どーもー。地元に帰って久しぶりの雪にテンション上がってました!ケイちゃんです!地元にいた時は嫌というほど見ていた景色も、たまーに見てみるとなんだかノスタルジックになりますね。これは気が休まること休まること。まあ、結局寒さには弱いんで、ほぼほぼ炬燵でぬくぬくしてます・・・。
さて、せっかくののんびりできる期間、ただ炬燵でぬくぬくするのもなんですから、ここは一つコーヒーでも飲みながら漫画でも嗜もうかと思います。「漫画」・・・といえば、そう!前回、「ここは今から倫理です」のお話をしていましたね。第6回の前編に続き、今回は後編です。 僕の特に好きなエピソードをピックアップして行きます。
まず、僕が紹介したいのが下記の3つのエピソードです!
- 姫と泥棒 5巻収録 #23 #24
- 本当の私 2巻収録 #9
- 可愛いは正義 5巻収録 #21
です。どのエピソードも凄く良いんですけど、読んでて特に印象的だったのが上記の3つです。
それぞれ、「カントの唱える根本悪」「人格の仮面 ペルソナ」「サルトルの実存主義」がテーマとして用いられています。
- 姫と泥棒 5巻収録 #23 #24
ー「カント」の唱える根本悪ー 人間における悪の性癖とは、「心の弱さ」「動機の不純さ」「心の転倒」の三つがある。
大人には自分たち(子ども)のことなんてわからない、と純粋な思いをぶつける高校生“隅井さん“に自らの中に在る「自由意志」、それ一つで「心の転倒」からは起き上がれる、と高柳先生は説く。
道徳法則よりも自己愛を優先すること。 正しい場所に悪い人が来ることがあっても、悪い場所に正しい人が来ることは無いこと。
誰よりも他人の言葉を聞いているその人を信じて、一つ一つ「言葉」を投げかけていく。すぐに変わることはなくとも、きっとその「言葉」の生んだ心の波紋は、その人の中に響き続け「正しさ」とは「善く生きる」とは何かを問い続けるでしょう。もちろん、読者としてその「言葉」を受け取った僕も同様です。
「心」「自由意志」「感情」「道徳」「自己愛」目に見えず、音も聞こえず、触れられもしない。そんな曖昧模糊としたものを少しでも知るために、「言葉」の力を頼るのも大切だと思いましたね。
- 本当の私 2巻収録 #9
ー「記憶しておきなさい 君はこの世界という演劇の1人の役者であると 君の役割はただひとつ 与えられた役を見事に演じ切ること」ー
ローマ時代の後期ストア派の哲学者 「エピクテトス」の言葉です。
SNS上での承認を得ることに腐心するあまり、学業が疎かになってしまっていた生徒“安村さん“に向けてこれらの言葉は紡がれました。これは耳が痛いですね。僕自身もお恥ずかしいお話ながら、SNSに興味関心を独り占めされ、在るべき自分ややるべきことなどを軽んじてしまうことが多々あるのです。先述した「心の弱さ」「心の転倒」などにも繋がる話かもしれませんね。
作中では、「社会的な人格」は仮面(ペルソナ)のようなものである。家に帰れば「その家の子ども」として、コンビニに行けば「客」、SNS上では「ネットユーザー」、そして学校では「生徒」としての仮面を被っている。ある仮面では言えない本音も別の仮面なら言えることもある。人はそうやって仮面を使い分けて他者と社会的関係を築いてゆく。そして大事なことは「勉強」は仮面を被る役者本人を磨くもの。役者が美しくなれば、仮面も美しくなる。仮面を適切に被り、「勉強」による自己研鑽を怠らないで欲しい。仮面の奥の「本人」に高柳先生はこう語りかけました。
自分を見失ってはいけないけれども、自分の今被っている仮面がその場に適しているかどうか、「勉強」によって仮面と共に自らも美しく磨いていくことを努々忘れてはいけないと、僕も自分に言い聞かせています。
- 可愛いは正義 5巻収録 #21
ー「地獄とは他人の事だ」ー
「出口なし」の戯曲でも知られるフランスの哲学者「サルトル」の言葉です。
自分が一番可愛い、可愛く無いものは徹底して拒絶する女子高校生“井上さん“と他者からの視線に思い悩むジェンダーレスの高校生“沖津くん“の衝突が描かれた話で、この「言葉」が出てきます。我々は常に「他者からの視線=まなざし」に晒されている。いわば自分の「客観視」。自分の審美眼のみで一方的にまなざしている井上さんに対して、自分がどうまなざされているかを諭す高柳先生。結果として今までの友人関係から孤立してしまう井上さんに歩み寄ったのは沖津くんでした。沖津くんは「地獄とは他人の事だ」という高柳先生からサルトルの言葉を聞き、何か思うところがあったのでしょう。
「他者からのまなざし」に晒されていること。これはサルトルの、他者に知覚されて初めて自分という存在が確固たるものになる、という「実存主義」に基づくものなのでしょう。 社会的関係は決して自分一人で完結するものではありませんからね。この考え方には強く共感します。
しかし、ここが僕の最も弱いところ、でして。他者からどう見られているか、自分の見せ方、というものが上手く自覚できないんです。僕は。だからこそ、作品全編を通してこのエピソード、この言葉が強く僕の心に残っています。自分の不器用さ、視野の狭さ、思考の至らなさを強く自覚するためにも、このエピソードは何度も読み返しています。
哲学者の「言葉」。思っていた以上に本質を捉え、僕の心を深く突きさしてきますね・・・。
もしかすると、「他人の言葉で自分を語るなんて!」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし僕はそれでも構わないと思います。「言葉」とは「自分」と「他人」の絶対的な差異、感覚や思考、価値観、経験、そして感情を伝達、共有するためのツールだと考えています。
「自分」と「他人」の間にある絶対的な「壁」。向こう側の姿も見えず、声も聞こえないくらいの「鋼鉄の壁」を限りなく薄く、透明にするための道具が「言葉」なんです。取り除く、とまではいかなくても相手の姿が見え、声が聞こえ、時には肌の温度まで感じられるくらいに「壁」を薄くする力が、「言葉」にはあるのではないでしょうか。
自分にしか伝わらない理解できない「言葉」は、「言葉」として機能していないのではないでしょうか?
なんて、大きな顔で語ってますが実際僕自身はひどく口下手なんです、、、会話というか対話がとても苦手です。よい人間関係を築き維持すること。「自分」を「相手」に伝えることに難儀しています、「言葉」の持つ力は知っていても、使い方は知らない、といった感じでしょうか。しかし、人間関係の構築には「言葉」は必要不可欠ですからね・・・。まだまだ良い答えには辿り着けそうにありません。
この作品の中に、その答えに辿りつくためのヒントがあるのかもしれません。今一度、倫理及び哲学の「言葉」に触れ、自らの心に投げかけてみるとしましょう。そのページをめくるために、今回はここで筆を置かせていただきます。

