日本宣教44-秀忠上洛と京都大殉教 | 1.FFC Frankfurtと世界の女子サッカー

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1616年6月大御所家康が崩御した。将軍秀忠は9月、キリシタン禁制に加えて西洋諸国との交易を長崎、平戸の二港に制限、鎖国政策が始まってゆく。しかし長崎や大村藩には、まだ相当数の宣教師が潜伏し、再入国する者も居た。幕府は厳しく取り締まりをする。

藩主大村純頼は、幼少時に洗礼を受けており、キリスト教のもとで育ったので、取締りには消極的だった。17年、2人の司祭が捕えられ、信者1人と共に3人が小島で斬首された。3人とも殉教を喜んだという。司祭の遺体は聖遺物となることを恐れ、海に投棄されたが、その棺が浮かんで、信者に回収された。禁教は容易ではない。

藩主純頼は、かっこうがついたと秀忠に報告したが、その叔母は公然たるキリシタンで、どんどん宣教をしていた。公儀としては、とにかく外国宣教師をなくすことが第一であり、日本人キリシタンはおかまいなしだった。

しかし19年秀忠が上洛した際、63人のキリシタンが牢に居ることを知って激怒し、さっそく火刑を命じた。所司代板倉は、楽に死ねるよう薪を増量したらしい。秀忠は宣教師さえいなくなればキリシタンはなくなると思っていたが、そんな甘いものではなかった。

下左は中山正実作京都大殉教のテクラ橋本を描いた「殉教」右は東山の殉教碑