授業が終わると、教師の岬はさっさと教室をあとにした。

天地と角田はエプロンを外して手提げ袋に突っ込むと、連れだって教室を出た。

隣の準備室のドアを天池が少し開け、声をかける。「失礼します」

「入れ」

間髪入れずに岬は返事した。相変わらずの命令口調だ。

中へ入る。

「なんかいい香り。ミサキッチとは別の匂いだな」

角田が小声でつぶやき、天地はうなずいた。ほのかに柑橘系の香りがする。

デスクに向かって座っていた岬はノートパソコンを閉じ、椅子を回してこちらに顔を向けた。「お前ら正気か?」

「えっ?」

なんのことだろう? ふざけてたこと? 私語が多かったこと? それとも香りの話? 天地が頭をフル回転させ始めたところで岬が正解を発表した。

「くしゃみと噴火の話だ」

「あぁ、それ・・・・・・えぇっ?」

天地は混乱した。どうして岬先生はくしゃみの話を知ってるんだ? まさか・・・・・角田に疑いの眼差しを浴びせる。

「いやいやいや」角田は首を振った。「俺、誰にも言ってないぜ。だいたい、そんな時間なかったろ?」

確かにそうだ。カックンはずっと僕の近くにいたし・・・・・・。

「私は集中することで、あのくらいの距離ならどんな小さな音でも選択的に聞き分けられる。お前らの話を聞いた。ただそれだけだ」岬が平然とした顔で言った。

なんだって? 天地は耳を疑った。相当距離があったし、ささやき声だったぞ。

角田はヒューと口笛を吹いた。「マジすげぇ、ミサキッチ、超カッケー」

「角田。岬先生だろ」岬は言葉使いを注意した。

「えぇ~、いいじゃん。でも、ニッコリ微笑んで頼まれたら言うこと聞いちゃうぜ、ミサキッチ」いたずらっ子のように眉を上げ挑戦的な笑顔を角田はみせた。

「そうか」岬も一瞬微笑した。

初めて岬が笑うところを見た天地は、まさに天使の微笑みだ、と思った。興味ないとは言ったが、光輝くような岬の笑顔は、そんな天地でさえ魅了されずにはいられないほどだった。
カックンならなおさらだろう。そう思って横を見て腰が抜けそうになった。角田の体は宙を舞っていたのだ。そしてそのまま床に落ちて倒れた。

「岬先生だ」岬は椅子に座ったまま角田を上から見下ろして冷静な口調で言った。「目上には敬意を払え。日本人ならな。わかったか」

「は、はい。岬先生」目を丸くし、寝たままピクリとも動かずに角田は答えた。

「今、何したんです? 先生は超能力者なんですか?」天地は目を見開いたまま質問した。

「違う。合気道だ。父は師範だから、私もこのくらいはできる。さっき話した聴力の強化も修行の成果だ」

そうだったのか。岬の言葉に納得しかけた天地だったが、やはりわからない。彼女は全く動いていなかったのだ・・・・・・まさか気で?

「そうだ。気を操ったのだ」まるで天地の心の声を聞いたかのように岬は答えると、角田に言った。「もう立っていいぞ」

さっきからずっと硬直したように横たわっていた角田は、「うわっ、やっと動けたぜ」と言って立ち上がったが、おびえた草食動物のような目で岬を見つめている。

「ここで見たこと、聞いたことは秘密だ。死にたくなければな。わかったか」

やはり怒った口調でも大声を出してるわけでもないが、しゃべったら殺す、と暗に言ってるような言葉に本気の凄みを感じた二人は、ビビリながら黙ってうなずいた。

「よし、ではまず言っておく。私はお前達の味方だ。安心しろ」

「マジッすか。いやぁ、良かったぁ」角田は安堵のため息をついた。「敵だったら怖すぎるっちゅうの」

だが天地は眉間にしわを寄せた。「僕らに敵がいるんですか?」

「いる。これから現れるだろう。だから、ここに呼んだのだ」

「敵の目的はなんですか? 僕のくしゃみと関係してるんですか?」

「そうだ。その前に天地、まずお前の状態を確認するぞ。お前は今まで火山の爆発を予知してくしゃみをしてきた。だが、くしゃみと噴火の関係性に気付き意識するようになったため、火山ネットワークとの繋がりを無意識に強化してしまったようだ。そして、ついに天地がくしゃみすることで一番近くの一番大きな火山が反応するようになったんだと私は考えている」

「ちょっと待ってください。僕と噴火に関係があることは認めます。でも、火山ネットワークってなんですか。まるで各地の火山が生きていて繋がってるような言い方に聞こえますが」

