落書きのあるところに自由がある。それは表現の自由であり、自由への闘争だ。バンクシーの落書きは、市民の声であり、アートジャーナリズムであると思う。

 

バルセロナには落書きがいっぱいある。特に地元カタルーニャ人に人気のお洒落なグラシア地区には、いたるところに落書きがあった。

 

私が住んでいたカンプノウ(FCバルセロナのスタジアム)の近くに、スケボーができる場所があり、そこには多くの落書きがあった。バルセロナはスケボーの聖地らしい。

 

バルセロナに行ったことがある人ならお分かりだと思うが、バルセロナは活気に満ち、斬新な街並み、いつもお祭り騒ぎで心が踊る。そのような街の店のシャッターや公園などにある壁には所狭しと、落書きがあり、市民の表現の自由、アートの一つとしての落書きが尊重されている。バルセロナは多文化共生の芸術の街だ。

 

日本には落書きが少ない。当然犯罪であるし、スペインでもそうなのだが。日本に落書きがほとんどない理由は、上からの支配が強いからだ。そのような国は他にもあるだろう。

 

「都市におけるグラフィティの広がりの度合いは、その国がどのくらい民主的なのか、あるいは、表現の自由が保障されているのかを測る尺度でもあります」と毛利嘉孝氏は述べている。

私たち日本人の多くは知らず知らずのうちに管理され、誰かに監視されるという視線の中で暮らす世の中が当たり前だと思っているのではないだろうか。同調圧力、忖度、人間は皆同じだと考える人が多い日本人、人間は皆違うと考える多様な文化がある国の人々。

 

そのような時代に生きる私たちがバンクシーの落書きを見るとき、私たちはなぜ、バンクシーの落書きが素晴らしいのか、評価されるのか、心に残るのか、彼の落書きにあるメッセージを洞察しなければならない。バンクシーの落書きは、アートテロリストではなく、自由への大衆の叫びだと思うから。

 

     
         
         
バルセロナ、グラシア地区にある落書き