前略 X様

戦争とか政治といったものは、畢竟それが正しかったか間違っていたかではなく、成功だったか失敗だったかという見方で評価されるべきだろう。
日韓併合も、大東亜戦争もその類の歴史的事件であり、それが日本国民にとって成功だったか失敗だったかという見地で語れば、ほぼ100%の日本人が「あれは失敗だった」と言うのではないか。
中国の正史というのは、どれもこれも、正しかったかどうかという史観が文章全体を強烈に支配しているが、政治的に正しいかどうかというのは所詮思い込みである。
そういう意味で、大東亜戦争や日韓併合に正義の観念を持ち込む日本人は、中国人や韓国人と同じ土俵の上で戦おうとしている危なっかしい人々であると最近僕は感じるようになった。

正しいか、正しくないかという観点で見れば、双方に正義が有るだろう。
そういう言い合いなら、弁が立って思い込みが強い方が勝つ。
弁が立たず反省癖のある日本人は中国人や韓国人に負けるから、日本人もいろいろ思い込んで、自分達の正義を復活させようとせざるを得ない。
Yahooの掲示板などで催されている日本人と中国人、韓国人の言い合いは、正にそういう現象である。

この類の話題で、どちらが正義だったかという言い争いは不毛であるばかりでなく危険である。
日本の昔滅び去ったはずの大日本帝国の正義が目覚めるということは、中国にとっても韓国にとっても災いのはずだ。
ところが今、愚かな中共や韓国の挑発に乗せられて、日本人はその正義を目覚めさせようとしている。
失敗を繰り返さない為の改善や予防策が万全ではないのに、同じ正義を掲げれば、組織的方法論的に大して進歩していない日本人は再び同じ失敗を繰り返す可能性があるので不安だ。

高級軍人が官僚ならば、彼は正義を語ってはならぬだろう。
正義を語るのは政治家や思想家の仕事である。
軍人はひたすら勝たなければ意味が無いので、成功と失敗だけが政治的な評価の基準でなければならない。
そうでなければ、ノモンハン以来の日本軍の悪しき伝統がまた復活してしまう。

その意味で、幕僚長の肩書きのまま正義を語る事は職分を守っていないことであるし、その論文の典拠が曖昧で学問的に厳密な検証に堪えられないというのは論文としても失敗している。
つまり田母神氏は二つのポイントにおいて過ちを犯しているわけで、この人を神のように賞賛するというのは、その正義に激しく共感している人が多いという意味しか無い。
僕自身は彼の正義に一部共感する部分は有るが、全て真実だとも思わない。
何よりも当時の日本の指導者達が、今と変わらぬ愚か者であったということが引っ掛かって、安易な同情をさせないのだ。

僕自身は自分を愛国者だと思っているし、天皇陛下万歳で日の丸君が代大いに結構と思っている。
様々な反日勢力と、どのように対決するべきかを折に触れよく考えている。
しかしそれとこれとは別の話で、僕は愛国者や右翼(帰宅部系)である前に、過激派や狂信者といった「正義の虜」になっている人が大嫌いな普通の庶民なのである。
「正義の虜」になっている人というのは、自分の正義の為なら簡単に他人を否定し、精神的にも肉体的にも他人、それも全く何の関わりも恨みも無い他人を抹殺する事に痛痒を感じない非常に迷惑な人なのである。

そういう意味では、オウムの信者達も「正義の虜」だし、何だかよく分らぬ理由で元事務次官を殺した奴もそうなのであろう。
スターリンやヒトラーや毛沢東のような独裁者は無論そうだし、マネーだけが究極的に重要なユダヤ人も、唯一神を熱狂的に信じるファンダメンタリストも、或いはタイで国際空港を占拠していたアホな連中も似たようなものである。
感覚の麻痺か、或いは圧倒的な正義が無ければ、人は他人を殺すことを躊躇う。
何の迷いも無く殺人が可能な人間は、そのどちらかである。

正義というのは思い込みであるから、これを罰することは可能でも公平に裁くことは難しい。
比較的簡単に裁くことができるのは、結果であり、その尺度は究極的には成功か失敗かである。
成功とは、それによって何らかの利益が得られたことを言う。
この利益の中には、例えば心の平安といったような金銭的ではない利益も含まれる。

ところで共通の利害というのはよくあるが、共通の正義、全く同じように重なっている正義というのはあまり無い。
共通の利害による盟友関係は容易に成立するし長続きもするのだが、正義を同じくする仲間というのは得てして最後には内ゲバに走るものだ。
だから世界共通の普遍的正義、のようなものを掲げる連中というのは常に胡散臭い。
かつては国際共産主義運動もその類だったが、環境保護運動も、反捕鯨テロリストも、煙草撲滅運動ですらも、その時代においては一見普遍的正義に見える価値観でもって時代の波を創ろうとしているから僕にとっては胡散臭い。

普遍的な価値というものは有るだろうと思う。
でも普遍的な正義なんて形容矛盾に近い。
有るわけが無い。
だから普遍的な正義を掲げる振りをして近付いてきて、仲間に巻き込もうとする隣人がいたら、本当は用心深くならなければならないのである。

ところが若者に用心が足りないのは世界共通で、だからこそ若者というのはどこの国でも普遍的な正義というものにコロリと騙される。
そして普遍的な正義は必ず最後には若者を裏切る。
だが多くの普遍的な正義は、若者を裏切る前に人殺しをさせようとするのだ。
正義には必ず敵がいるので、敵を抹殺した者に賞賛を与え、更に多くの敵を殺させようとするのである。

だが正義の敵も、多くの場合はタダの人間である。
しかも掲げる正義が異なっても、利害は意外に一致しやすい人間である。
利害が一致しない関係とは、例えば搾取する側とされる側である。
搾取される側が搾取する側を殺すのは、正義ではないとしても、己が生き残る為には非常に正当な行為であり、それ故に狂気ではなく正気と言われる。

ところがこの正気というのは裁かれやすいのに、狂気というのは裁くのが難しい。
互いの利害関係は正確に把握する必要が有るが、他人の掲げる正義なんぞ理解しなくても良い。
にもかかわらず、敢えてその正義を理解して裁こうとするからである。
過剰な正義は人殺しの始まりなのだが、そういう話がしにくい時代になってきて困る。

早々