しろ熊君です~〔´(エ)`〕ヾどうもー

千葉青年部北海道旅行の報告は・・・後で改めて載せます・・・∑(_(工)_;)サカサガビーン!!

( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー


簡単に言えば・・・弾丸旅行だったので疲れただけ( ̄(エ) ̄||| ヒャァアアアア

北海道に住む友人からは無茶すぎると・・・[岩蔭|](エ) ̄) ・・・→( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

最近、過去読んだことのある本の記事を、相次いで思い出すようになってきています・・・。 ツンツン(。'(ェ)')σ)/。\)


で、最近思い出されたのは「青い目の人形」。

小学生時代に、雑誌に「青い目の人形」が載っていて熱心に読んでました。
なぜ熱心に読んだかは覚えていなかった・・・が挿絵や写真にはよく覚えていた。
記憶に残った挿絵は、「教師が、青い目の人形を兵隊か憲兵に見つからないようこっそり隠すシーン」と「難から逃れてホッと安堵し、青い空を眺める青い目の人形」。

だから、「青い目の人形」を調べてしまいました・・・ カリカリ〆ヾ( ̄(エ) ̄ ( ̄(エ) ̄ ( ̄(エ) ̄ メモクマ隊!

「青い目の人形」は日露戦争の後、日本国が満州国を握ったため、日米の関係が対立する懸念するため、対立を文化で和らげようと考えだされた親善活動。


こうして、1927年渋沢栄一氏が中介となり、アメリカ国から12739体を送られ、日本国はそれに対して市松人形を「答礼人形」として58体送った。
そのなかで、「ミス三重」「ミス福島」などつけられていました。
なお、アメリカ国から友好人形として各地方の幼稚園や小学校へ送られ、歓迎会を開かれ、歓迎した。

ところが、1941年にアメリカ国との関係は対立し、開戦宣告をアメリカ国に叩き付け、真珠湾攻撃を先立って、太平洋戦争が開戦した。
そのきっかけで、「青い目の人形」は「敵のスパイだ」「仮面をきた畜生だ」と、今まで歓迎会まで開いてくれ、しかもかわいがられてほやほやだったがうそみたいに待遇がガラッと変わって、目下されるよう、また迫害されるようにみられ、
青い目の人形を引っ張り出して、首つりされ、さらしものして壊したり、または踏みつけられて破壊されました。また、青い目の人形を広場に集め、燃やされました。
それを知った教師などらは「かわいい人形には罪がない」「かわいい人形を壊したらどういうんだろう」と良心で、学校の倉庫の隅や家の屋根裏などに隠し続け、隠すと罰されるとわかって
怯えながら戦争が終わるまで耐え抜きました。
そのなかで、憲兵が各学校へ行き、青い目の人形を探し出し、見つかれば取り上げて燃やしたり破壊されていたのだろう。

そこまで鬼畜米英といえ、青い目の人形を破壊するよう徹底ぶりな行動するのは異常な考えだった。
終戦あと、生き残った人々は、毎日の食べ物に必死で、どうやって調達できるか考える日々の生活がつづき、人形のことは、みんなの記憶からすっかり忘れ去られていきました。

そのあと、学校の移転やそれぞれの工事で、倉庫の掃除や家の掃除などで掃除をしていた若い先生が、薄汚れた人形を見つけ、「何故こんな人形があるのか」とわかりませんでした。
見つけた教師などが調べていくうちに、戦争中、難から逃れるため隠した「青い目の人形」のあわれな姿であることがわかった。
そのあと、汚れた服や髪の毛をきれいにしアメリカへ里帰りさせた。
結局、難から逃れて無事に残ったのは12739体のうち、323体で2.5%分だけ残っており、それぞれの青い目の人形は各学校に日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。
その中で声が出る人形が雄一、1体のみ生存している。
逆に、答礼人形として送った市松人形は58体のうち44体、生存され、大切に保管されている。なお、その中で日本へ里帰りを実現した。

戦後、「青い目の人形」を介して平和親善として新たな「青い目の人形」を作り、日本国へ送呈された。

生き残った青い目人形と市松人形は、戦争を通して、迫害や災害など難にあったのだろう、その眼の中にはどう映っていたのか。

注意:「青い目の人形」という名称は送り主側がつけたのではなく、本居長世が作成した童謡「青い目の人形」で、アメリカで演奏され、好評を得た事柄、因んでつけられたと思われる。
野口雨情が発表された詩:「青い目の人形」は1921年である。


参考:http://tanukicm.web.fc2.com/aoimedoll.htm
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E3%81%84%E7%9B%AE%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%BD%A2
青い目の人形:http://www.cec.or.jp/es/mirrors/aoime/

こうした、平和親善として互いに送った人形たちは、平和親善の文化として、また歴史をきざんだものとして残してほしいものである。