その土地によって違うものって様々あるけど、北海道では七夕は八月らしいのです。
でもやっぱり七夕は七月七日じゃないとしっくりこないんだよなぁ。
気づけば…
晴れてよかった。
彼らは年に一度の逢瀬を楽しめるんだ。
今日は何か新しいご縁が生まれるかな?
なんて考えてる自分がいます。
その土地によって違うものって様々あるけど、北海道では七夕は八月らしいのです。
でもやっぱり七夕は七月七日じゃないとしっくりこないんだよなぁ。
気づけば…
晴れてよかった。
彼らは年に一度の逢瀬を楽しめるんだ。
今日は何か新しいご縁が生まれるかな?
なんて考えてる自分がいます。
71歳の落語家の死を『老衰』と見出しにしているのは驚いたけど、いろいろあった人だから、いろいろな方々がいろいろにお気遣いされたんだろうと理解しておく。
師匠に最初に会ったのは僕が二十四、五歳と思うのでまるまる四十年の付き合いになる。七つ違いだから師匠もまだ31、2の頃だ。
噺家さんは余程のことがないとなかなか余裕のある生活なんてできないので、若い時分はたいていアルバイトをしてる。古今亭八朝師匠は僕が広告会社で担当していたアルコールメーカーのビアパーティでよく司会をお願いした。
僕が30過ぎで勢い余って北海道に移り住んでしばらくした頃、落語協会を通して久しぶりに連絡を取ったら、「あんた突然いなくなったと思ったら、なんだ北海道だって!?」
その頃、亡くなった師匠の師匠 古今亭志ん朝さんの意思を継いで、女芸人ばかりによる〝木遣(きやり)歌〟のステージ化に力を入れていたのは志ん朝師匠の仲良し永六輔さんだった。『大江戸小粋組』と題したその公演を八朝師匠のご案内で国立小劇場に足を運んだのが再会の場所で、僕も永六輔さんのいる楽屋にご挨拶にお邪魔した。
以来、新富良野プリンスホテルで「古今亭八朝と仲間達」というディナーショー形式だけれど寄席みたいに肩の凝らないシリーズを開催したのが師匠と僕との北海道での仕事の始まりで、富良野の名店くまげらの打ち上げでは、出演者3人が下戸という珍しいことが起きて、僕と付き人役の女将さんばかりが飲んだくれてた。
師匠の旅には必ず女将さんが付きそう。師匠は長いことパーキンソン病と付き合っており、仕事の本番前後に体調をちょうどいい塩梅に持っていける薬の飲ませ方を出来るのは女将さんしかいなかったからだ。だから旅先と言わず東京と言わず、よく(病気で酒の飲めない)師匠の運転で女将さんと僕がハシゴで飲んだくれるというとんでもない遊び方をさせてもらったものだった。
2010年の6月だったか、翌月は札幌の僕の仕事でお二人に北海道に来てもらう約束をしていた時、ある晩師匠から電話がかかってきた。師匠はいたっていつも通りの平静さでこういった。
「星野さん、驚かないでね。あのね、ゆうべ女将さん死んじゃったんだ」。
いつも通り二人仲良くお芝居を観た帰りに、師匠運転の車をすぐ近くの駐車場に置いて自宅に戻る道すがら、女将さんがゆるゆると腰が抜けたみたいになって、「あれえ、酔っ払っちゃったかな?」とにっこり笑って…それが女将さん最後の言葉になった。
通夜は文字通り芸人さんばかりで、お参りと別フロアの直会の場に八朝師匠と宴席で何回かご一緒した、落語界の師匠の同期、立川談四楼さんがいらして、芸人さんでごった返す会場を縫うようにして僕を席に通し、「この人は星野さんって言ってね、わざわざ女将さんのために北海道の小樽から来てくださったんだ!」と会う芸人さん一人一人に説明してくれた。
もう一度だけお参りをして席を辞そうとしたら、女将さんの棺の近くに立川談四楼師匠、すぐ横に古今亭八朝師匠が立っていた。
弔問客のお出迎えも、喪主の挨拶も、不自然なほどに無表情無愛想に見えた八朝師匠は、伝えてくれた電話の時のままだった。立川談四楼師匠の気遣いで「女将さんのお顔を見てお別れしてあげて」ということになった。でもそのお顔を見た瞬間僕はダメになり、「女将さん、仕事がオフの日には旭山動物園に連れてけって僕と約束していたじゃないですか!」と思わず少し大きな声を出してしまった。
その瞬間、隣にいた能面の八朝師匠の顔がブワッと膨れ上がって真っ赤になり、子供が泣きじゃくるような師匠の嗚咽がそこらじゅううに響き渡った。
