野尻湖で、またスモバス釣りを楽しもうと思いましたが、あいにくの天気で中止にしました。家は八ヶ岳の麓にありますから、少しでも天気が穏やかになれば千曲川でイワナを釣ろうと思っています。それまでベランダに吊るしてあるハンモックで仮眠をとろうと思います。

 ハンモックの友は本ということになりますが、高校を中退したくらいの学力なので簡単に理解できるようなものしか読めません。山川出版社の日本史リブレット「藤原京の形成」と宝島社の「見るだけですっきりわかる日本史」を眺めながら(読むと言う行動とは違うのです。漫画を読む様な感じです)眠くなったら寝ちゃおうという感じです。

 大昔、天皇はよく遷都をしたようです。もともと都(みやこ)というのは天皇(みや)の住む拠という意味があるので、天皇が遷都すればそこがすなわち「みやこ」となるのです。その血筋は幾筋にも分化したため、天皇の後継(つまり天皇を押立てた者が実権を持つ事になるので...)をめぐって、幾度と無く争いが起こりました。たとえば神道の元となった我が国独自の宗教を推す物部氏と中国からの仏教にかぶれた蘇我氏は対立しました。蘇我氏は物部氏を倒し、実権を握ります。継体天皇の後継である欽明天皇と蘇我稲目の娘であった小姉君との間に生まれた崇峻天皇は、蘇我馬子によって暗殺されます。これは曽我氏の政治力が強くなった事で、勝手にふるまう曽我氏を崇峻が嫌っていたためです。

 欽明天皇の娘が推古天皇、欽明の孫が厩戸皇子(聖徳太子)です。その後、蘇我氏は子の蝦夷(えみし)の代となり、息子の入鹿と共謀して天皇そのものに実権を渡しません。そして入鹿は、実権掌握のために邪魔な聖徳太子の子である山背大兄王を襲撃し自殺に追い込みます。

 しかし、さすがの蘇我氏も中大兄皇子と中臣鎌足(藤原氏の祖)らに暗殺され蝦夷も自殺し、蘇我氏は滅びます。これを乙巳の変(いっしのへん)と呼びます。

 中大兄皇子は、自らはすぐに即位せず、軽皇子(かるのみこ 孝徳天皇)を即位させ、自らは皇太子として改革を行います。これが大化の改新です。天皇の実権を強め、都を奈良から難波(大阪)に遷都してしまいます。中大兄は、その後、孝徳と対立し、孝徳を難波に残したまま、自分たちは奈良に遷都してしまいます。孝徳は寂しく亡くなり、息子、有間皇子は蘇我赤兄(そがのあかえ)にクーデターをそそのかされますが、これは謀略であり、クーデター前に捕縛され紀伊に流されてしまいます。

 中大兄はその後、大津に遷都し天智天皇として即位します。天智の息子である大友皇子と天智の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)は、天皇位を争い琵琶湖畔にて戦います。これが壬申の乱です。

 以上のように、天皇家は実は人間らしい争いごとを経て現在に至っているのです。

 というところで、さて、川上村に出かけましょう。
 長野の暴力団勢力は山口組系の國粹会の力が強まってきたようだ。そもそも國粹会というのは・・・。

 古代、天皇は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。それが天皇と呼ばれるようになったのは推古天皇あたりからだと言われています。


 四世紀、力のあった豪族勢力が奈良盆地に集落を作り、それが徐々に拡大して一大国を形成するようになった。それを大和政権と呼び、ヤマトでは代々王がとなったものを大王と呼ばれました。大王は人々を集めて開墾耕作させ、同時に鉄作りなども行って豊かな国づくりを目指しました。


 倭の五王と言うのは「讃(さん)」「済(せい)」「珍(ちん)」「興(こう)」「武(ぶ)」で、讃は応神か仁徳あるいは履中天皇、済は充恭天皇、珍は仁徳か反正天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇であると言われています。


 いずれにしても古事記か日本書記くらいしか資料が残っていないのではっきりとはわかっていません。


 そして・・・ついに継体天皇が登場します。