今回は【応援メッセ-ジ】で-す

応援メッセ-ジ第3回目にして最終回となります

なんか寂しいですね~

最終回はキリンビ-ルの社長です


これからキリンビ-ルを受験する人達にとって 直接的に面接等で役立つかもしれないですね


社長でも"陰で努力している"事が非常に感じられる内容になっているので 就活の休憩の合間にお楽しみ下さい


では どうぞ


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キリンビール 松沢 幸一社長

生産統轄部長時代に、採用の最終面接をしました。私は勉強や研究のことはあまり聞かずに、それ以外のことを聞いていましたが、学生さんがみなさん見事に質問に対する答えを返してくれるのが印象的でした。でも正直、用意周到な答えも多いな、と感じていました。マニュアル的に答えを用意している人は、どんどん突っ込んで聞くようにしていました。マニュアルだけでは社会に出たら通用しません。今、企業で求められている能力は、いかに変化に対応していけるか、ということだと思います。
私は今、全国を回って各地で100名前後の社員を集め、直接1時間30分くらい話をしています。伝えたいことは、会社を取り巻く環境の変化への対応意識です。特にこれからの変化は、今まで以上に大きくなっていくと見ています。だからこそ、その変化の現実に真正面から向き合ってほしいんです。どんな変化か見据えて、それを乗り越えるにはどうすればいいのかを、しっかり一人ひとりで考えてほしい。新しい変化のために用意されているマニュアルのようなものはありません。何かにしがみつこうとしていたら取り残されてしまいます。
生物だって、いくら強大であっても、ある条件下で強大になったのであって、環境変化に適応できなければ死滅するしかないわけです。逆にどんなに小さく弱く見えても、すばしっこく変わっていけば生き残ることができる。10年後、20年後のことなんて誰にもわかりません。ましてや職業人生を終える30~40年後のことなんてまったくわからない。そのことをしっかり認識して、先は見えなくて大変だけれどチャレンジするんだ、という気持ちを忘れないでほしいと思っています。
私がキリンビールに入った頃は、それこそ国内のシェアが約60%もありました。余計なことはするな、と社内で言われていた時代です。今のキリンや取り巻く環境を、当時の人は誰も想像していなかったでしょう。
キリンビールでは、私の同期8人が大学院を修了した技術者として採用されはじめたはしりでした。ですから入社して福岡工場に配属されても、上司や先輩がどう扱っていいか、困っているような有様だったんですね。正直、仕事はつまらなかった(笑)。キリンラガービールの大瓶だけをせっせと作っていれば済むような時代でした。せっかく技術を学んできたのに、やることがないじゃないか、と。会議はとにかく眠いし(笑)。今思えば、本当にひどい新入社員でした。役員になってから、あの松沢くんも偉くなったもんだ、と約20年前に定年退職した当時の上役に言われましたから(笑)。
でも転機が2年目にやってくるんです。本社で排水処理の技術研究会があって、そこに参加させてもらうことになりました。この研究会を通じて技術で会社に貢献できる方法があるんだ、と知ったんです。そのときのリーダーがいつも熱く、技術への夢を語ってくれましてね。技術は会社を変え、社会に役立つんだ。だからやる価値があるんだ、と。これで目が覚めるんです。その後、高崎の研究所に転勤になるんですが、2年目にリュックサックを背負ってヨーロッパ一人旅に出かけました。ドイツ、デンマーク、オーストリア、スイス、フランスをぶらりと20日間、宿も決めずの旅でした。そして日本とはまったく違う風景や社会にショックを受けました。こういうところでもっとビールづくりを勉強してみたいと思いました。ヨーロッパ旅行後、早速ドイツ語の勉強を始め、次は留学だ、と決めました。そして、研究所に3年在籍した後、会社の試験を受けてドイツに留学することになりました。
私は、成長するためには区切りをつけながら進むことが重要だと思っています。もし、会社に大きな変化がなければ自分で変化を求めればいいんだ、と思います。ひとつの仕事では3年を目安にする。実際、若い頃は3年後にほかのところに出してくれ、と上司に頼んでいました。しかし、3年で出るには、出られるようにしなければなりません。その間に自分なりにベストを尽くし結果を出さないといけない。
