戦略の4つの原則
ブローディ氏が戦略の科学的研究の重要性を主張してから、70年以上の時間が過ぎました。はたして、戦略は進歩したのでしょうか。専門家の見解は、残念ながら、否定的なようです。ウォルト氏は、上記の書評エッセーをこう締めくくっています。「『戦略の科学』に向かう進歩は、せいぜい、ゆっくりした不確実なものであり続けるだろう」(前掲論文、165ページ)。
戦略研究で有名なリチャード・ベッツ氏(コロンビア大学)も悲観的です。かれは「戦略は常に幻想というわけではないが、しばしばそうである…政治家や将軍たちが見つけなければならない戦略についての解は、自信とニヒリズムの間のグレーゾーンにある」と結論づけています。ただし、かれは戦略を優れたものにするヒントを何点か指摘しており、これらは傾聴に値すると思います。
第1に、政治的結果を生み出す軍事的原因を見つけることの大きな障壁を考えれば、その便益とコストのバランスに差がほぼないケースでは、めったなことがなければ、武力に頼ることは慎むべきだということです。第2に、戦略はシンプルにすべきです。複雑な戦略は失敗への道です。第3に、文民の政策立案者は軍事作戦への理解が必要です。戦術、兵站、作戦ドクトリンの知識がなければ、シビリアンは責任を全うできません。第4に、戦略目標は、できる限り物質的な利益に絞るべきです。信ぴょう性や名誉が国家の存亡を脅かすことは、滅多にありません。
そしてベッツ氏は次のような戒めを記しています("Is Strategy an Illusion?" International Security, Vol. 25, No. 2, Fall 2000, pp. 46-50)。
「戦略は選ばれた手段が目的に対して不十分であることが判明した時に失敗する。このことは間違った手段を選んでしまったためか、目的があまりに野心的であるか、あいまいであるために生じる。戦略は、手段のメニューを拡大するのと同じ程度に目的の範囲を限定することを平時の計画において考慮するならば、より多くの場合において救うことができる」。
戦略を成功させることは、国家の存亡にかかわります。残念ながら、「戦略科学」への道のりは険しそうですが、理論的・経験的な研究を積み重ねることでしか、戦略の普遍的なパターンを明らかにすることはできないでしょう。
戦略研究におけるサイエンスとアート
こうした戦略研究へのアプローチは、もちろん、そのアートの側面を無視することではありません。ブローディ氏は、論文「科学としての戦略」を発表した約10年後、海軍大学で「アート(術)とサイエンス(科学)としての戦略」という興味深い講演を行っています("Strategy As An Art and A Science," Naval War College Review, Vol. 12, No.2, February 1959)。ここで、かれは2点の注目すべき指摘をしています。1点目は、科学としての戦略の後進性についてです。
「クラウゼヴィッツが戦略の分野を先取りしていたのは、アダム・スミスが経済学の分野を先取りしていた以上のものではなかった。けれども、かれら以降の数世代において、これらのそれぞれの分野で何が起こったのか。後者の例(経済学)では、理論と知識が途方もなく成長してきたし、今でも力強く成長している。前者の例(戦略)では、ほんの少しの成長か発展があるだけだ」(前掲論文、12ページ)。
約60年前のブローディ氏の嘆きは、約35年前のウォルト氏そして約20年前のベッツ氏の悲観論と重なります。
2点目は、戦略におけるアートの側面に関するものです。「科学的方法は代替肢を探究することにおいて有用であり使われているが、まさに最終的な選択においては、そうではない。後者は究極的にはよい判断に委ねられているのであり、それはいうなれば特定の教化で育ってきた人物や集団の情報に基づく直感に頼っている。かれらの仕事へのアプローチは根本において、アーティストのものであって、科学者のものではない」(前掲論文、18ページ)。
要するに、戦略の最終判断はあくまでも生身の人間がくだし、科学はそれを手助けする大切な役割を果たすということでしょう。メジャーリーグで大谷翔平選手は、二刀流のプレーヤーとして大活躍しています。打つのも投げるのも大谷選手です。見逃せないのは、かれの活躍は科学的なデータと方法に裏打ちされた練習と実践が支えたことです。野球から戦略の教訓を得るというと、奇異に感じる人も少なくないでしょうが、わたしは日本人メジャーリーガー第1号の村上雅則氏の以下の発言は、示唆に富んでいると思います。