少し立って、僕はもう一度東京に来た。七月の札幌の仕事は流しましょうと伝えるためにだ。八朝師匠は大師匠が一番好きだった「日本橋室町の砂場」に僕を連れて昼酒を飲ませてくれた。「星野さんね、僕はね、志ん朝師匠が亡くなって十年経つけど、ようやくここのそばを泣かずに食べられるようになったんだ。だって、この世で一番好きな人だったんだから」
それから師匠は「あ、札幌は行くよ、仕事だもの。ちょっと前座さんでも一人連れて行くけど、それは俺の勝手だから費用とかいいからね」
「それとさ、星野さんにこれもらって欲しいんだ」と使い込んだ扇子を取り出して僕に手渡した。「いろいろあって、最初の持ち主を離れてうちの女将さんのところにやってきた。暑がりでいっつもこれであおいでたよ」
「そんな、これ女将さんの形見じゃないですか、そんなものもらえませんよ」「いいんだぁ、形見なんてたくさんあるからさ、あんたにもらって欲しいんだ」「わ、わかりました、大切にします!」「いいんだぁ、大切になんてしなくったって」
翌月の札幌には前座さんではなく、弟弟子の真打ち、古今亭志ん馬師匠を伴って現れた。
僕が仕込んだ三つの仕事の合間の1日、僕らは女将さんとの約束の旭山動物園ではなく、札幌の奥座敷定山渓温泉のホテルに骨休めに行った。仕事は皆札幌で、専門学校生の前やアートスペース、当時狸小路にあった僕の(当時は会社で経営してた飲み屋)「風の色」でも高座を開いた。八朝師匠のアイデアで、その会は『志ん馬と八朝で古今亭志ん朝の会』と名付けられた。
志ん馬師匠と僕は同い年で、少し前の芸人さんてみんなこんなだったのかな?と思うほどに、飲みに行けばそこのママを、宿に泊まれば中居さんを、まずはサービス芸の定番みたいに口説いてみせた。
それからほんの二年後だったと思う。
またある日八朝師匠から電話がかかってきた。
「星野さん、驚かないでね」あの時と同じ出だしの口上を耳にした瞬間、絶望が走った。
「あのさ、ゆうべ志ん馬が死んじゃったんだ、それでね…」
胃癌だったという。
あの北海道で一緒に八朝師匠の世話をした、同い年の盟友古今亭志ん馬師匠が逝った。
(八朝師匠がプロデュースした古今亭志ん朝師匠の書籍)
最愛の二人を続けて失って以降、古今亭八朝師匠のパーキンソン病は少し加速度が増したように思えた。
板橋区で師匠が開いていた歌謡曲専門の音楽酒場(「少年時代」)を閉じることになった頃、ちょうど僕は自分の酒場「風の色」を小樽で開店することになった。
「これさ、俺がこの店を開く時にねえさん(古今亭志ん朝師匠のお姉さん=古今亭志ん生師匠のお嬢さん=美濃部美津子さん)がくれたんだけど、もうここは閉めちゃうから星野さんの店に飾って」
本当はちゃんと落語文字(勘亭流)で風の色ってのあげたかったんだけど、頼りにしている落語文字の先生が病気になっちゃってさ、悪いんだけど」。落語界のレジェンド、師匠の師匠の師匠、古今亭志ん生さんの提灯だった。
僕はあの形見の扇子の時と同じだと思ったから、ありがたくて泣きそうだったけど、余計なことは言わなかった。
それから師匠とは蕎麦屋でも飲み屋でも会うことが出来なくなった。師匠の病状から遠出も難しくなってきたのか、いつも師匠の自宅から一番近い「板橋区役所前」(都営三田線」駅から一番近いマクドナルドで昼間に珈琲を飲むだけになったけど、毎回何時間も積もる話をした。
「病気で高座に上がらないようになると、今まで周りにいた人たちがパーっていなくなるんだ。そりゃ見事なくらいさ。なのにさ、あんたいつも北海道の小樽くんだりから俺なんかに会いにきてくれてさ…ありえないよ。それでさ、なんかもう俺、いつ死ぬかわからないし、あんたにこれをもらって欲しいんだ」
それは「招木(まねき)」というものだった。よく演芸場の表に下がってるあれだね。むかしは宿場町の旅籠とか火消しの屋号とか、近頃じゃ寿司屋とか洒落だ飲食店にもぶら下がってる縁起物だほです。
それにしてもこいつは分厚くて、めちゃくちゃ重くて、家紋に金の色が入っていて、素人ながらに文字の格調が半端なく、レベルが高いのが分かる。しかもやっぱり側面には美濃部美津子さんのお名前が彫ってある。
この裏書きだけで、紛れもなく、古今亭志ん朝マニア〝垂涎の〟凄いお宝に違いない。
※ 招木
さすがに凄い贈り物も三度目だし、今度は言った。
