今日はスクールソーシャルワーカーさんに久々に次男の小さいころのことを話しました。
次男が中学校を卒業してから、6年。
今関わり話す人がいないので、久々に話してみると、次男が3歳くらいから大変だったことが(私にとって)
一つ一つ思い出されて来て、その当時の心持ちを感じると
いまだに涙が出てきそうになるのに驚きました。
苦しくてつらいという涙ではなくて、
よく頑張ってきたねの涙。
思うようにいかない子育て。
何を選択したらいいのかわからない子育て。
これまで自分が培ってきた正しいが通らない子育て。
何が悲しいって自分の無力さが悲しくなってくる子育て。
これがお母さんだという自分の中の勝手な規定の服を来て
それを脱げずに、どんどん着ていって、自分が何か、お母さんが何かをアイデンティティーが不明なお母さん。
自分が何かを知りたくて、子どもに執着する。
子どもという結果が自分の成果と思ってしまうから。
だから苦しい。
そんなお母さんの苦しさ全てを包み込み、癒して、新しいお母さん像になる
それがこれから必要とされてくる。
本当のお母さんの役割が明確化されている
それ令和哲学カフェで明らかになった。
私はずっとわかって欲しかった。
子どもを産み、育てることの大変さを。
そこで頑張っている私を見て!!私は存在したいの!!
ね、見て見て見て見て見て・・・・この繰り返しを、スパッと切ってくれる。
その時にこれまで自分が創り出していた子どもとの関係性のパターンが明らかになる。
なぜそうなってしまったのか理解納得できる。
関係性を0化する出発に戻れる。
そこは新しいアイデンティティーを規定できる。
そして始まる新しいストーリー。
そのお母さんは人間も超えてしまうお母さん。
そしてそのお母さんから出会う子どもは可能性にしか見えない。
次男のことも、私が勝手に規定するお母さんでみたら、心配、不安、可能性が見れない状態だったかもしれないけれど、
自分の思い込みを0化、そしてそこからすべてを創りだしているうごきそのものというアイデンティティーになった時に
みえてくる世界のなんて美しいことなのか。
これまで頑張ってきた「お母さん」という役割が癒される。
ここからが始まり!
IT×哲学×真理で面白く、かっこよく、美しく
善家 圭