今朝アップした夢の話の解釈に関係するイエスのたとえ話をご紹介します。


有名なのでご存じかもしれませんが。




「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕(しもべ)どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。



すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。



五タラントを渡された者は、 すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。



二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。



しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り主人の金を隠しておいた。



だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。



すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、 『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』



主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。



二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』



主人は彼に言った、 『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』



一タラントを渡された者も進み出て言った、 『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』



すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。

それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。 そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。

さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』 





このたとえ話の大事な点はここです。



「持っている人はさらに与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」




昔この話はいまいち理解できませんでした。




最後の人があまりにもかわいそうじゃないかと。



でも、これには二つの大事ことが示されていると今は思います。




まず一つ。





人それぞれ与えられた能力や才能があり、計画を立てて生まれてきている。

だから、思う存分その力を自分なりに発揮して生きていきなさい。


自分の出来ないことを求められてるんではなく、自分の出来ることを、やりたいことをやればいいのです。





未来の失敗を恐れて何もやらないと、死んだあと後悔したり自責の念に囚われて、いわゆる地獄体験をすることになる。(もちろん神が罰するのではなく、自分でそれを選択するんですが)


または、カルマとなって次の人生でまた同じことをやるハメになる。





そんなのは馬鹿らしいから、今を一生懸命生きましょう。





過去にやったことがないから、成功体験がないから、無理、できない、と思うことはありません。


今度はできるかもしれないです。過去にやらない理由を探し、未来を心配するのはやめ、やりたいことがあるなら挑戦しましょう。やれるからこそやりたいと思えるのですから。








という感じで、生まれる前の計画、カルマの法則、原因結果の法則についての話でしょうか。









そしてもう一つ。



自分は持っている(才能、豊かさ、健康、など)と思っている人はその思いがさらに持っているものを強化していきます。

逆に自分には欠けていると思っている人は、その思いが現実化され、さらに悪い状況に陥ることになります。





今持ってないという思いは、このままでは未来が不安だという思いに繋がります。そしてその通りの未来になってしまいます。





いわゆる引き寄せの法則とか、波長同通の法則とか、思いの現実化と言われるものでしょうか。



だから、自分の中にあるものを見つめてそれについて感謝し、精一杯生きることが大事。








前回書いた私の夢はこの後者を表したものでした。




具体的な話はそのうち書くつもりですが、私は「持っていない」という思いから行動し、見事に持ってるものまで取り上げられることになったのです。




夢に出ていた弱小プロダクションの社長と同じです。








他にもイエスはこう言っています。




「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」



「空の鳥は種蒔きも、刈り入れもしていないのに、養われています。野の花は、あんなに美しいですが、世界で栄華を極めたソロモン王よりも美しく着飾っています。ではなおさらのこと、ご自分のかたちに造られた人をどうして神が養わないはずがあろうか」





心配するのではなく、必要なものは与えられる、ということを信じ、自分がいいと思うことをして精一杯生きる。

これが大事なんですが、私はそれを信じ切れてなかったのです。そして、欲を出し、必要以上のものを求めていました。




神を信じる、というのは自分を信じる、ということです。自分が本来神と一つであるということを。



ワンネス体験した人にとって、それは信じるレベルではなく、事実となっていますが、その体験がなくても事実だと受け入れることができればそれで十分です。



「あなたは見て信じたが、見ないで信じる人は幸いです」

これもイエスの言葉です。





地球が球体だということ、太陽の周りを回っているということを見た人はほとんどいないでしょうが、それは誰しも事実だと認めています。信じるレベルではないでしょう。常識になっているからです。





だから、見なくても、人の話を聞くだけで100%信じることは可能なのですが、自分の体験があれば確信に変ります。





例えば、テレビやラジオや携帯の電波が目の前を飛び交っているのを見たことがある人もほとんどいないでしょうが、それを疑う人はいません。

実際にテレビを観たり、ラジオを聴いたり、携帯で話したりしてるからです。



やはり、自分の体験があるに越したことはないです。




必要なものは必要な時に必要なだけ与えられる」






今はそれを心から信じられるかを試されています。


そうなんだってことをこれから体験していく予定です。


もちろん、だからって、何もせずに寝ていればいい、とは思っていません。


昨日図書館で借りた本でも、イエスは「ただ祈ればいい」とは言ってません。


人事を尽くして天命を待つ


やはりこれですね。



自分ができることを一生懸命やっていきます。