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通ったら神

某外資コンサルのテストを受けてきた。
業界一、むしろ就職試験一難しいとされる、恐ろしいテストらしい。

レイトン教授に出てくる「嘘をついているのはだれか」のような量的判断問題(?)が45問くらい。
その他、文章題が15問くらい。
文章題は1問につき多くて400字くらいの文章。


回答時間は、


70分。


無理



とはいえ、何も書けないで時間オーバーってのは僕の主義に反するので、
しっかり最後まで書いてきました。

答えに自信はないw

多くのESがあったり、課題があったり、レポートがあったりして、正直恐ろしいほどめんどくさい。

どれか一つにしぼりたいし、しぼってやらないと破綻する人間でもあるので、
どうにかしたい。
でも就活ってのはやっぱりどこか楽しくて、
率先してやりたいと思ってる。
人生を決めてしまうわけだし。

でも考えてみると、今までってすごく恵まれていたんだよな。
高校でやることなんて基本的に受験勉強なわけだ。
目的は大学にはいることで、それ以外は趣味程度にやっておけってくらい。
(もちろん本来は物事を知ることが目的で、趣味や部活も本格的にやるべきだけど)
大多数の人はこんなもんだ。

でも大学は違う。
とりわけうちのゼミ(専攻)はガチで卒論は書かなきゃいけないし、
実験もとりくむ必要がある。
就活に集中してしまうと、ゼミが疎かになってしまうのは、心苦しい。
どうにかできないもんだか。。。

最近、就活に取り組むにつれ、重要な意識が芽生えてきた。

「自分は売り物」

これって、結構重要だと思う。
自分に悪いポイントってのも内包されているのは当たり前なんだけど、
企業に対して自分の良いポイントは押し出さなきゃいけない。

あるスポーツドリンクだって似たようなもの。
運動のときに効果的、疲れているときの水分補給に、とか色々アピールポイントはある。
でも、飲み過ぎるとトイレにいきたくなる、割と糖分も含まれている、なんてアピールはしない。

ホントに消費者(企業)に手に取ってもらうには、良いポイントを告示する必要があるんだな。

企業にとって求めるポイント。

これを重視していきたいと思う。

信じたいものを信じよう

僕には恩師が数人いる。

一人は大学の先輩で、高校も同じ、社会人である今もよく会い、
そして、仕事を通してのプロ論を通わせている。

一人は母だ。不慣れながらも始めた会社経営に一生懸命取り組み、一経営者として多くのことを教えてくれる。

そして、もう一人が一緒にコンサルティングの仕事をさせていただいている方だ。
自分はデータ収集などの裏方の仕事が主なのだけれど、その方の理論は、ある種自分の考え方と似ていて、一緒に仕事をしながら正の方向へと僕を進めさせてくれる。

就職活動という機会を前にこれだけ多くのことが身の回りにあるってことが、
どれだけ重要かは計り知れない。

複数のインターンに応募しつつも参加できなかったのは、反省すべき点だけど、
インターン以上の経験を僕は知らずのうちにしているのかもしれない。

僕が本質的に「踊らされない」と考えているのは、
おそらくブーム的なインターンという指標に対してなのだろう。

もちろんこれは就職活動の時も同じであって、
セミナー一ついけば、そのたびに企業を好きになってと繰り返す。
そんな流れがいかんせん嫌いなのだ。

僕は企業に入るために全精力を傾けるような就活はしない。
大元は「自分が社会人としてどういったことができるか」だ。
それは企業に入るための方略ではなく。企業に入ってから活躍するための方略だ。

どういった人材を企業が求めているのかを知ることは別に構わない。
だけど、その訴求は就職活動時に求められている以上に、
社会人になってから求められていることだ。
だから、自分を無理に加工するつもりはない。
加工してもボロがでるだけだ。

