離ればなれになる一か月ほど前から、俺はほとんど自分の家に帰ってなかった。
仕事が終われば、誘われるままにシャオ・リンの家に寄り、寝て、翌朝リンの家からオフィスに向かった。
俺とリンが勤めているのは小さな観光会社だったから、俺たちがほぼ同棲状態にあるのはオフィスでは周知のことだった。
しかし、誰もそれを見咎めないのは、そのうち俺たちが離ればなれになることを知っていたからだ。
明るくてお人好しのリンはオフィスのみんなに愛されている。だから、リンが俺に置いて行かれることに、みんな同情していた。
そして、中には同情しながらも内心リンの前から俺が消えるのをホッとしてる奴も少なからずいた。
例えばパイロットのユタとか。
「よぉ。剛。調子はどうだい?」
俺はアフリカ系のユタが突き出したデカい黒光りした拳に自分の拳をぶつけて、
「いいよ」
と言った。
ユタは笑いながら受付カウンターの方を振り向いた。リンが予約表をパラパラとめくっている。
ユタはしばらくリンを見つめてから、俺に向き直り、
「剛、今晩帰りに一杯やらねぇか?」
と言った。
俺はジャケットを羽織り、バタン!とロッカーを閉めた。
「悪いけど、俺、今日はもう上がりなんだ。夜明けのフライトがあったから」
「そうか」
朝焼けに染まる渓谷は涙が出るほど美しかった。実際俺はコックピットで泣きそうになってた。
カダールの秘境と呼ばれるこの美しい自然の観光地も見納めかと思うと、いい歳してちょっと感傷的な気分になってしまったのかもしれない。
「じゃあ…帰ってからわざわざ飲みに出るのも億劫か…」
ユタは胸筋ではちきれそうになってるTシャツの胸元をさすって呟いた。
気が優しくて力持ち。荒っぽく短気なところがあるが、悪い奴じゃない。
ユタはまたリンの方を振り向いた。
すると、リンがよく通る声でユタ!と呼んだ。
「ユタ。まだそこにいたの?ランチは済んだ?」
「いや」
「次のフライトは12時半よ」
「わかってる。ランチなんて秒で終わるさ!」
俺は小さな声で、
「ランチなら付き合えるけど…?」
と言った。
「秒で済む話じゃない」
ユタは沈んだ声で言った。
「どうした?」
「剛がいなくなるのは寂しい」
デカい図体のユタが俺を上目遣いで見る。
「でも、リンがいなくなるのはもっと寂しい。剛が来る前からずっとリンはここで働いてた」
俺はユタの肩に手を置き、ポンポンとやった。
「大丈夫。リンはここに残る」
「ほんとに?」
「ああ」
「でも、彼女お前にゾッコンだ」
「……」
「連れて行かないのか?本当に」
俺はチラッとカウンターのリンを振り向いた。
長いストレートの髪を後ろに束ね、スタッフと冗談を言い合うリンの明るい笑顔。
「ああ。リンはここが合ってる。戦闘機乗りの奥さんなんてろくなもんじゃねーよ」