高校で親に反発しながらも学校は卒業し、
バブル後半で職探しも苦難することもなく
地元の中小企業に就職しました。
学校卒業しても、地元民というだけあっていじめ
というものは、続いてました。
当時の自分も擦れていて、ナイフみたいに尖った性格でした。
ある意味人間不信で、未来すら希望がなかったです。
24歳の時に、自分が指導していた後輩が自殺し、
学校卒業してから付き合っていたサークル仲間と決別したあたりから私は不調に悩まされました。
あの当時はわからなかったけれど、おそらくうつ病だったのかもしれません。
けれど当時の自分にはメンタルの病は、気合いが足りない根性なしだという認識もあったし、親もそういう考え方の人たちだったから、それを認められなかった。
そうしたらだんだん病んできて、
食べ物も喉を通らずガリガリに痩せてきた。
仕事だけは、なんとかやってる状況。
いつしか遺書を当時のワープロに書き込んで、
わたしはある日自殺未遂をしていた。
メロンの酒を一気に飲み薬を大量服薬…
当時流行っていた「完全自殺マニュアル」を
なくなった後輩から借りていたのだ。
彼女に自殺願望あるの?と、冗談まがいに聞いたときに明るく、ないですよと答えた彼女…
わたしは彼女に導かれたような気がした…
意識がとぎれ…
再び気がついたとき、私は病院の集中治療室にいた。
体には点滴の管がたくさん垂れ下がり、尿管も管で繋がっていた。
体のあちこちにあざがあった。
医師の話では三日間昏睡しており、無意識のうちに暴れたからだと説明していた。
わたしはぼんやりとそれをきいていた。
親や兄姉が涙ぐんだり、叱責したりしても、
わたしはただひたすらぼんやりきいていた。
気がついて三日間は視界が赤くなり、吐き気が止まらなかった。
大量服薬の反動のようだった。
死んだほうがましだと思った。
親は職場の環境のせいだと憤った。
当時印刷工場に勤めており、グラビア印刷というフルカラー印刷にはシンナーを使用していた。
印刷室から離れていても匂いが染み出していたから、親は工場を訪ねたときにこれが原因だと思っていた。
実際は親のせいだといいたかった。
病院では体が動かせないときは排便は寝ながらする。
それが苦痛だった。
体は洗う専門の人たちが2人で食器洗剤のような容器に入れた石鹸で丁寧に表と裏をまんべんなく洗われた。
羞恥心もあったがどうしようもない無力感もあった。
ようやく少し動けるようになり、
部屋にポータブルトイレがつくようになった。
夜中に隣のベッドで臨終を告げる医師と、泣き崩れる親族の声は未だトウラマになっている。