結局、この瞑想って何だったんだろう、ってゆうか、なんだ!?

実を言うと、瞑想に行く前に、いくつかレポートを提出しなくてはいけなくて、

結局朝まで起きて頑張って全部終わらせて。

瞑想に行く当日(丁度テスト最終日)も、テストがいくつかあったのに、

瞑想のおかげで受けることができない。

(ちなみに私の大学では、単位を落とすのが難しいくらいにテストが簡単です、つまり、(あたりまえだけど、)勉強していなくても、テストは受けたほうが、成績がよいのです。)

前日の夜まで、やっぱ行くの辞めようかな、その方がラクだし、

とか考えながら、

でも、行くの辞めたって、どうせ提出物(レポート)は期限ぎりぎりまでやらないし、

たぶん自室でゴロゴロしているのがオチだし、

行かなかったら行かなかったで、それもそれでずっと気になるし、

留学行ったら、チャンスもなくなるし、

これ行かなかったら、もう申込みすら面倒でやらなさそうな気がして、

結局、夜中の1時から、提出物に追われることになった。

それでも、瞑想4日目くらいから、

「時間の無駄なんじゃないか、これ??」

とか正直思ってた。

実際、さっさと辞めてしまって、引っ越し準備でもしてた方が、

スペイン語の勉強でもしてた方が、

現実的だったかもしれない。

けど、10日間も活字もメディアも、コミュニケーションもなく生活することなんて

そうそうないから、

「やっぱせっかくの機会だし」

と思い直してやっぱりとどまることにした。

(実際、出たくても出してくれなかったかもしれないけど。)

結局、この瞑想()をつづけたおかげで、ブログを始めるに至ったわけだし、

地球一周も思いつかなかったわけだし、

そう考えると、よかったのかも。

ただ、結局、この瞑想法を一言でまとめると、

ゴメンナサイ、おそらくはものすごく奥が深いはずです←

「メタ認知」

ってことじゃないかと、瞑想しながら考えてた。(←この時点で瞑想してないですね。。。)

自分がある感情を抱いたときに、自分の体がどう変化するのかを観察する。

座禅をする中で、自分の経験を通して

その状態を認知し、今度はその状態に気づくことで、

自分の無意識下の感情がわかるようになり、自分を抑えられる、そんな感じ。

例えば、ずっと座ってると、足もしびれてくるけど、

具体的にどこが痛いのか、それがどんな風に痛いのか、それらも観察する。

そしてそのことを通じて、この世は万事がアニッチャ(無常)であることを知る。

私からすればそんな感じ。

でも、これって、みんな小さいころからやっていたんじゃないかと思う。

座禅なんか組まなかったけど、

私は成長痛が耐えられなくて。

「痛み」を観察したのはその時が初めてだったと思う。

信じてもらえないかもしれないけど、

その「痛さ」をなくすことは確かにできなかったけど、

「痛さ」を移すことができたのはよく覚えてる。

もう、痛くて痛くて夜寝れなくて、そんな時、

「あ、右足の足首だ、痛いのは。」

とかずっと考えてて、それを左足の足首に移す。

また右足の足首に戻す。

そしたら今度は左足のふくらはぎ。

ほら、もう足首は痛くない。

代わりにふくらはぎが痛いけど。

こんなかんじで。

そしてまた今日も、

最後の収拾がつかなくなってしまった。