犬は、子供の頃の好奇心を持ったまま、精神を大人へと完成させる類まれに見る生き物だと本に書いてあった。昔、家にいた犬もそうだった。雑種の捨て犬だったが、何にでも興味を持って、何かが起こると瞬間ワクワクしてはしゃぎだし、世界のすべてを楽しんでいるように見えた。だから散歩をショートカットすると悲しそうな目で帰るのを嫌がった。

心傷ついて帰ってきた夜は、寄り添ってペロペロしてくれた。あいつが夜泣きする日は横で添い寝した。弟であり、友達であり、家族であり、師匠であった。人間と違って嘘もつかなかった。

 いつもどんなに遅く帰ってもしっぽを振って迎えてくれた。どんなに早く家を出ても見送ってくれた。スキーで大怪我して長野の病院に1ヶ月入院したあと、久しぶりに家に帰ってきた時のあいつを忘れられない。久しぶりに自分と会う事をこんなにまで喜んでくれるなんて。あいつとはいつも一緒だった。

 

 晩年、空を見上げることが多くなった。ヨロヨロと、歩くのもままならくなった。俺が外出中に容態が悪化して目を閉じたまま動かなくなった。医者は「もう年だからダメでしょう。安楽死をさせてあげたほうが」と母に言ったらしい。違う。わかってない。こいつはまだ生きようとしてる。俺はあいつの耳元で大きな声であいつの名を呼んだ。全く無表情だった顔の奥から、何かが戻ってきた。あいつはゆっくりと目を開き、「…おお、お前か。今から一緒に遊ぶかい?」そう言って笑って、俺の手をペロペロしてくれた。

 

 その後しばらくあいつは頑張っていたけど、次の夏、大学の講義でカナダに行ってる時、泊まっていたユースホステルに日本からメッセージが入った。「今日、彼は天寿を全うし眠りについた。君は旅を続けられたし」。 父からだった。…!?…バカ野郎、何で今なんだ。サヨナラできなかったじゃないか。何やってんだよ…バカ野郎…

 帰国して家に着くと、主を失った庭がシーンとなっていた。「ただいま」そう心の中で言ったけど、返事はなかった。母親とご飯を食べた。お互い無言だった。さてと…ちょっとあってくるか。玄関のそばに置いてあった四角い缶の前に座り、ゆっくりと蓋を開けた。中にはあいつの骨。近所の火葬場で無理言って焼いてもらったらしい。一つ一つ持ち上げてたら我慢できなくなった。スカスカでこんなに軽いなんて。お前さ…こんなになっちゃって…。涙が止まらなくなった。母が「お隣さんが最後に一回吠えたのを聞いたって」って言った。俺を呼んだんだ、きっと。お前弱っちいからな…ごめんな、最後に抱きしめてあげられなくて…寂しかったろ…ごめんな…

その後しばらく何度も夢のなかにあいつが出てきて、その都度、「なんだやっぱり生きてたんだ!そうだと思ったよぉ~」と何度も同じことを言った。俺も学習すればいいのに何度も夢の中でホッとして、目覚めて「あ…夢か」とがっかりして泣いていた。

 

あれからすごく時間が経ったけど、あいつを撫でまわしたり抱きしめた時の感触がまだ残っている。あれほど苦しかった胸の痛みは落ち着き、今は楽しい思い出だけが残っている。あっちでも元気にやってるかな?またいつの日か会おう。

もうすぐ、あいつとお別れした8月がまた来る。