そういう意味での「踊らされるな」。
アイデンティティは隠すべきじゃない。
同時に、全てを穿つ武器のように扱うべきでもない。

そこに介在するのは、素直さということだけだ。
それが全てを決する。

なんというか心構え

みくしぃなんかでは、就活始めました的なことを書いてますが、

それは別に行動だけの話じゃない。

根本的に僕が就活に向けて考えていることは、

純粋な意味での心構えだったりする。

むしろそれは、就活に向けてというよりも、

社会に向けてということかもしれない。

言い換えれば、社会人としてどうあるべきか。

133倍のインターンをくぐり抜けるために必要なのは、

まずはそれありきだと考えている。

というわけで、次回は、

具体的に自分が決めている方針について書いていきたいと思う。

キーワードは、「踊らされるな」だ。

誰も知らない

といっても、ほとんどのヒトが知らないということなので、知ってるヒトは知っている。

いわば、同じ専攻のヒトであれば、知っていることなのだけれど。

死ぬほどの忙しさなんて誰しもが経験するようでしなかったりするけれど,
今の自分は十分死ねるほど忙しいと思う。

忙しいなんて言葉は本来であれば使いたくない。
でも学生としての忙しさの極みがあるとしたらそれは今なのだろうと切実に思う。

ひたすら慣れない統計処理をして、事細かに実験のレポートを書く。
毎週提出するレポートはそれぞれ10枚以上いくことは当たり前の分量で、
それに加えて、先週分のレポートが添削されて返ってくる。
ダメなレポートは直して再提出をさせられる。

去年の人たちが本気で嘆いていたのが身にしみて分かる。

同時に、自分はなんてキツい道を選んでしまったのだろうと憂鬱にもなる。

楽な道を歩むことだってできた。
他の専攻に行き、適当に授業に出て、適当に毎日を過ごしていれば、大学生活は終わりを告げる。
もしかすると、授業にほとんど出なくても卒業できてしまえたのかもしれない。
でもそれじゃ、僕の描いたものが達成できないことも分かってはいる。

あんまり、僕が勉強してる内容について、周りの人は知らない。
同じゼミ・専攻の人たちであれば、分かるだろうけれど、他学部や他の大学のヒトだったら尚更分からないと思う。
究極的なことを言ってしまえば、親兄弟も僕が大学で何をしてるかなんて知らないと思う。

そう、僕が今やろうとしてることは将来への布石。

なぜ、僕がMCの面接のときに「心理学で個人がどのように広告を認知するのかを学び,MCで集団・社会がどのように広告を認知するのかを学び,ミクロ・マクロの視点から広告について考察を加えたい」と言ったのか。

それは僕にしかできない道だろうと思えたからだ。

確かに難しい事柄だろうし、今となってはその難しさにがんじがらめになって、どうやって一つ一つ解いていこうかを考えるしかないことになっているけれど、それは今の僕に課せられた「業」みたいなものなんだろうと受け止めている。

若い時の苦労は買ってでもしろというけれど、
今がそんな時期なんじゃないかなと思って、
がんばって堪えてもいる。

誰かを傷つけてしまうかもしれない言葉の話

さて、先日多く議論されていた進級云々の話。


手法の多くは、「タイトルに『留年』と記し、実際は進級していた」という手法。


友人は、これを「心地の悪いバラエティ」という風に揶揄していたが、

僕個人として思うに、そこには芸のなさという点が浮かび上がってくる。


人は何かを表現しようとするとき、文章である場合、まず表現技法を選び、そして言葉を選ぶ。

今回は「詩」にしようか、日記調にしようか、それとも小説にしようか。

そして、それに沿ったような言葉が選択される。


僕はこの行動にケチをつける気はない。

たとえ、技法や様式に対してケチをつけたとしても、それは『柳沢発言』の様相と対して差はない。

柳沢大臣の問題が、生態的見地と倫理的見地の争いであったように、

そこには、最終的事実結果とプロセス描写の争いしか見えないのだ。


だからこそ、僕はあえて、「芸がないな」と記した。

友人のように、「留年してしまった他の人の心を傷つける」ということももちろん考えたけど、

最終的に落ち着いた結論は、やはり「クリエイティヴィティないね」ということだった。


経験で言わせて貰うが、

まず留年すると一緒に卒業できる人を探してしまう。

これは自分の不幸を分かち合うことのできる相手を探すということから派生する。

そうなれば、mixi等の日記で「留年」という言葉に食いついてしまう。

それをクリックして下まで見てしまった途端、また新たにため息をついてしまう。

だからこそ「心地の悪いバラエティ」という言葉には僕もはっきりと頷いてしまった。


僕が正直、カチンときたのが(ここでしか書かないけどw)

