どうやら私は摂理系らしい
これまで自然が身近にある環境を当然のこととしていたから気付かなかった
ややこしいことに“自然が好き”とあまり自覚をしてこなかった
「登山が好きなんだ」と訊ねられると「違う」と答える
“登る”のは好きではない
ただ登った結果、木々や動物を感じられるのは心地よい
逆を言うと、自然を感じられ、自然の中に身を置けるのならば方法は登山でも海水浴でも良いのである
たまに「人間も自然の一部」という勘違い発言をする人がいる
原始の時代であったならば、そう言えなくはないかもしれない
だが、衣食住を確保し、文明を持った瞬間から人間は“自然”ではない
むしろ相対するものだ
人工的に手が加わったもの(例えば動物園や水族館)を“自然”とは言わないのと同義である
確かに生きている、そこに存在している生物・生命ではあるが、“自然”ではない
所詮、自然の模倣物
だから動物園に行くととっても複雑な心境になる
動物も植物も好きだ
だが、自然の状態を損なって閉じ込められている様をみると悲しくなるし、人間に憤りを感じる
それらの施設があるからこそ、知識を得られるという文明的な利点もあるので、ある意味で必要だけれど
それならばせめて○ファリ○ークの様に、より自然に近い状態を整えるくらいの気配りをして頂きたいものだ
私はちょっとグロイ食物連鎖の様を見ても「これぞ自然!」とテンション上がる
ただ可愛いとか綺麗なだけではないの
時として過酷で厳しい、それもまた自然で、それが美しい
極端に言ってしまえば、幼い頃から「動物に食い殺されるのなら、それの方がいい」と言ってきた
「サバンナに行って、動物の糧になるのなら本望」と
また「交通事故で死ぬより、自然災害で死ぬ方がいい」とも
別に自然災害を甘くみている訳では無い、どちらも“死”であり、事故・災害のもたらす遺族の気持ちとか色々あるし、自然災害の場合は遺体すら見つからないこともあるだろう
が、単に好み・可能性としての例えなんだが、交通事故だったら加害者は人間であり、そうであれば加害者への恨みで死んでも死にきれない可能性大
だが加害者が自然であれば、そこは素直に「仕方がない」と死を受け入れる可能性大
あくまで“私の場合”ね。
“自然”であるならば仕方がない・・・相手が自然でないこと(人間や社会)に対してはとっても足掻くのに、何故か相手が自然であるならばとっても聞き分けが良いのである
好きか?嫌いか?で言うならば、勿論“好き”なのだが、それはわざわざ言うことでは無い。自然が好き・・・というと、語弊があるように感じる
何故ってそれが当然だから、好きとか改めて認識することでもない
自然があること・感じること・共に生きることは当然な事で、好き嫌いの問題ではない
ただその状態(自然)が心地よいし、そこに身を置くことが嬉しいのである
だから、自然を感じられない場所にいると苦痛で重く感じるし、荒む荒む
で、そこでやっと気付く訳「私には自然が必要」「自然が無いと生きていけない」と
“便利で整った環境”も必需品なので、相反する両者のバランスがこれまた難しい
仙人もこんな感じだったのかも?なんて思ったりする
大方の仙人(いたとして)は人間嫌いの為とか修行の為とかあって、人里離れた場所に庵を結んでいたハズ
が、たいがい竹林がある場所に居を構えることが多かったように思う
竹林って、本当に人がいない所には生えないそうだ
つまり、人と離れてはいるが隔絶はしていない距離感を保っているということ
などなどを考慮すると、私って“摂理系”の人らしいと自覚
そう言われたことはあっても、それってこういう事だったんだ!と自覚・納得することはまた別である
「だから摂理系なんだ」とやっと自ら認識
満員電車の中、座ってウトウトしていたら足を踏まれた
寝ていた私は驚いてビクッとし、足下を見た
私のオシャレ靴の向かい側に、スポーツシューズが見えた
そして自然と顔を上げた先には、足を踏んだ女性の顔があった
足を踏まれれば痛いし、靴が汚れるのも嫌だ
でも、満員電車の中だから多少は仕方ない
次また踏まれないようになるべく足を引いた
そして再び寝ようとした矢先
突然
「満員電車なんだから仕方ないじゃない!」
と、怒号とも言うべき強い口調
これまたビックリ
これって、私に言ったんだよね(?_?)
