前略 X様

国語において鄭の子産曰く、防民之口甚於防川(民の口を防ぐは川を防ぐより甚だし)、と。
中共の政策が正にこれで、その愚かさはインターネットの時代になっても全く変わらぬ。
異論を許さぬ、というよりも、人民が本当のことを知ってしまい、事実を基に中共の、特に統治の正統性を批判するのが怖くてたまらないのだ。
日本人が中国や中国人の悪口を幾ら言っていても放置しているし、また日本国内に居る限り放置せざるを得ないが、中国国内に居る者が本当の事を言い出すと、中国人だろうが外国人だろうが神経質になる。

それこそ正に小心翼翼、この一介のサラリーマンに過ぎぬ僕ですら怖いから口を塞ごうとする。
現に僕は自分のブログで自分が書いたことを中国では見られないのである。
ひょっとして、何かの間違いでこのブログが有名になってしまうと、こういう形で自分の考えをアップすることも許されなくなるだろう。
中国のインターネットは閉じているからそういう事が出来ると中共は思っているのだろうが、それこそインターネットなら方法は幾らでも有るから無意味な徒労だ。

しかし個人的に腹が立つことは立つ。
中国人は相手が誰だろうと正面から反論されると面子を潰されたと感じるので、反論をするならできるだけ穏やかに、多くの人々が一遍に判ってしまわないように反論するのが礼に適っていると思っている。
つまり論理的合理的で効率的に自由な議論が出来ないのが中華というものである。
論理的合理的で効率的に自由な議論が出来ないのだから、世界を変えるような新しくて良いものが他に先駆けて生まれるわけがなく、先進的なものは真似し続けるしかない。

これでは何時まで経ってもコピー大国から抜け出せないし、個々の中国人が幾ら優秀でも、組織対組織では欧米や日本に敵わないわけだ。
同様なことは小中華である半島にも言えるかも知れない。
自戒を込めて言うが、自らへの反論を言う口を塞いではならないのだ。
特に事実を挙げての反論に対しては。

そういう中でフラストレーションを溜めているのは僕のような日本人だけではない。
だから本当に中共にとって触れて欲しくない事を正面切って多くの人々に語りかける場合には工夫が要る。
それは古来より中国の文人が試みて来た方法である。
中国だけではなく、日本でも、例えば近松の忠臣蔵がそのような方法で書かれている。

しかしそのような方法で書かれた文章は、同時代に多くの理解者を得る事が難しい。
古典とか、教養というものを共有している者の間でしか通じない暗号文であることが多いからである。
誰も他人のフラストレーション発散が目的である暗号文など読もうとは思わない。
そういう暗号文を読もうと思う人が多くなるのは、同じフラストレーションを抱える人々が多くなった時だけである。

今、中国人の中に、そのようなフラストレーションを抱えている人は、そう多くはない。
日本人に至っては皆無に近いのではないか。
何しろ日本国内に居れば、幾らでも中国の悪口を言ってフラストレーションを発散できるので、暗号を使ってまで中共にモノを申す必要が無い。
しかし現に中国に住んでいる僕はそうはいかぬ。

僕は別に、孫文を応援した日本人義士のように中国人を煽って中共をひっくり返したいと思っているわけではない。
やろうとしても僕一人ではそんな途轍もないことはできないし、そもそも不満を持つ人がまだ少なく曲がりなりにも全般的に平和な状態を達成している政権を転覆するなど、その国の人にとって迷惑極まりない行為だ。
思うのは、せめて日本語を理解できる中国人に重要な事実を知って欲しいという事と、そのような事実を基に中共統治の正統性に少しでも疑問を感じて欲しいということである。
中共の好き放題を放置していては中国やその周辺国は滅茶苦茶になってしまうので、批判する目を養って欲しいのだ。

それは或る程度、日本人に対しても言える。
ネットの掲示板は中国人を嫌悪したり憎悪したりする下品な文言のオンパレードだが、そのような子供じみた文章は見るに忍びない。
中国人の欠点を論って悪口を書いている日本人の多くは、中国の多くの地域に旅行したこともなく、中国の本当の田舎に行ったこともない。
そして中国人を平気で侮蔑する書き方が出来る日本人は中国人の友達もいないだろうから、中国人が心の底ではどのように感じ、どのように考えているのだろうかと思いを巡らせることも無いだろう。

互いに互いを知らず、罵詈雑言し合っている状態は現状の不幸であるばかりでなく、将来の危機だ。
それは独り中国だけの危機ではなく、日本にとっても危機である。
日本人の中に、聞く耳を持っている人を見つけるのは比較的簡単だ。
だが中国人の中にそのような人を見つけるのは難しいので、これからも僕は中国人とのコミュニケーションについて考え続けなければならない。

早々