「大学の成績くらいちゃんと取ろうよ」という一文だった。

「自分の親が亡くなりました・・・嘘ぴょーん!」という文章だったら、まだ許容できる。

それは書き手が読者を想定できなかった場合に起きることだろうから。

(もちろん、倫理観をもっている書き手という前提で)


でも、この一文は、

「車に轢かれた方も不注意だったんだから過失はあるよね」と、

ほぼ直接的に事象に対して非難してしまっているのと同義だ。


これは誰かを傷つける言葉になりうる。


だから僕が主張したいのは、

「言っていることは正しいのかもしれないが、場を選んで言う必要がある」ということだ。


いくら閲覧が限定されているmixiの世界であっても、それはネットの世界。

広がるスピードは顕著だ。

とりわけ顔が見えるmixiでは、読む相手のパターン全てを想定するということが必要になってくる。

倫理的にタブーな言葉を発したいのなら、そんなのは、気の合う仲間と酒でも飲みながら語ればいい。


結論として、言葉を発するときには、その責任を負えるようにしてほしいということだ。

要するに、発した言葉に対する批判さえ、初稿時には想定し、それに対しての明確な答えを出せるということだ。


ネットの力もあって、多くの人間が何らかの発言力を有した。

ただ、発言力を持つためにはそれなりの知性と論理力と、

そして、誰かへのホスピタリティが求められているのではないだろうか。

デンジャラス

別にもう22歳になったし、


昔みたいにすぐにキレたりはしないけど、




よっぱらってギャーギャー騒ぐ女にはキレそうになりますw


いや、これだけは譲れないっす。


そう考えると、普段一緒に飲んでる大学の女の子たちは、


わりと静かに飲む子たちなので、


節操あっていいなぁなんて思うわけです。


偏見かもしれんがw


まぁ、こんなのはどうでもいい。


今はっきり言えるのは、



友人になるかもしれないだとか、

今いる友人も含めて、



世界中の男には興味があります


友情とか大事にしたいからね。


しかし、



彼女以外の世界中の女には興味がないです。


男として終わってるかしらw

沈黙は金、雄弁は銀、さすれば駄弁は錫にも劣る

見失なっていたに値する。
記すということの本質を。

兄の言うことが何となく分かる気がした。

語ることを美徳と思うのはやめよう。
なぜならそれは資産を見せつけようとする人々に良くも悪くも似ているからだ。

ひっそりと生きることに何も疑いはない。
ただ静かに時を刻んでいければそれだけで十分だ。

君に届く写真

061228_1856~01.jpg
札幌の空の下、

君のために撮った写真。

遠く離れた土地へ届くかなぁと、

気持ちを込めてボタンを押す。

古き良き友人の笑い声に混じりながらも、

その想いは尽きない。

彼女が返した、

「キレイだね、ありがと」

というメールに心洗われる。

昔の人が絵はがきを送りながらしたやりとりが

今はこんな数分でできてしまう。

大好きな彼女を想う気持ちと、

古人の趣に、

彩りと月の流れを感じながら、

僕は雪降る街に視線を落とした。

閑静

誰がつぶやいたかは知らないそんなささやきに

風は呼応するようにささやかに吹き

カサカサになった頬と
荒れはじめた唇が冬の訪れを呼びおこす。

一年前、何を僕は考えてただろう。

訪れた安堵だろうか
忍びよっていたのに気づかないふりをした闇への不安だっただろうか。

どちらにせよ今の僕は昔と違う。

少し冷えた風が一年前よりも暖かく感じられるのだから。

外の空気が透き通ってきた。

きっとそろそろ雪が降る時期だろう。

変えたくないものを変えてしまわないようにそっと

僕は新たな季節を歩んでいく。

とりたてて何かを記すこともないのだが。

やっぱり二人で三田を歩くときは


緊張を隠せなくて、


手をつなぐにもつなげなくて、


ポケットに手を突っ込む。


だけど、そっとそんな腕をつかんできて、


「ねぇ?」


と言葉を投げかけられる。




一緒にいるのに手をつないでないのが


もはや不思議なことになっている。


数ヶ月前には手をつないでいることが不思議だったのに。


だけど、今を「当たり前」だなんて思えない。


それは本当に自分が望んでいたもので、


大切にしたいコト。


だから本当に、


本当に、


ずっと手をつないだままでいれたらと思う。

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