何度も書いているが、私は筋金入りの体育嫌い(≒スポーツ嫌い)である。

今になって振り返ると、体育の授業で「練習させられたもの※1」で大人になってできないと困るものは何一つとしてなかった。

思い出せる限り書いてみると、鉄棒の逆上がり、跳び箱、ハンドボール投げ、マット運動(後転とか側転)、謎の創作ダンス、1500m走、ドッジボール、サッカー、野球、バレーボール、バスケットボール、水泳 などなど。できないと日常生活に支障があるようなものは何もない。現に上に挙げたものを私はまともにできないが、できないことが原因で何か問題になったことはない※2。

 

スポーツ庁がスポーツ嫌いを減らそうとして失敗していることを以前ネタにした。私は「スポーツ嫌いを減らす」という目標そのものが間違っていると考えているが、「スポーツ嫌いを減らす」が正しいとして子供に対してやるべきことを考えてみる。

 

以前は大人側から考えてみたのだが、今回は「小学生時代の私に周囲の大人から説明してほしかったこと」という観点から考えてみる。

 

まず、「体育の目的」を教えることだ。体育嫌いの最大の原因は「何のためにやらされているのか不明」だからではないのか。少なくとも私にとっては、体育の授業は単なる苦行でしかなかった。苦行を好きになる訳がない。

 

 

文部科学省 小学校学習指導要領から

 

(体育の)目標

心と体を一体としてとらえ,適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り,楽しく明るい生活を営む態度を育てる。

 

少なくともスポーツ嫌いにとって、体育に「楽しく明るい生活を営む態度を育てる」などという要素はない。時間割に体育があるたびに陰鬱な気分になっている人がいることを、この文章を書いた人は理解しているのだろうか。

 

目標と具体的な授業内容が全くリンクしていないようにしか思えない。骨折するような組体操とか、下手な運動を晒し者にして運動嫌いを増やす授業はこの目標に即しているというのだろうか。目的を教えられていれば、個々の授業に関して納得したり批判したりすることができる。

 

次に、

「今やっている個々の運動技能は大人になった時に何の役にも立たない」

「従ってできなくても構わない」

ということを教えるべきだ。目的を明示せずに大人に無理やりやらされると、子供は「できないとまずい」と考えてしまう。上の文章を読む限り、運動技能の習得は目標ではないようなので、特定の運動ができるようになる必要はないはずだ(そんな教育にはなっていないようにしか思えないが)。何も言わずにやらされると、「それが出来るようになる」ことが目的だと勝手に解釈してしまう。するとスポーツ嫌いは「そんなことができて何の意味があるのか」と思う。これに対して納得できる回答はない。

 

「出来るようになる」ことが目的ではないなら、個々の運動について「これをやる目的」を示してから授業に入るべきだ。目的がはっきりしていれば無理やりやらされている感覚が減り、体育を嫌う人を減らすことはできるのではないか。

 

ここまでが正しいとして、球技などをやらせる意味は何なのだろうか。「様々なスポーツをすることで生涯にわたり運動に親しむ資質を育てる」ということなのだろうか。それだけのために何時間も延々と球技をやる意味はどこにあるのか? スポーツ嫌いからすると、「これは二度とやりたくない」ということくらい一瞬で分かる。わかった後の時間は単なる苦行である。

 

「健康の保持増進と体力の向上」が目的なのに、なぜあんなふざけた授業になるのだろうか。わけがわからない。

 

 

※1 どれもこれもまともな指導がなかったことも共通しており、もはやあれを教育と言っていいのか?と思うが。

※2 特に球技の類は全く利用価値がない。かなりの時間を使っていたように思うが、何を教えたかったのか全く理解できない。目的の説明を一切受けた記憶がないのだ。