・赤松政秀”方に与して戦い、結果は敗れたものの“赤松政秀”方を支援する“将軍足利義昭+織田信長”が背後に居た事に忖度した“浦上宗景”が“宇喜多直家”を罰する事は得策では無いとの判断から彼に“帰参”を許した。しかし“宇喜多直家”は再び“浦上宗景”に対し対抗を始める。“毛利氏”に従う事を決断した“宇喜多直家”は遂に“浦上宗景”を“天神山城の戦い”で敗り“備前国”から追い落とすという展開であった。

こうした“宇喜多直家”の動きは“江戸時代”以降の武士が“儒教思想”の浸透に拠って“武士は二君にまみえず”が忠義の基本であり、其れが“武士道”だと摺りこまれている我々には理解出来ない部分である。しかし“戦国時代”の武将達は“両属”(二人の主君に属する事)が当たり前の様に行なわれた事が数々の“寝返り”が起ったという史実から理解出来よう。

二つ目の主題が“宇喜多直家”の活躍もあって“東進”する“毛利氏”の一方で“天下人・織田信長”は“天下布武”の旗印の下“西進”策を進め“全国統一事業”を進めるが、内部で“家臣秩序編成”に無頓着であった為、矛盾を噴出させる。具体的には、次々と“家臣”そして“外様家臣”そして“従属的同盟者”からの離反が起る。結果“織田信長”は“謀叛”による“戦闘”に見舞われるのである。

“不器用すぎた天下人・織田信長”(金子拓氏著)は“家臣”そして“外様家臣・従属的同盟者”に対する自尊心を打ち砕く様な言動、独善的扱いを重ね“織田信長”に対する信頼を失なわせ、将来不安を与える。“織田信長”が 持って生まれた性癖、欠陥とも言える“人間関係の不器用さ”に拠って、彼等からの“離反”そして“謀叛”の連鎖に見舞われる。この項の第2の主題は“織田政権の内部矛盾”が露呈した“政権内部の崩壊”に拠る“戦闘”に多大のエネルギーを費やす史実展開である。

具体的には①“松永久秀”に拠る“信貴山城の戦い”であり②“別所長治”に拠る“三木合戦”そして、それと呼応して起こった③“荒木村重”による“有岡城の戦い~尼崎城の戦い~花隈城の戦い”と続く“織田政権内部の戦闘”を記述して行く事になる。

これ等の“織田政権内部の戦闘”が連鎖した背景には“足利義昭”が主唱した“第3次織田信長包囲網”の中軸と成った“毛利氏”の存在が当然あった。“家臣・外様家臣”そして“従属的同盟者”にとって人間関係が不器用で信頼性に欠け、将来不安を与える“織田信長”と比較し“毛利氏”へ寝返るという“選択肢”が存在したからである。

“毛利氏”と“織田信長”軍との間の直接の戦闘は,1576年5月に両者の“同盟”が破棄された直後から開始される。1576年7月13日の“第1次・木津川口の戦い”が緒戦であり、1577年11月の“第1次・上月城の戦い”で“織田方”が“毛利氏”の東進を阻むと“三木合戦”が勃発し(1578年3月)、この勃発に乗じて“毛利軍”は大軍で“上月城奪還”に臨む。“第2次上月城の戦い”(1578年4月~7月)である。この間の“毛利軍”の攻勢は“織田信長”への不満、不信、そして将来不安を抱く“家臣・外様家臣・従属的同盟者”に“毛利方”に付いた方が将来、より良い“受け皿”に成る、との見方を与え、結果、次々と“織田政権”からの“離反”そして”謀叛“が起こったのである。

更に“織田信長”は“四国の雄・長宗我部元親”に“四国制圧”の朱印状を与えた。“長宗我部元親”は“織田信長”と同盟する形で四国制覇に動いた。彼の立場も“従属的同盟者”であった。“長宗我部元親”との歴史上の絡み、戦闘、等に就いては次項6-25項で記述する。“長宗我部元親”も結果的に、この項の一つ目の主題”不器用すぎた天下人、織田信長“の“家臣、外様家臣、従属的同盟者“に対して”自尊心を打ち砕く様な言動“そして”独善的で扱い“を受けた一人として”織田信長“に抗う事に成るのである。

”織田信長“は1582年(天正10年)6月2日に“明智光秀”に拠って“本能寺の変”で討たれるが、その原因に関する諸説の中で、今日最有力説とされるのが上記した“四国の雄・長宗我部元親”に対する”独善的で自尊心を打ち砕く扱い“の結果が背景と成ったとの説である。

詳細は次項で記述するが”織田信長“は“四国の儀は(長宗我部)元親手柄次第”だとの朱印状を与えたものの、それを反故にする。この事は“長宗我部元親”との間に立って仲介役を果たしていた“明智光秀”並びに“明智家家臣・斎藤利三(徳川家光の乳母春日局の父親)”の立場を著しく損なわせ“織田信長”への信頼を失わせた。“明智光秀”はこの項で記す諸事件で見た“織田信長”の“家臣、外様家臣、従属的同盟者“に対する冷酷な対応から、果たして”織田信長“に付き従う事が己の将来にとって安全なのか、に就いての”将来不安“から“本能寺の変”を決断する事へとと繋がるのである。

以上が今項(6-24項)の概要である。理解の助に以下の表に以上の歴史展開を纏めたので参照願いたい。

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当記事の続きは以下からご確認いただけます。

第六章 武士に拠る闘争の時代と院政の終了・・織豊で成った日本の再統一

6-24項:“本能寺の変”へのプロローグ期間の“織田信長”・・“不器用すぎた天下人・織田信長”の家臣、外様家臣、従属的同盟者への拙い人間扱いが“本能寺の変”への規定路線を敷いた

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