「師匠、こんな凄いもの僕なんかがもらったら罰が当たるよ」「なーに言ってんだよ。俺はもういつ死んじゃうか分かんないんだよ。だから、どんな立派なものも持ってたって仕方がないんだ。こういうのはさ、一番喜んでくれそうな奴に持って貰ってるのが一番幸せなんだよ」
この会話をしたのは七、八年くらい前だろうか。
2023年4月に、今度は僕自身の健康上の理由で断腸の想いで廃業した風の色には最初からこの招木が存在していたからそのくらいかな。
この「招木」の横にはいつも、女将さんの形見の扇子を寄り添わせておいた。師匠の師匠の師匠の提灯は二階へ昇る階段の中段に設えた。
古今亭八朝師匠にいただいたこの三つの宝物の話は折に触れてお客さんにした気がする。
長いこと師匠とはLINEで連絡を取り合っていた。最後に師匠から返信があったのは2021年5月15日。
それから返信も既読もほぼなくなり、最後に既読になったのは2022年1月26日だった。
だから折節電話をしたけれど、最後に電話に出てくれたのはその少し後だったと思う。
病院に入っているという。
もうきっと出られないという。
パーキンソンがだいぶ進行しているのだろう。
なかなか言葉が聞き取れない。
師匠、お願い。見舞いに行くから病院名を教えて。
聞こえているのか返事をしているのかもよくわからず、
その質問の答えは返ってこなかった。
それからも僕はなんのリアクションがなくても折に触れて古今亭八朝師匠にメッセージを送り続けた。
そのうち自分自身の具合が悪くなって、まさにこの春店を畳まざるを得なくなり、その報告を一方的にしたのが今月6月の2日(金)だった。
立川談四楼師匠の連絡先が何故か携帯に入っていない。
古今亭八朝師匠の女将さんの葬儀の時に、波いる芸人さんの間を僕を引き回してくれた人だ。
八朝師匠の女将さんに顔を見て直接お別れをしてあげてくれと僕に言ってくれた人だ。
高座の口開けに「落語も出来る小説家、立川談四楼でございます』と笑わせるほど、いずれは直木賞とまで言われるほどに文の立つ人でもある。
立川談四楼師匠は毎日熱心にTwitterの投稿をされているのは読んでいるのだけれど、Twitterがよくわからないので、この人にダイレクトのメッセージっってできないか娘に尋ねたのは二日前の日曜日だ。娘は、多分、直接お友達になってないとメッセージは送れないのでは、と言っていた。
だったら、こちらに移住してから古今亭八朝師匠と連絡を取ったみたいに、落語協会に直接コンタクトすれば、立川談四楼師匠に何か八朝師匠の消息を教えてもらえるかもしれないと考えていたのも日曜日のことだ。
そしたら今日6月26日の夕方、インターネットから古今亭八朝師匠の訃報が流れてきた。
七十一歳、老衰のためという。病気やら色々な配慮があるにしてもしっくりいかない見出しだった。
自分はもう先が見えないから、あの宝物たちを持っていてくれ、あんたなら喜んで大切にしてくれるだろう?と間接的に言った古今亭八朝師匠とどうしても僕の中で重なり合わなかった。
三十年前に北海道に移り住んで、国立小劇場で再会した時、師匠には奥様がいた。程なくしてその奥様がお亡くなりになったのではなかったか。僕の知ってる「女将さん」はその奥さんのお友達ではなかったか。
女将さんの一周忌、高島平の墓地に参った時、参列者はご親戚一人とおかみさんの娘と息子(師匠の子ではない)と師匠と僕の5人だけだった。その墓石を見て、僕は古今亭八朝、丸山美治の中の「男」に初めて触れて背中がゾクっとした。元々の奥様と僕が見送った女将さんと、二人の女性の名前が、一つの墓の左右両側の石に彫り込まれていたのだ。
ニュースでは師匠の葬儀は親族のみで執り行われるとのことだけれど、師匠の大切な二人の女性が先に眠っている墓の真ん中?に、遅れてきた師匠を入れてあげるのは、師匠のお子さんではないけど、師匠と仲の良かった、僕の飲んだくれ仲間の女将さんの二人のお子さんなんだろうな。
師匠、よくわからないけど、なんだかあなたは凄い男です。その信じがたい墓石の三人目の住民として、ようやく師匠もしっくり納まったところへ、僕も手を合わせに行きますね。
突然飛び込んできたニュースにずいぶんやられちゃって、今晩はもう飲み過ぎました。
八朝師匠ご本人からの報告はまだないけど、女将さんや志ん馬師匠の時と同じみたいに、「星野さん、驚かないでね、あのね…』って、師匠なりの気遣いの前置きをしてから教えてくれるのかな?
