大嘗祭で、一番大切な儀式

 

天皇霊の神衣と「麁服(あらたえ)」の調進であり

現在にまで続く阿波忌部直系の三木家の存在です。


 

現当主の三木信夫氏は28代目


平成と令和、2回もの重要なあらたえを調進された方です。昨日、次期当主として、20歳のお孫さんが発表されておりましたね天使まだお若いのに、日本の伝統文化を担うお姿に感動致しました^_^




麁服の麻を含めて、阿波忌部が作る麻は単なる麻ではなく

聖なる『神麻』でありました。

現在でも、麻の収穫量は僅かながらも

重要な儀式ではきちんと使用されておりますが

伝統文化が一旦途切れてしまうと、

それを戻すのには、どれ程の労力が必要なのかを

想像するだけで、気が遠くなりますね。。



 

 

大嘗宮の

悠紀殿・主基殿にある

『第一の神座』に奉る神衣は

 


阿波忌部 三木家 が作る 麻の織物「麁服(あらたえ)」

三河国の         絹の織物「繪服(にぎたえ)」です。

 

 

阿波忌部が調進してきた、麁服は


北朝二代の光明天皇(在位1336〜48年)

の大嘗会を最後に中断され、


その後、大嘗祭は、文正元年(1466年)の103代 後土御門天皇の大嘗祭を最後に行われなくなり、



1687年(貞享4年)113代 東山天皇の大嘗祭が221年ぶりに斎行される。


 


次の中御門天皇の時は実施されず、115代の桜町天皇から斉行された際に


儀式は簡略化され、麁服は忌部代行事官に調進させて明治期に入ります。



 

1915年(大正4年)に大正天皇の大嘗祭を控え

『三木由緒』『大嘗祭に阿波忌部奉仕の由来』などを著わし


三木家による麁服の復活を求めた結果、


実に、577年ぶりに本家本来の三木家による調進が復活したのです。

 

 

本来でしたら、三河国にも先祖代々に奉納されていた

一族がいたそうですが、今では詳細不明となっているそうです。


 

 

絹の織物「繪服(にぎたえ)」は、他の由加物と一緒に

京の北野の斎場に集められますが、

 

阿波忌部が奉る麻の織物「麁服(あらたえ)」 だけは

特別に神祇官に直接預けられました。

 

 

同じ神服でありながら、

朝廷が重要視したのは「麁服(あらたえ)」

だったのですね。


 

宮中行事は秘儀となっておりますが

詳細な文献は残っておりますので

一例をご紹介致します。




大嘗宮の内部、室の中央には八重畳が敷かれ

そこには、御衾(ふすま)と御単(ひとえ)が懸けてあり

頭には板枕、足下には沓(くつ)が置かれ

これが、『第一の神座』


 

 




この神座はベット状の依代で、

天皇が大王霊(皇祖神)と寝られるためのものと

解釈され、神衣となる麁服と繪服は、神座の足元の左右、

麁服が東(右)、繪服が西(左)に奉られた。

 

その東側には短畳の御座があり、

そこで神膳を共進することになっていた。

 

 

戌刻(午後8時)に天皇は廻立殿で御湯を召され

祭服を着け、戌の四刻(午後9時)に悠紀殿に進まれる。

その後、亥の一刻(午後9時半頃)に神饌行立が始まると

悠紀殿に入り、御座に座られる。

そして、亥刻(午後10時)に悠紀殿における夕御饌の儀

『神人共食』が行われる。そして、翌日、主基殿でも同じ古儀が

行われるが、大嘗宮内における麁服の扱いに関しては

文献がないため、明らかになっていない。

 

 


本日14日から15日にかけて

この麁服と一晩過ごされ、全ての儀式が行われたのちに、

本当の新天皇になられるのです。

 


そして、本当の意味での 

 

 令和  が始まるのですね。

 






 昨晩の月は殊更美しく

艶やかな光を注いでおりました。




 日本の今後を左右する

行事が今、この瞬間に行われているのだと思うと

目が覚めてなかなか眠れませんでした、、



が、皆さんもそのご様子でしたので

暖かい気持ちになりました🌈




以上、こられは

 

 

徳島阿波忌部の歴史研究家 

  林 博章先生の

 

 

天皇即位と大嘗祭

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から抜粋させて頂きました。

 

 

大嘗祭にご興味の在る方、是非

お勧め致します。

 

 

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