「そのとおりだ。地下のマグマを通して火山は全て繋がっていて、それぞれ意志を持っている。そもそも地球自体が生きているのだから」

「地球が生きてる?」天地はそんなこと考えたこともなかった。

「そうだ。命の形態は様々だ。人間のように手足があって動くものだけが生きてるわけではない。木は歩けないが、根や葉を使って栄養素を取り入れ生きている。さなぎは全く動かず、中は液体状になっているが、生きているからこそやがて蝶になる。水晶は震動してるから時計の動力として使われている。石だって生きているのだ。地球だって自転・公転に海流、マグマ、風に雨と常に動いている。星という形態で生きているのだ」

「確かにそう考えたら、地球も生きている、と言えなくもないですが、にわかには信じられません」

「推論で言ってるのではない。私は瞑想で地球と一体になったことがあるから、地球が生きていることを実感している。マグマの活動は人間における血液循環や、リンパ腺の活動みたいなものだ。人間自体、地球という体の細胞の一つだ」

瞑想が証拠だと言われても納得はできないが、天池は自分がわからない話は否定せず、判断を保留することにしている。

「・・・・・・そうなんですか。でも、そうだとしても、なんで僕だけが火山ネットワークと連動するようになったんでしょう?」

「それはわからない。ただ、誰もが地球の一部なのだから、お前だけが繋がってるわけではない。でも、なんらかの理由で地球がその役割を天地に与えたんだと思う」

結局わからないのか。天池にとって岬の分析は一つの説に過ぎなかったが、かといって他に納得できる考えも浮かばない。カックンはどう思ってるんだろうか? 横目で見ると、完全にアイドルを見るような目になっていた。たぶん何も考えてないな。

「そこまではいいとして、なぜ、敵が出てくるのかわかりません」天地は首をひねった。

「お前のくしゃみと火山の噴火の関係をもし国が知ったらどうなる? お前を監禁するかもしれない。くしゃみしても影響がない場所に。もしくはくしゃみがでないように処置するかもしれないし、研究材料にされるかもしれない。少なくともお前に自由はなくなる。お前にそれを強いる奴らは敵といえないか」

「なるほど、そういうことですか」

「だが敵は国や研究機関だけじゃない。富士山の噴火によって甚大な被害が出るのは間違いない。もし、噴火を誘発したのが天池だとマスコミが報道し、一般市民が知ったらどうなる? 国民からも恨まれ、加害者として糾弾され、どこへ行っても後ろ指をさされるだろう」

それはあまりにもきつすぎる。天池は一瞬絶句したが、すぐに思いなおした。「でも、僕のことは誰にもまだ知られていないはず──」

「だから、お前ら正気か、と言ったのだ。クラスメートが近くにたくさんいるなかで、たとえ声をひそめても誰かが聞いてたかもしれないんだぞ」

「いや、もし聞いてたヤツがいても、国やマスコミと関係なくね?」角田が口を挟む。

「角田、お前ツイッターやってるな。どうでもいいことでもつぶやいてるだろ?」

「まぁ・・・・・・」うなずく角田。

「なんとなく、聞こえたことや、実際に起きたことを何も考えずにつぶやく輩がクラスにどれだけいたと思う?」

角田は目線を上にあげて考える。「え~と・・・・・・」

「ほぼ全員だ。300年ぶりの富士山の噴火だぞ。どんなヤツでもつぶやく。その中には天地やくしゃみの話も既に出ている。もちろん、核心をついたものはないが、権力者や支配者達は様々な情報収集を行っているから、いずれ気づかれる。さっき話した奴らよりもっと恐ろしい奴らだっている。そいつらのことはまた今度話すが、天池が拉致されるのは時間の問題だ」

「マジかよ。そんなこと俺がさせねぇ」角田が声を荒げた。

「お前が天地を守る、というのか。命掛けだぞ」

「かまわねぇ。アマッチを守るためなら俺は死んでもいい」

天池は驚いた。そこまで僕を思ってくれてたなんて。持つべきものは親友だ。

「なぜ、友達だというだけでそこまでする気になる」岬が問いただした。

「アマッチが美しいからだ。メガネを外そうもんならもうメロメロだ」

「えっ!?」天地はたじろいだ。「カックン、そんな目で僕を見てたの? ゲイだったなんて」

前言撤回。ゲイの親友は勘弁だ。そういえばカックンは女好きを装っているが、女と付き合ったことはない。今日も首に腕を回されて顔を近づけてきたし、まさかそういうことだったとは。

角田は素早く首を横に何度も振った。「俺はゲイじゃねぇ。ただ美しいものが好きなだけだ。ミサキッ・・・・・・先生を好きなのも同じ理由だ。美しいものを守るのが地球に与えられた俺の役割だ」