師匠、また会いたいよ。
とりあえず新しい寝床でゆっくり休んくださいね。
病気なんかすると、これまでまともに考えたこともなかった〝終活〟的なことに少しだけ真面目に取り組んでみようと思ったりする。
なんせ、小学生頃(半世紀以上前!)のカセットテープがゾロゾロ出て来たりする。今日も朝からそんな作業をしていたら、西岡恭蔵さんの『スタート』が出て来た!
もちろんカセットテープだ。
それにしても1993年04月21日発売とあるから、僕が小樽に移り住んできた翌年、富良野で偶然お近づきになるほんの少し前のリリースということになる。
富良野の名店〝唯我独尊〟の宮田均さんからの耳を疑う依頼?で、唯我独尊二十周年記念のライブのゲストに招かれた西岡恭蔵さんと、ギタリスト岡崎倫典さんという二人の大御所ゲストの前座をせよとのことだった。
それ自体も宮田さんらしくてびっくりだったけど、「傷つく森の緑」という今はなき名店で打ち上げしてる際に、僕らのライブを見ていたお客さんが僕に向かってさっきの曲も一回やれ!という。桑田佳祐だってカバーしてるあの『ぷかぷか』の西岡恭蔵の前で歌うだけでも心臓バクバクなのに、本番後のくつろいだ時間に、またしてもそんなこと言われて僕はかなり困っていた。
そんな時に横からひょいとギターを抱えた恭蔵さんが立ちはだかって、「ほな、わたしがうたいましょ』と実に軽やかにその場を収めてくれたのだ。
それから西岡恭蔵さんとは親しくさせていただいて、数ヶ月後に小樽の「一匹長屋』に倫典さんと出演された時も、終演後に延々と飲んで夜明けのラーメンを共にさせていただいた。
KUROちゃんという作詞家の奥様とは非常に仲良しで、二人から楽曲を提供されたミュージシャンは実はとても多い。その奥様が良くないのは恭蔵さんから伺っていたけれど、確か富良野から一年か二年後の桜の満開の東京でお亡くなりになった。
恭蔵さんは悲しみに向き合わないような勢いで、関連あるミュージシャンたちに声をかけ、そのまた一年後の桜の満開の頃、『KUROちゃんを歌う』という追悼コンサートを世田谷パプリックシアターで開催した。僕もそこには足を運んだけれど、錚々たる出演者の中に矢沢永吉さんが来るかどうかは一つの大きな話題になっていた。
翌年だったか、たまたまレコード屋さんの書籍部で恭蔵さんのエッセイを立ち読みして、あ、これはいけない、と思った。悲しみを覆い隠すために追悼ライブに一年間奔走したけれど、それも終わった今、いま、自分にはすべきことが見つからない。そんな内容だった。
そんな危機感を覚えた数ヶ月後、また東京の桜が満開になった。スポーツ紙だったっけ。その下で西岡恭蔵さんが自死した記事を書いていた。
恭蔵さんとは随分手紙のやり取りをしたけれど、必ず自筆でメッセージが認めてある。さいごのアルバムは『Feaewell Song』というタイトルで、〝愛は生きること〟という直筆のサインがジャケットに認められた。
僕はぐじゃぐじゃになりながら『恭蔵さん嘘ついた!生きることって言ってたじゃない』と声に出した。1999年春のことだ。知り合って五年もせずに逝ってしまった。
僕は出会った年のアルバム『スタート』が好きで、中でも『星降る夜には』という楽曲が好きだった。いつも新しいCDアルバムを送ってくれたのだけど、『スタート』だけがどうしても手元に見当たらなかった。
それが〝終活〟のおかげで今日突然手元に帰って来た。しかも三十年前のカセットテープで。良かった、カセットをかける環境がうちにあって…。
今日、もう何度聴き返しただろう。
カセットテープもアナログだからやっぱり擦り切れちゃうのだろう。ネット検索しても、もう普通に『スタート:は扱ってなかった。けど、夏くらいには届きそうな中古CDをかろうじて見つけて申し込んだ。
