丸っこい文章を書くのが苦手。
私はこんなにも(どんなにも?)ほっこり生きているというのに。
朝一、ミルで珈琲豆を挽いて、湯気をボゥッと眺めているとまるで己が丁寧に暮らしているような錯覚を引き起こす。
そして瞑想をしたり時にヨガを行い、今朝なんて腹筋を120回と腕立てを70回もやっつけた。
それが後ろめたい、恥じらいを感じる。
なぜか?
昨今のVLOGだとかで優雅に白湯を飲む人間を差別的な目で見ているせい。
お陰様で私は堂々と白湯を飲むことができない。
そりゃ大多数が丁寧に暮らしたいに決まっておろうが、それをYouTubeでお披露目すること、
それ自体がどうというわけではなく、あまりに内容が似通っていることに気味の悪さを感じるのだ。
私は悪趣味な映画や音楽も好むのだけどそれらを見聞きするようにそういったVLOGを観て「量産型」という単語が浮かぶ。
ルーティーンがこうも他人同士で被るか?だとか、なぜただ歩行しているだけの足元を映したいんだ?という気持ちになる。
それが凄く不気味で、しかしながら私もそういった暮らしへの憧れやらが植え付いてしまい「あ~寄ってんな~」と悔しいのである。
もちろん(?)わたしの部屋は汚いし、ルーティーンなんてものはない。VLOGのなにが不気味かというとルーティンである。
日常を生きるというのは日によって気持ちの塩梅が違って、気まぐれだからこそ全力で楽しかったり四苦八苦できるのではないだろうか?
感情は習慣化できないのに行動を習慣化することがまるでAIがプログラミング通りに作動しているみたいで、きっとわたしはそれが怖いのだと思う。