酸素濃度

酸素濃度

酸素がなくては生きていけない

Amebaでブログを始めよう!
今日で大学最後のテストが終わりました。このブログは卒業式後に書こうかと思ったけれど、卒業式に出るか分からないし、卒業式なんてただの付録なので今日ここに、私の大学4年間を記します。




【大学入試】

国公立しか行ってはダメと前から言われていて、センター試験を済ませ国公立の2次前期試験を受け、結果不合格。慌てて頭を下げ頼み込んで後期の私立受験を決めました。私立なんて私の中では想定外だったから大学の学科も特に選ばず3校受験。そのうちの2校から合格が来ました。3校の中では第一志望だった大学と、親に勧められて受けた大学。はじめは親の言う大学に行こうとしたけれど、ツイッター等に背中を押され志望の大学に行きたいと言いました。が、それは受け入れてもらえず、母親が家出をし、結果、「その大学に行くので帰って来てください」と電話をしました。志望だった大学の入学金振込用紙を破り裂いた写真も送りました。




【大学1年生】

そんなこんなで始まった大学生活。教育学部なんて、学校生活を楽しんで来た、又はただの優等生でいい子ちゃんの巣窟。教員になるつもりなんてさらさら無かったし、生きてきたフィールドが違うのだと疎外感を感じながら、でもそれを隠してそれらしく振舞って、数人のグループでの団体行動で始まりました。だけれど前期で息切れ。後期からはそのグループからは離れほぼひとりで授業を受けていました。スケジュール帳に各教科の出席日数をメモし「あと何日休める……」と計画的に休みつつ、単位を落とすことなく1年生を終えました。

私の大学は教員養成に関しては有数の大学で、独自のカリキュラムがあり、何度も元・現教職員の方や教育関係の方から講話を頂く機会がありました。その度にレポートがあり、教員志望だと嘘をつきながら感想レポートを書くのが辛かった。安易に「更に教員への意志が強まりました」なんて書いたら、たったその一文に自分が殺されてしまう気がして書けなかった。

1年生から小学校での実習もありました。1日実習を年に3回。初めての実習は、あの異質な箱である大嫌いだった学校に行かなければならないと、一週間前から震えていました。実習自体は問題無く終え。そしてまた、実習を終えてのレポート。何度手をつけても文字数が足らず期限までに書き上げることができなくて、途中までのそれを持って担当教授のところへ行って事情を説明しました。話しながら自分の不甲斐なさやなぜこんな大学にいるのだろうと分からなくなって泣いてしまった。

バイト漬けになったのも1年生から。3ヶ月6万円の定期券を払い、残りは貯金。私生活・大学生活に関わるお金は授業料以外親に一銭も出してもらわないと決めていました。塾にバイトに行き、バイトの無い日も通って先生の授業を見て授業法を勉強し。サークルだって入ってみたかったけれど、何せ片道1時間半、電車なんて通っていないのでバスで片道1500円もかけて行くなら地元でバイトをするのが賢明だろうという判断で諦めました。




【大学2年生】

毎回授業に出席する賢くて真面目な友人、遊ぶこと話すことがすき上手く人を渡り歩く友人、のふたりをゲットしました。一年後期同様、授業は出席日数ギリギリで落とすことなく単位回収。その為に真面目な友人を活用。初めて海外に連れて行ってくれたのはこのもう一人の友人。それから毎年この友人と海外へ出ました。友人らしい友人はこのふたりだけで大学生活を終えます。

2年生になると、1年生で一般教養としてあった科目が社会心理学や発達心理学、教育心理学に代わり、その度に家庭環境だいじめだ不登校だと、授業内で気持ちを乱される機会が増えました。その度にイヤホンを頼りに寝たり、途中退出したり。とにかく授業が辛かった。テスト内容も授業内容と同じだからテスト勉強も辛かった。何も知らない平和に過ごしてきたであろう人たちが他人事のようにそれらを聞いているのも辛かった。

2年生の10月頃、片道1時間半、乗り継ぎが悪いと雨晒しの元で1時間乗り換えのバスを待ち行きたくもない大学に通学する意味が分からなくなり、大学を辞めようと決意。しかし親に言っても聞き入れてもらえず。今なら納入した後期分の授業料は返って来るし、大学を辞めたらもう一切親を頼ることはしないで家を出て行くと言ったけれど却下。

1年の終わりから塾と百均を掛け持ちし、長期休暇には20連勤なんてざら。長期休暇でなくとも、学校が終わったら即バイトで、週1休みくらいでバイトをしていました。家に居たくなかったからバイトを正当な理由として使っていたというのもある。面倒だけど、お金は入って来るし家に居なくて済むし、私にはそれしか選択肢が思いつかなかった。