なんだ。そういうことか。天池は心からホッとした。

岬はあきれて「フッ」と鼻で笑ったが、すぐにいつものクールな顔に戻った。「だが、今のお前では天地を守れない。だからまず、合気道部に入れ」

「わかった。俺も岬先生のように気で敵をけちらしてやる」

「相当な努力が必要だぞ」そういうと岬は天地に目線を移した。「天地も入れ」

「えぇ~、僕もですか?」

「最低限、自分の身は自分で守れないとな」

そこへ角田が割り込んだ。「でも、ウチの学校、合気道部なんてあったっけ? アマッチ知ってっか?」

天地は首をかしげた。興味ないものは覚えていない。

「ないから、創るんだ。角田が部長で天地が副部長。私が顧問だ。この用紙にサインしろ。私が校長に認めさせる」

用意がいい。岬が差し出した紙は既に名前を書けば済むだけになっていた。二人ともすぐにサインする。

「よし、では、角田。ここに立て」岬は立ち上がり、自分の椅子の前に角田を立たせて言った。「私の目を見ろ」
角田が岬の目を見おろした瞬間、彼女はまた微笑した。角田はそれを見てニンマリしたが、そのまますぐに目を閉じ、椅子に座り込んで動かなくなった。

「何したんです?」天地には何が起こったのかまたしてもわからなかった。

「当て身だ。心配ない。ちょっと眠ってもらうだけだ」

「当て身?」ホントか? そんな動きは見えなかったぞ。「でも、どうして?」

「角田が邪魔だからだ」

「邪魔?」どういうことだろう。

「二人きりがいい」岬が三度目の微笑みをまた一瞬だけみせたので天地はゾクッとした。なぜか彼女は白衣を脱ぎ、デスクに無造作に置いた。「これも邪魔だ」
ピッチリと体を覆う白いブラウスに紺のタイトスカート。見事な曲線美に見とれてしまう。

岬はドアまで歩いていき、カギをかけた。なんで? と思う間に、岬は引き返してきて天池の右手を握った。

接近され、甘美な香りが漂ってきた時、天池は悟った。僕は今誘惑されてる。心臓は急速に高鳴り始めた。ゲイの難を逃れたと思ったら次は女性教師とは。しかも今度はマジっぽいぞ。僕はどうしたらいいんだ。まだ高一になったばかりで女性経験はないし。

天地の手を赤い唇の前まで持ち上げて岬は言った。「この薬指の怪我はさっきガラスを拾った時のものか?」

手にキスされるのかと思っていた天池は面食らった。「えっ、怪我してました? 確かにあの時チクッとした気はしますが・・・・・・」

見ると確かにほんの小さな切り傷があった。
天地にはたまにある。気づいたらかさぶたになっていることが。つまり怪我したことに気づかないまま治ってることがあるのだ。
だから、特に驚きはしなかったし、ホッとした。迫られたんじゃなかったんだ。そりゃそうだよね。

「そうか。ところで天池は彼女いるのか?」

「いえ、いませんが」

「なら良かった」岬はそれだけいうと、天地のブレザーのボタンを外し、Yシャツのボタンを外し始めた。

「なっ、なにを──」 天地は再び気が動転した。これはまずい。甘く危険な香りに包まれて身動きができない。なんていい匂いなんだ。ずっとかいでいたい。これはまさに禁断の果実だ。カックンが邪魔ってのは、やっぱりこのことだったんだ。再び鼓動は激しさを増す。これ以上はダメです、先生。しかし、声にならない。

岬はボタンを全部外し終わると脇腹に右手を入れ、背中にまわした。

温かく柔らかな手のひらが心臓の裏あたりをやさしく愛撫した。

気持ちいい、と思った瞬間、ツメをたてられた。

「イタッ!」

すると、岬はすぐに体を離した。「よし、今日はこれで終わりだ」

えっ? 終わりって、いったいなんだったんだ? わけがわからない。「あの今のは──」

「理由は明日説明する。彼女がいないなら、背中に傷があっても問題ないだろ」岬はそう言いながら、角田にカツを入れて目を覚まさせていた。

ヤバイ、角田に見られたら、なんて言われるかわからない。慌ててシャツのボタンを留める。

「角田、立て」岬が声をかけると、ボーッとしていた角田は急に正気に戻ってパッと立ち上がった。

「よし、もう帰っていい。明日また二人だけで放課後ここに来い。勧誘活動も忘れるな」

「はい」二人ともなんだか狐につままれたような表情で答えるとドアまで歩き、「失礼します」と挨拶して出て行った。