『スタート』と『Feaewell Song』を核とした、こんなに優しくて力持ちの男知らない、という西岡恭蔵さんとのお付き合い、僕の恭蔵さんへの愛情は決定的になった。桜の情景を思うだけで泣けてくる。
恭蔵さん、三十年ですよ、もう。
恭蔵さんとの三十年。
病気なんかすると、これまでまともに考えたこともなかった〝終活〟的なことに少しだけ真面目に取り組んでみようと思ったりする。
なんせ、小学生頃(半世紀以上前!)のカセットテープがゾロゾロ出て来たりする。今日も朝からそんな作業をしていたら、西岡恭蔵さんの『スタート』が出て来た!
もちろんカセットテープだ。
それにしても1993年04月21日発売とあるから、僕が小樽に移り住んできた翌年、富良野で偶然お近づきになるほんの少し前のリリースということになる。
富良野の名店〝唯我独尊〟の宮田均さんからの耳を疑う依頼?で、唯我独尊二十周年記念のライブのゲストに招かれた西岡恭蔵さんと、ギタリスト岡崎倫典さんという二人の大御所ゲストの前座をせよとのことだった。
それ自体も宮田さんらしくてびっくりだったけど、「傷つく森の緑」という今はなき名店で打ち上げしてる際に、僕らのライブを見ていたお客さんが僕に向かってさっきの曲も一回やれ!という。桑田佳祐だってカバーしてるあの『ぷかぷか』の西岡恭蔵の前で歌うだけでも心臓バクバクなのに、本番後のくつろいだ時間に、またしてもそんなこと言われて僕はかなり困っていた。
そんな時に横からひょいとギターを抱えた恭蔵さんが立ちはだかって、「ほな、わたしがうたいましょ』と実に軽やかにその場を収めてくれたのだ。
それから西岡恭蔵さんとは親しくさせていただいて、数ヶ月後に小樽の「一匹長屋』に倫典さんと出演された時も、終演後に延々と飲んで夜明けのラーメンを共にさせていただいた。
KUROちゃんという作詞家の奥様とは非常に仲良しで、二人から楽曲を提供されたミュージシャンは実はとても多い。その奥様が良くないのは恭蔵さんから伺っていたけれど、確か富良野から一年か二年後の桜の満開の東京でお亡くなりになった。
恭蔵さんは悲しみに向き合わないような勢いで、関連あるミュージシャンたちに声をかけ、そのまた一年後の桜の満開の頃、『KUROちゃんを歌う』という追悼コンサートを世田谷パパラックシアターで開催した。僕もそこには足を運んだけれど、錚々たる出演者の中に矢沢永吉さんが来るかどうかは一つの大きな話題になっていた。
翌年だったか、たまたまレコード屋さんの書籍部で恭蔵さんのエッセイを立ち読みして、あ、これはいけない、と思った。悲しみを覆い隠すために追悼ライブに一年間奔走したけれど、それも終わった今、いま、自分にはすべきことが見つからない。そんな内容だった。
そんな危機感を覚えた数ヶ月後、また東京の桜が満開になった。スポーツ紙だったっけ。その下で西岡恭蔵さんが自死した記事を書いていた。
恭蔵さんとは随分手紙のやり取りをしたけれど、必ず自筆でメッセージが認めてある。さいごのアルバムは『Feaewell Song』というタイトルで、〝愛は生きること〟という直筆のサインがジャケットに認められた。
僕はぐじゃぐじゃになりながら『恭蔵さん嘘ついた!生きることって言ってたじゃない』と声に出した。1999年春のことだ。知り合って五年もせずに逝ってしまった。
僕は出会った年のアルバム『スタート』が好きで、中でも『星降る夜には』という楽曲が好きだった。いつも新しいCDアルバムを送ってくれたのだけど、『スタート』だけがどうしても見当たらなかった。
