先日もちょこっと紹介したマナさんのブログは、昔「1万回生きたマナ」というタイトルでしたが、今は「mannaの日記」となっています。
月曜のブログを今頃読んだんですが、非常に大事だと思う話が載っていましたので、保存しときたい部分を抜粋してご紹介いたします。(全文は以下のURLを参照してください)
http://plaza.rakuten.co.jp/ichimankaimanna/diary/201505250000/
◎◎をしてはいけない、◎◎であるべきだ、というセルフリミティングビリーフ=意識の中の制限ほど自分自身の邪魔をしてくるものはありません。
わたしはメロディ♪のセッションで「インナーセルフに会うワーク」の次に重要なのが「セルフリミティングビリーフ制限解除のワーク」だと思っていて、実際にこの五年近くの個人セッションのなかでもいちばんたくさんやってるのが制限解除のワークだと思います。
ネガティブな体験にもとづく◎◎でなくてはならない、という思いこみが無意識の制限です。
幸せになれない、自由になれない、結婚できない、お金持ちになれない、これらはみんな、じつは自分が潜在意識の中でそうなってはいけないと信じているだけなのです。
これらをシンプルな言い方にすると、罪悪感です。
幸せになることに罪悪感を感じているのです。
なぜなら自分はそれに値しない、と思いこんでいるからです。
でも、それは自分が勝手にそう思いこんでるだけで、誰のせいでもない自分のせいなのです。
それに気がつかない人は自分が幸せになれる条件を外界に求めます、どこかに自分が幸せになるための何かがあるんじゃないか、そう思って、自分の理想とする生き方をしている人を探し求めます。
そして、ほんとうは自分がそうなりたいと思ってることを実現している人を見つけると、依存もしくは攻撃を始めます。
依存するのは、この人のそばにいれば自分もこの人みたいになれるかもしれない、とカン違いしてるからで、これはうまくいかない自分の人生を、その人になんとかしてもらおうという気持ちのあらわれでもあります。
また攻撃するのは、ほんとうは自分がそうしたいと思ってることを実現している人への嫉妬です。
自分がやりたいのにやれないことをやってる人を見ると、自分のなかの罪悪感を刺激されるようで、つまり自分には許されてないのに、なぜこの人は自由にやっているのだ、やめるべきだ、という勝手な怒りをぶつけるのです。
いずれにしても、これが投影というやつです。
自分の無意識の願望を相手に投影してるのです。
さて、これこそが人間のもっとも厄介な性質のひとつだと思います。
というわけで、
罪悪感と投影は禁止
という標語を作ってみました。
ありのまま、という言葉がめっちゃ流行りましたが、ありのままとは自分の醜さも未熟さもごまかさずに受け入れることです。
キラキラのポジティブ発言だけを乱発しても、自分のネガティブな癖が消えるなどということはありません。
自分のなかの闇を無視した口先だけの愛だの光だのと言う軽薄な行動を続けて行くと、実際の自分自身とのあいだでどんどん何かが乖離していき、その矛盾が周囲には、なんとなく嘘っぽい人、という気持ち悪い印象として波及していきます。
結果その人は、ウソの自分像を延々と演じ続けなくてはいけなくなって、結局うまくいかなくなっちゃうのです、ウソの自分にいちばん消耗するのはその人自身だからです。
ネガティブな癖も自分の一面で、そういうところがあるなと認めることが大事で、それをなかったことにしたり必要以上に罪悪感を抱いたり、ましてや相手に投影して依存や攻撃するなんて、ムダとしか言いようがありません。
だから罪悪感を抱くことと、相手に自分の無意識を投影するのはただちにやめたほうがいいです。
罪悪感と投影は、潜在意識の制限がもたらすものです。
自分の主観というフィルターを通して世界をジャッジするのをやめて、わたしの正しさなど存在しないと知り、自分は自分、相手は相手と、正しく線引きすることが大事です。
相手と自分の責任の範囲を明確にすると、相手の問題と自分の問題を混同することを防ぐことは大事です、そうしないと支配と被支配、加害者と被害者という幻想の罠にはまる危険性があるからです。
セルフリミティングが少ない人ほど、相手に対して寛容で、理解と受容があります。