「私たちの頃は、何が正解かわからないことも多く、“根性”や“勘”に頼ることも少なくなかった。比べて今はデータが細かく揃っていて、予め“答え”が見えていることも。後はそこに向かって、どれだけ努力ができるかが問われるのでしょう。大谷選手はそんな時代の申し子。最新の手法を取り入れ、高みに立つための努力を惜しまなかったからこそ、今があるのだと思います」。
戦略が人間の営為であることは不変でしょう。同時に、科学は万能ではありません。システム分析の数学的道具は、冷戦期におけるアメリカの安全保障戦略の形成において、使い物にならなかったと批判されています。戦略への経済学的アプローチは、1960年代中頃には、ブローディ氏が不安を感じる程に知的な袋小路に入り込んでしまいました。戦略を完全な科学にする探究は無謀な試みなのでしょう。方法論に導かれる純粋な理論志向の学術では、政策的有用性において、行き詰まってしまいそうです。
戦略と実践
ここで問われるべきは、「戦略の科学」が国家の指導者に目指すべきゴールとそこにたどり着く方法を示せるかどうかです。そのために求められる1つの有力なアプローチは、アレキサンダー・ジョージ氏が擁護した「条件付き一般化(conditional generalizations)」、すなわち変数間の蓋然性を解明するというより、戦略の成功や失敗を生み出す特定のパターンを明らかにする努力ではないでしょうか(Paul C. Avey and Michael C. Desch, "The Bumpy Road to a 'Science' of Nuclear Strategy," in Daniel Maliniak, Susan Peterson, Ryan Powers, and Michael J. Tierney, eds., Bridging the Theory-Practice Divide in International Relations, Georgetown University Press, 2020, pp. 205-224)。
ここでは抑止や強制外交、危機管理といった戦略の成否は、それが実施される状況のみならず、それぞれの対象国の指導者に与えられたさまざまな要因(ストレス、リスク計算、時間の制約など)に左右されることが強調されています。人間事象に深く根差した戦略は、非人間的で機械的な「科学」では理解できないと感じる人は、歴史の事例から政策に関連づけられた中範囲の理論を構築したジョージ氏の著作を一度、読んでみてください(ジョージ氏の研究の概要は、次のペーパーが要領よくまとめています。Jack S. Levy, "Deterrence and Coercive Diplomacy: The Contributions of Alexander George," Political Psychology, Vol. 29, No. 4, August 2008。ジョージ氏が仲間と編んだ『軍事力と現代外交』(有斐閣、1997年)は、政治学と歴史学のハイブリッドであり、強制外交や危機管理の成否を分けそうな条件を明示していますので、おススメです。
戦略への科学的アプローチを忌避する姿勢は、われわれの戦争への理解を貧弱なものにしてしまいます。たとえば、ロシアがウクライナ危機において国境付近に大兵力を集結させたのは、モスクワが強制外交すなわち同国のNATO非加盟を武力の示威で要求しようとしたものと理解できます。そしてロシアと米欧そしてウクライナは危機管理に失敗した結果、戦争に突入したのです。トランプ政権がイランの核施設を空爆する前に「最後通牒」を発出した一連のプロセスも、やはり強制外交でしょう。こうした戦略の「常識」は残念なことに、わが国の論壇や世論では、ほとんど共有されていないようです。そのため、これらの重要な出来事への大半の日本人の理解は表面的なものになっています。民主主義国の命運は、市民の合理的判断に依拠した健全な民意に左右されるとすれば、わが国における「戦略科学」の欠如は、由々しきことと言わなければなりません。