image『碧巌録』

「処々」というのは、ところどころということ。しかしこのところどころというのは、あちらこちらという意昧ではなくて、すべて金部、いたるところという意味です。ですから「処々金真」とは、いたるところすべてがまったく真理であるということです。わかりやすく言えば、私たちは会社へ行っても、家へ帰っても、あるいはお茶会に行っても、つまりいかなる場所へ行っても、そのすべてが仏法の発露の場所であるという意昧です。どんなところに行っても、すべてのところに真実が存在する、行って無駄なところは何一つないということです、たとえば、雄大な白然の景観の中に入っていっても、一本一草がすべて仏のあらわれである。またいったんわが家に帰ってくれば、仮にそこが都会の騒々しい一角であるとしても、そこにも真理が存在する。つまりどんな邑ころにも眼前に仏法の真理が満ち澄れている。そうであるならば、そのせっかくのすばらしいものを感じとらなければならないのではないでしょうか。