【大学3年生】

教員にならないのならと資格試験に励む夏休み。無事、秘書検定2級を取得。

そして最大の難関、教育実習。本当は小学校と中学校の両方を行かなくてはならなかったけれど、私は小学校は無理だと思い、大学に相談し学年で私だけ小学校実習へは行きませんでした。中学校実習は前日の夜から学校へ行くことが怖くて準備すらできず、でも「何で早く準備をして寝ないんだ」と親に怒られ、泣く泣く身体を動かし準備をしました。初日を何とか終えられたらそこからはカウントダウンをしながら4週間。最終日まで乗り切りました。

一緒に中学校実習へ行った中の男の子の彼女が、適応障害と診断され中学校実習を辞めたと聞き、私の実習先はそれなりに環境の良い学校だったので私のポジションを譲ってあげたかった。どうして私は適応障害にもならず学校に通えてしまっているのだろう、実習できてしまっているのだろうと思っていた。

最終日、クラスの子クラス外の子からも、個々に「みんなに内緒だよ」と言いながらミサンガやお手紙といったプレゼントを個人的に受け取りました。不登校学級にも行く機会があり、初回で何故か気に入られたらしく、何度も呼ばれ一緒にバスケをしたりしました。授業なんてほとんどやらない学級なのに、私が数学担当だと聞いてわざわざいつもは空っぽの通学カバンに数学のワークを入れて登校して来て教えてくれと頼まれたことがありました。「生徒が誰かに自発的に働きかけることなんて滅多に無い。笑顔も増えた。ありがとう」とスクールカウンセラーの方に言われ、何とも言い難い気持ちになりました。最終日、閉ざされているはずの教室のドアを開けて私を待っていてくれたのは、相当勇気の要ることだったと思うのに。ありがとう。

という美談のような実習を平日はこなし塾のバイトもし、土日は秘書検定準1級の講座の為に大学へ通っていました。実習最終日の翌日が秘書検定の試験日。就職課には両立は難しいからやめておけと言われたけれど、無事合格しました。

3年生も相変わらず出席日数をメモしながらギリギリで単位回収。バイト漬けも変わらず。終わり頃からまたバイトを増やし3つを掛け持ちする生活へ。

乗り物酔いなのか、大学への嫌悪感からか、登校時の乗り換えの時によく吐いていた。




【大学4年生】

ストレートに小学校実習も中学校実習もこなしてきた人は週1、2回の通学で良かったけれど、私は小学校実習に行かなかった分、単位を余分に取らなくてはならなくて週3で大学に通いました。教員にならないのにどうして教員になる人より多く授業を受けなければならないのだと思いながら、問題無く単位を回収。

就活は教育実習に行ったことがウケたのか、6社中5社から内定をもらい、ぬるっと終えました。就活を盛んにしていた5、6月は、自分の将来を自分で選択し地に足をつけて生きている心地がしてとても良かった。

3つのバイトを掛け持ちしながら大学へ通い、毎日のように必要に駆られて外出する生活。そんな中、8月末頃から、高校の時の後輩の女の子と会う機会が増えました。きっかけになったはじめの時から月に1、2回。私を慕ってくれる人がいることがとても嬉しかった。出来損ないで何も与えられないのに先輩先輩と呼んでくれることがとても嬉しかった。小中高大でも得られなかった自己有用感が少し満たされた気がした。いつも私にありがとうと言ってくれる後輩ちゃんだけど、私の方がめちゃくちゃに支えられているんだって、いつか言わなくちゃ。

そして今日、最後のテストを終えて、大学4年間を終了しました。




家に居たく無さにバイト漬けになって、行きたくもない大学に通った4年間。

私はこれを清算する為に、無かったことにする為に、入学金と授業料を親に全額返すつもりでいます。約500万。既に100万は手元に貯金としてあるので卒業時に渡そうかと考えています。

今、弟が大学入試に奮闘しています。私はずっと「親に何と言われようと行きたい大学に行け」「やりたいことを見つけろ」と高校3年間言い続けてきました。良く聞こえるかもしれないけれど、私はこの行為を振り返って、自分がアイドルになれなかったから子どもに自分の夢を押し付けている親のようで、気持ち悪く感じました。やりたいことが見つからず、行きたい大学に行けなかった自分のしがらみの清算を弟でしようとしていた事実に辟易した。




4月からは家を出ることができる。ようやく私が私の人生を選んで歩いていける。すきな時にすきな物を食べて、すきな時にすきなことをして、すきな時にすきな所へ行って。何の制約もない生活への渇望。あと2ヶ月、意地でも生きる。