3.11
あの日から、明日で3年。
正直、時間の早さを感じると同時に、復興の遅れも感じる。
あの時、俺は高校で家庭科の授業を受けていた。
授業も半ばの頃、初期微動が来た。
ゆっくりゆっくり、そして長かった。
その直後、体験した事のない、巨大な揺れを感じた。
みんなが机の下に避難していた。
バチッと音を立てて切れた電気。
落ちてくる本、机の中身、掃除用具のロッカーからも飛び出していた。
冗談じゃなく、この世の終わりじゃないかと思った。
一端、揺れが治まると、そこには見たことのない光景があった。
めちゃめちゃになった教室。
割れたガラス。
校舎は亀裂が入り、鉄骨が向きだし。
全く状況が飲み込めなかった。
校庭に避難したあと。何度も大きな揺れを見た。
感じたのではない。見たのだ。
大きく揺れる電信柱。校舎って、こんなに揺れるのか…と思った。
しかし、まだ何が起こったのか分からない。
本当の恐怖の中では、そんな状態なのだろうか?
そこに副校長が現れて、初めて事態を語った。
東北地方宮城県沖、茨城県沖などを震源とする、巨大地震が発生しました。
大津波警報が発令されました。
電車は不通になり、駅にも入れません。
とのことだった。
地震の後に津波が来るなんて、全く頭になかった。
津波にあった人も同じだったのではないか。
あとから、避難させれば良かったと言われても、あの状況ではパニックが普通なのだ。
とりあえず水曜日までは休校。
徒歩で帰れる者だけ、帰宅を許可する。
他は親が迎えに来たのを確認しないと、帰せない。とのことだった。
俺は帰宅不可能なため、学校に残った。
家族と連絡を取るにも、電話は通じない。
父、母、自宅。全て通じなかった。
Eメールも始めは送れたが、数時間たつとエラーが出て送れなかった。
Cメールはかろうじて送れたが、なぜか同じメールが何通も届いた。
おかげで電池がすぐ無くなって、携帯は使えなくなった。
校庭にある大きな地割れを回避して、一端荷物を取り、校舎内に避難した。
なぜ体育館ではないのか?体育館はガラスが割れて散乱していたため、危険だったのだ。
まったく…
問題はすぐに起きた。
まず、寒い。3月の夕方。制服以外の衣類などもっていない。
そして、腹が減る。
しかし、何もない。
かろうじて水はあった。
夜は特に辛かった。
寒さを凌ぐ物など、誰も持っていない。
ストーブや、エアコンを作った人は凄いな…と思った。
なので、教室のカーテンや新聞紙で暖をとった。
実話です。
日付が変わってから、迎えが来て、午前2時に家に着いた。
暖かい布団が、幸せだった。
次の日、目が覚めた。
昨日は全く意識してなかったが。部屋は凄いことになっていた。
昨日のことは、夢じゃなかったんだと思った。
水も、電気もない生活が始まっ。
近所の井戸水を貰い、生活用水として使った。
と言っても、大量にあるわけではないので、トイレはまとめて流し、風呂も一回か二回しか入れなかった。
ガスは使えたので、お湯は沸かせた。
おかげでカップ麺くらいは作れた。
近所のスーパーなどでも、カップ麺や飲み物、電池などを売ってくれていたので、助かった。
しかし、電気は3日。水は5日くらいかかって復旧した気がする。
記憶が曖昧だ。
電気が復旧したときに、初めて津波の映像を見た。
怖かった。
そして、原発、液状化、計画停電などの話がでた。
俺の住んでいる茨城県は、一応被災地なので、計画停電は無かった。
しかし、原発があるので、怖かった。
続く余震。一日に何十回もあった。
今でも、震災の怖さはある。
震災=東北って言うが、茨城も被災地として扱われていた事を、忘れないで欲しい。
震度6強を観測したり、津波による死者も出ていた。
今でも地震は怖い。
ニュースで見る度に思い出す恐怖。
忘れたいし、忘れてはいけない事実。
復興を願う。