実は今キリンビールを作っている酵母は、研究所にいたときに私が見つけだした菌株です。その後、ビールの濁り防止のための濾過素材の開発に取り組み実用化しました。この技術開発ではアメリカから賞(※)をもらいました。自分が携わった技術が25年経った今も2つも残っているなんて技術屋冥利に尽きますね。
※アメリカ醸造学会(Master Brewers Association of the Americas)会長賞(The Presidential Award)
現場重視、人間中心の経営をやることが大事
転機といえばもうひとつ、留学から戻り、本社の製造管理部門、技術開発部門を経て、40歳で京都工場の製造担当部長になったときのことです。初めての管理職の仕事でした。醸造部門で90人の現場メンバーを率いるリーダーの役割です。今でこそビール工場はコンピュータ制御され、工程が自動化されていますが、当時多くの工程は手作業に頼っていました。モルトやホップを糖化し煮沸する仕込工程は灼熱地獄になり、発酵や熟成工程は蔵全体を0度以下にしてタンクを冷やすため寒冷地獄でした。そして熟成を終えたビールを次工程に払い出した後は、作業員がタンク内に入って残った酵母を掻き出しタンク内を洗うなど、まさに男の職場でした。また、現場で働くメンバーには私より年配の方が多数いました。そこに本社から、現場を知らない新米部長がやってきたわけです。そんな訳ですから、うまくいくはずがない。最初のうちは毎日のようにトラブルが起きて頭を抱えました。
考えてみれば、本社にいる頃は工場に通知文書を出せば、しっかり工場は動いてくれていると思っていました。ところが、現場はそうではなかった。部長や係長が指示、訓令するだけではまったくうまくいかない。人間や組織というのはそんなに単純に動くものではないわけですね。うまくマネジメントをしていればこそ、順調に動くわけですが、現実は毎日のようにトラブルが起こる。指示を出しても、うまく伝わらない。まったく組織が動かなかったのです。
そこで、現場で何が起きているのか、現場の問題の本質は何なのか、現場のメンバーと一緒に考え、その解決策を練り、具体的な目標や計画にするように努めました。そうしているうちに現場のメンバーから徐々に信頼されるようになり、トラブルの発生も次第に減っていきました。
翌年新しい工場長が来ました。この工場長のもとで3年間、経営やマネジメントというものは何か、ということを徹底的に学ぶことになりました。新しい工場長は事務系の方でしたので、技術的なことや現場の細かなことは言いませんでしたが、「京都工場は人間中心の経営をする」「京都工場を社会に開かれた工場にする」という方針を示しました。しかし、具体的にどうするか、は言わない。それをみんなで考えてくれ、と言う。管理職がビジョンや方法・計画を作り一方的に現場に伝えていくのではなく、みんなで考えようと。
そして、京都工場をどうしたいのか、自分たちの現場では何を具体的にするのか、といったことを現場メンバーと徹底的に話しあいました。次第に自分たちにできる具体的な目標や計画が出てきました。これは、みんなで作ったビジョンや計画ですから、当事者意識がまるで違った。組織としての一体感が極めて強固となり、いつのまにか雰囲気の良い、皆が明るくイキイキと働く工場に変わっていきました。
私はこの京都工場の時代に、後の職業人生に欠かすことができない経験をできたと思っています。現場をしっかり理解し、現場がうまく回るマネジメントをやることがとても重要だ、ということです。社長が仕事をしているのではなく、社員一人ひとりが仕事をしてくれているから会社が成り立っているのです。一人ひとりがキリンビールを良くしよう、と考え、それが組織としてまとまれば、会社はいい方向に動いていく。そういう環境づくり、マインドづくりこそが、社長の仕事だと思っています。
また私は、会社というのはゴールのない駅伝のようなものだと思っています。会社はみんながそれぞれの仕事というタスキを次世代につないでいくことなのです。そして私自身も次に渡すタスキはちょっとでもレベルを上げておきたい、という意識を持って仕事をしてきました。今も同じです。次の社長に、少しでもいいタスキを渡したい。そう思いながら、仕事をしています。
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