最近、我が家の次女は第二反抗期。

 あまり、親の相手をしてくれません。

 私がちょっと声をかけても、無視されることも多いです。

 私はムッとするのですが、そういう年頃になったので、ある程度仕方ありません。

 ただし、これは親子だから許されることであって、他人であればかなり剣呑となります。

 例えば、ご近所さんと出くわして、こちらが挨拶をしても相手は無視してそのまま通り過ぎたとします。

 かなり些細なことではありますが、そうされた人は相当傷つくものです。



 こんな風に人から無視された時に、脳はどのような反応をするかについて調査した例が過去にあります。

 結果は、無視されることにより、体の痛みを感じた時と同じような反応を脳が起こすことが分かりました。

 つまり、脳にとっては、体を傷つけられるのと心を傷つけられるのは同じというわけです。

 では、逆に相手から承認されたり、一人の人間として公平に扱われたりした場合はどうなるでしょう?

 この場合は、受け入れられることにより、美味しいものを食べた時に同じような快感が得られます。

 人間の遺伝子の中には、人間同士のつながりを重視する性質が刻み込まれているようですね。



 これ以外に、人間が幸福を感じるかどうかについても、人とのつながりが大きいという結果もあります。

 幸福といえば、カネで幸福は買えるか?という問題がよく提起されますが、お金と人間同士のつながりとどちらが幸福になるのでしょう?

 単純な調査ですが、所得と幸福の関係をアンケートを取ったところ、両者の間にはほとんど相関がないという結果が得られました。

 同様なアンケートで、幸福と人間同士のつながりは強い相関を持ちました。

 家族や友人との個人的な人間関係や、何かのコミュニティーに入っているといった社会的なつながりの、いずれも幸福感をもたらします。

 こういった点から、人間は社会的な存在であるということがよくわかります。

 しかしながら、現在は人間的なつながりが、どんどん減ってきています。

 リアルなつながりはもちろん、代替手段としてのラインやフェースブックなども、疲れを感じて覚めた気持ちを持っている人も増えてきているようです。

 確かに、人と話すのは煩わしいとか、忙しいかとか他にやりたいことがあるなどという人も多いと思います。

 都会の人で、田舎暮らしに憧れる一方、田舎の濃密な人間関係が嫌だという声もよく聞かれます。

 いずれも気持ちはわかるのですが、それでも人付き合いは人間の本質的な欲求であることには変わりありません。

 心の余裕を持って、ちょっと相手に接してみれば、どのような効果が得られるかは自分の脳が答えてくれるでしょう。

ダライ・ラマはこういいました。

「賢い者としての利己主義をせよ。

 他の人を思いやるということが、自分の幸せをもたらすということを理解し、自分を労わる。

 これが賢い者の利己主義である。」