それが〝終活〟のおかげで今日突然手元に帰って来た。しかも三十年前のカセットテープで。良かった、カセットをかける環境がうちにあって…。
今日、もう何度聴き返しただろう。
カセットテープもアナログだからやっぱり擦り切れちゃうのだろう。ナット検索しても、もう普通に『スタート:は扱ってなかった。けど、夏くらいには届きそうな中古CDをかろうじて見つけて申し込んだ。
恭蔵さん、三十年ですよ、もう。
【ちょっとした過ち】
昨秋間違ってこの作品を観なかったら、今さら『るろうに剣心』なんて観ることはなかったと思う。
それを自宅療養中とはいえ四日間で五作品ぜんぶ鑑賞してしまった。どれも二時間以上で長いんだぁ。それを五番目の作品であの女優さんをあんな風に使うなんて…監督さんは最終作だけつくりたかつたのではないか。人生にはそういう〝間違い〟が時に起きる。それは大きな間違いだったし、ささやかな歓びだったし、限りない切なさだ。
でも二月三月以降の辛い時間にそれらは見事にぼくの気持ちの隙間に忍び込んできた。僕のアカデミー賞だ。この先、どうにかして生きてゆかなくてはならないための原動力にはなってくれたんだと思ってる。
ありがとう『ファーストラブ』。
ありがとう『緋村 抜刀斎』。
久しぶりに感動的に小樽湾の美しい一日でした。気温も二十度半ばを超えたらしく、家の中でじいっと療養ばかりしてもいられません。
毎年、異様に一喜一憂する桜の時期にゆえあってじっとしていざるを得ない珍しい令和五年春でした。染井吉野も平安紅枝垂れも御衣黄も瞬時に通り過ぎて行きました。
夏目漱石の『虞美人草』のヒロインは亡母の旧姓と同じ〝藤尾〟で、母はたいそう藤を愛しておりましたゆえ、三十一年前に小樽に移り住んだ時から苗木で手に入れて可愛がったつもりが、以来二十年咲かなかった因縁の花でもあります。
櫻を愛でる余裕のなかった今春、何故か藤の花の不思議な大繁殖で、お隣にまで迷惑をかけています。
藤棚兼用のつもりでずいぶん前にパーゴラを自作したものの、さみしい十年を送ってきましたが、今年はたわわどころの騒ぎではありません。
いよいよ近年では地下茎までこっそり張り巡らせたらしく、藤棚と遠く離れた玄関前にまで進出してきたので、先ほど即席にミニ藤棚を玄関前に設えてやりました。
久しぶりにMAKITAの電動工具がその力を発揮してくれました。
20年以上前、廃業した銭湯を取材させてもらった時にいただいた木製の傘立て。さすがに朽ち果てておりましたが…甦れ!
これで母にお許しを願いつつ、私本人もそろそろ社会復帰へ向けて始動したいところなのであります。
店を閉めながら、朝から何も食べてないことに気づいた。そして、なぜかずーっとペペロンチーノが食べたいと思っていた一日だったことを思い出した。
今晩は店に泊まることにして、ペペロンチーノを作ろうと思い立つ。近くのローソンで、170円のパスタと140円のハンバーグを買ってきたら、財布の中に現金がこれだけしか残ってなかった。
とにかくパスタを茹でる。
オリーブオイルにニンニク。
店で出すチリコンカン用のホールのトマト缶に調味料や月桂樹をぶち込んで、ペペロンチーノの味チェンに即席トマトソースを!
カイエンペッパーも大事。にんにく焦げちゃった。
粉末バジルをぱらぱら。
160度のレンジで90秒、デミグラスソースのハンバーグに通し用の人参を添え、これもチリコン用のチーズを溶かす。
トマトソースは野生的に缶のまま。ワインなんかも入れちゃってそれらしくなったかな?
味チェンのトマトソースを絡めて第二部へ!
けっこうこのワイン馬鹿にできない。
至福の300円ディナー!
さて、何飲もうかな。
夜は長いのだ。