前略 X様

朝青龍、すげえなあ。
問題児であることは確かだが、勝負師とかショーマンとして客を呼び、相撲協会にお金を運んでくれるのだから追い出せないのだろうな。
国技と言ってもプロレス興行と同じで、権威は有っても収入が無いと成り立たない見世物だからな。
マネジメントがこれだけ難しいのであれば、外部からプロの経営者を呼んだ方が良いかもなあ。

でも日本ではプロの経営者というのは希少だからなあ。
そもそも育てようとしていないし、そういう職業が一般的に認められてない。
単にトップに立つ高給取り、位にしか思われていない。
政治家もそういうところが有ると思うんだが、それでは全体最適を目指せないんだよなあ。

さて、仕事の都合で春節までに帰国できず、女房はオンニのいる韓国に行ってしまい、僕は独りでこうして大連で旧正月を迎える事になった。
店という店はシャッターを下ろし、とりあえず夕方は6時になると所構わず花火に爆竹でテレビの音も聞こえない騒音地獄。
経済発展と共にひどくなる大陸のこの馬鹿騒ぎ、年が変わる夜になるとどういう事になるのやら。
香港では花火や爆竹を私物化できなかったので、これほどのストレスは感じなかった。

この私物化の精神が大陸の文化の中心概念であり、欧米人や日本人に最も忌み嫌われる前近代的なところだ。
地大物博の中国で、何処まで行っても私物ならざるは無し、という恐ろしい文化的現実。
だが近代文明の与り知らぬ中国の田舎だけの現実であれば、我々外国人も知ったことではない。
問題は中国人、特に漢民族の殆どが、外国人からは商業民族と思われているのとは裏腹に、農民、日本風に言えば田舎者であることである。

中国人にとって「農民」というのは田舎者の意味で使う言葉で、差別臭が強い。
不合理だったり、マナーに欠けるような振る舞いをすると、中国人同士でもこの言葉をよく使う。
言わば罵倒語の一種と言っても良い。
中国語は日本語と違って悪口の語彙が豊富だが、「農民」というのはその中でもかなり複雑な意味を含む罵倒語である。

僕は北京人の老師から普通話を習った時、「中国語では農民という言葉に差別感は無い」とわざわざ教えられた。
しかしそれは政府筋を身内に持つその老師の公式見解であって、現実はそうではない。
中国の農民というのは文明や都市生活の常識を知らず、鼓腹撃壌の世を生きる時代錯誤でしぶとい存在だ。
だが公路に唾や痰を吐きまくったり、エレベーターの中で喫煙したり、騒音を出したり、腹を出して歩いたり、列を作って並ばなかったり、といった今や世界的に有名な中国人の悪徳は、一部を除いて中国農民の専売特許ではない。

そういう反公共的なマナーの悪さは、途上国の国民性に共通することであることが多い。
もちろん日本でも若い不良はよくやる。
以前帰国中に或る大型ショッピングモールで、見た目も普通の若者が廊下に唾を吐いているのを見て驚愕したことがある。
それが中国人の特徴のように思われるのは、一にも二にも数が多くて目立つからである。

では目立つもへったくれも無い中国ではどうか。
僕が感じるのは、田舎では許されるが都会では許されないやり方であくまで暮そうとする田舎者が都会を跋扈しているということだ。
唯の田舎者なら、余程の強情者でもない限り、都会に馴染めば「田舎者性」は薄まり、是正されるだろう。
しかし中国の田舎者は数千年の歴史を持つ「農民」であり、都市を包囲して天下を取った者の末裔である。

そのしぶとさは折り紙付きであり、世界中のどこに行こうとも、その性質が一夜にして集団的に変化するということは有り得ない。
では日本がかつてそうだったように、中国の農民は世代が変わると都市住民となって行くのか?
そして都市労働者の方が多くなって田舎が過疎になり、国民性の質が全体的に向上するのか?
僕はそうは思わない。

僕の女房は時々「魯迅の気持ちがよく分かる。魯迅になりたい。」と呟く。
江戸期蘭学が明治を開いたと知った魯迅は医学を志して日本に来、そこで初めて中国の全体的現実を認識した。
そして人体に巣食う病ではなく、国家や国民や民族に巣食う病を治し、欧米や日本にも侮られない真の独立を勝ち取ろうとして文学を志した。
だが魯迅が恥じ、改善しようとしたアジア的停滞の総本家のような中国の前近代性は百年や二百年では変わらない。

毛沢東が1億や2億は死んでも構わぬと思って全てを破壊する覚悟で発動した闘争も、最初から最後まで下らない奪権闘争に終わった。
本気で文化に革命戦を挑もうと思っていたのなら、何らかの救いも有ったかも知れないが、闘争が毛沢東や四人組の私的なものに終わったから、単に中国的で悲惨な内乱になった。
何が私的で何が公的かという区別が付かぬ中国農民は社会を破壊する原動力には成り得ても新たな価値が支配する社会を創造する力は持たない。
だから中国の戸籍制度は農民が国内を移動する自由さえ奪って土地に縛り付けようとする。

それならば明治日本のように教育にお金をかけて田舎者根性を叩き直せば良いのに、自分達は農民ではないと思っている都会の支配者層や富裕層も根本的に「農民」だからそれができない。
いや、やろうと思っている志の高い人もいるが、そういう人は偉くなれないのが中国だ。
日本も中国の事を言えるほど偉くはなくなってしまったが、少なくとも志を伝える言葉が有れば、偉くなることができる可能性が有るだけマシだ。

空襲のようにしつこく花火の音が鳴り響き続け、頭痛がしてきた。
まとまった思考ができない。
中国人が現実を直視できず、事実を重んじず、論理的な思考が苦手なのはこういう文化を遺伝させてきたせいである。
中国人の祝いの日に、僕は中国に居たくない。

早々