そして寛容と理解、受容と愛の先にしか、真に個性を尊重する世界はないとわたしは思います。
抜粋は以上です。
月曜のブログを今頃読んだんですが、非常に大事だと思う話が載っていましたので、保存しときたい部分を抜粋してご紹介いたします。(全文は以下のURLを参照してください)
http://plaza.rakuten.co.jp/ichimankaimanna/diary/201505250000/
◎◎をしてはいけない、◎◎であるべきだ、というセルフリミティングビリーフ=意識の中の制限ほど自分自身の邪魔をしてくるものはありません。
わたしはメロディ♪のセッションで「インナーセルフに会うワーク」の次に重要なのが「セルフリミティングビリーフ制限解除のワーク」だと思っていて、実際にこの五年近くの個人セッションのなかでもいちばんたくさんやってるのが制限解除のワークだと思います。
ネガティブな体験にもとづく◎◎でなくてはならない、という思いこみが無意識の制限です。
幸せになれない、自由になれない、結婚できない、お金持ちになれない、これらはみんな、じつは自分が潜在意識の中でそうなってはいけないと信じているだけなのです。
これらをシンプルな言い方にすると、罪悪感です。
幸せになることに罪悪感を感じているのです。
なぜなら自分はそれに値しない、と思いこんでいるからです。
でも、それは自分が勝手にそう思いこんでるだけで、誰のせいでもない自分のせいなのです。
それに気がつかない人は自分が幸せになれる条件を外界に求めます、どこかに自分が幸せになるための何かがあるんじゃないか、そう思って、自分の理想とする生き方をしている人を探し求めます。
そして、ほんとうは自分がそうなりたいと思ってることを実現している人を見つけると、依存もしくは攻撃を始めます。
依存するのは、この人のそばにいれば自分もこの人みたいになれるかもしれない、とカン違いしてるからで、これはうまくいかない自分の人生を、その人になんとかしてもらおうという気持ちのあらわれでもあります。
また攻撃するのは、ほんとうは自分がそうしたいと思ってることを実現している人への嫉妬です。
自分がやりたいのにやれないことをやってる人を見ると、自分のなかの罪悪感を刺激されるようで、つまり自分には許されてないのに、なぜこの人は自由にやっているのだ、やめるべきだ、という勝手な怒りをぶつけるのです。
いずれにしても、これが投影というやつです。
自分の無意識の願望を相手に投影してるのです。
さて、これこそが人間のもっとも厄介な性質のひとつだと思います。
というわけで、
罪悪感と投影は禁止
という標語を作ってみました。
ありのまま、という言葉がめっちゃ流行りましたが、ありのままとは自分の醜さも未熟さもごまかさずに受け入れることです。
キラキラのポジティブ発言だけを乱発しても、自分のネガティブな癖が消えるなどということはありません。
自分のなかの闇を無視した口先だけの愛だの光だのと言う軽薄な行動を続けて行くと、実際の自分自身とのあいだでどんどん何かが乖離していき、その矛盾が周囲には、なんとなく嘘っぽい人、という気持ち悪い印象として波及していきます。
結果その人は、ウソの自分像を延々と演じ続けなくてはいけなくなって、結局うまくいかなくなっちゃうのです、ウソの自分にいちばん消耗するのはその人自身だからです。
ネガティブな癖も自分の一面で、そういうところがあるなと認めることが大事で、それをなかったことにしたり必要以上に罪悪感を抱いたり、ましてや相手に投影して依存や攻撃するなんて、ムダとしか言いようがありません。
だから罪悪感を抱くことと、相手に自分の無意識を投影するのはただちにやめたほうがいいです。
罪悪感と投影は、潜在意識の制限がもたらすものです。
自分の主観というフィルターを通して世界をジャッジするのをやめて、わたしの正しさなど存在しないと知り、自分は自分、相手は相手と、正しく線引きすることが大事です。
相手と自分の責任の範囲を明確にすると、相手の問題と自分の問題を混同することを防ぐことは大事です、そうしないと支配と被支配、加害者と被害者という幻想の罠にはまる危険性があるからです。
セルフリミティングが少ない人ほど、相手に対して寛容で、理解と受容があります。
そして寛容と理解、受容と愛の先にしか、真に個性を尊重する世界はないとわたしは思います。
抜粋は以上です。