思わず
「何も言っていないじゃない」
と、返していた
「見ていたでしょ!見るのと言うのは一緒」
「ここはアナタだけの占有場所じゃないんだから!」
うわー凄いわ、この人
たとえ致し方ない理由(満員電車とかね)があったとしても、他人の足を踏んだら「ごめんなさい」の気持ちを私は持つけどな
この人は大義名分(満員電車)を振りかざして、足を踏んだことを正当化したよ
更に凄いのは
“思うのと言うのは一緒”と、かなり乱暴な解釈を恥ずかしげもなく言い放っていること
思うのと、実際に相手に対して攻撃(発言)するのには大きな違いがある
ただ見ただけ思っただけでケンカを売られていたら、世界中は常に争いだらけになるだろう
しかもこの人、公共の場所・満員の密室で声を荒げて場の空気を乱している
そんな人が“占有場所”云々を言う資格は無い
矛盾に気付かない程に我を見失っていることにも、当然気付かないんだな
この人に何を言っても無駄
相手にするのも馬鹿らしい
そう思った私は、今度は言い返さずに眠りに入った
と言いつつも、やはりムカムカはするもので
相手が「勝った!やりこめてやったわ」とか勘違いをしているだろうと思うと、尚更に号が煮えた
普段の私なら、カチッと戦闘モードのスイッチが入っていたハズ
相手の言質をとり、言い負かしていただろう
手加減して負かさないとしても、痛烈な皮肉をお見舞いしていたであろう
だが今日はスイッチ入らなかったのだよ
公共の場を乱すようなことをして相手と同レベルになるのも嫌だ
なにより、相手に対して憐れみを感じた
気の毒な人だな~
そうやって誰かまわずケンカを売ってるのかしら?
それとも今日、嫌なことがあったのかしら?
カラカラに乾き、ゆとりが無いんだな~
ご家族はいるのかしら?
こんな母親に育てられる子供は可哀想だな~
そんなことまで思う始末
最近、思い出される“もったいないこと”
むかーし、ある日蓮宗道場に両親が御世話になっていた頃
黒龍さんが御示現にて
『庭の一角(苔むした石臼があり其処に水がポタポタ垂れ落ちている所)に自分を祀ってくれるならば、この家の為に力を尽くす』
と申し出てくれたことがあった
我が家がそこそこ真面目に信仰をしているのを見て“それなら”と出てきたようだった
実は相当な御力を持っている黒龍さんらしく
それだけに「祀ればとても大きな働きをして下さるが、祀る方にも相応の覚悟が必要」との助言もあり
で、我が家に選択が委ねられたのだ
確かに強力な御守護を確保できるのはありがたい
でも、文不相応な黒龍さんをしっかり祀ることができるのか?
御無礼があったらかえって申し訳ない
などなど考慮
結局、自信が無くヘタレな父親が出したのは“お断り”だった

黒龍さんは『自分がいたことを忘れないでくれ』と仰ってお引き取り下さった
でもねー
この当時“祀る”ことをすごく大袈裟に考えてしまってたと思うのよ
実家では大黒さんや観音さんとかを祀っている
普通に毎朝、お茶やお水や御飯を差し上げ、花を飾り、お経をあげている(両親が)
お菓子やお土産などは神仏さんに先に差し上げてから、人間が食べるのが習慣
花が枯れて花瓶に補充されていないとか、あげてすぐに菓子を摘み食いしてしまったり・・・ていうこともある

が、このレベルで良かったのでは?と今にして私は思う(ダメ?)
せっかく、人間と共に歩もうとわざわざ申し出てくれたのに・・・もったいないことしたなぁ
あの黒龍さん、今は何処にいるのかなぁ
龍の時代到来と言われる昨今、そんな出来事がよく思い出される