「戦略論の名著を挙げよ」と問われたら、みなさんは何にしますか。
おそらく、ほとんどすべての人は、クラウゼヴィッツ『戦争論』がそうだと答えるでしょう。確かに、『戦争論』は戦略研究の不朽の古典です。ただし、この著作は、戦略をアート(術)と科学から構成されるものととらえています。『戦争論』から学ぶところは、いうまでもなく多いのですが、戦略を「科学」の視点で一般化する観点からすると、もやもやとしたものが残ります。
他方、戦略の成否について、社会科学の組織論を用いて、日本軍の事例から帰納的に明らかにした高著が、『失敗の本質』(中央公論新社〔中公文庫〕、1991年〔初版1984年〕)です。これは、組織の失敗を避ける教訓を得られる知見に富んだ書物として、外交・安全保障関係者のみならず、ビジネスパーソンにも、広く読まれているようです。
政治学の軍事戦略研究
同じ年に、アメリカでは「戦略」を演繹的な理論を構築して分析した研究書が出版されました。バリー・ポーゼン『軍事ドクトリンの源泉―戦間期のフランス・イギリス、ドイツ―』(コーネル大学出版局、1984年)です。同書において、著者のポーゼン氏(マサチューセッツ工科大学)は、バランス・オブ・パワー理論と組織理論の双方から、第二次世界大戦に突入するフランス、イギリス、ドイツの大戦略や軍事ドクトリンの形成を明らかにしています。同書は、軍事ドクトリンを扱ったものであるにもかかわらず、「政治学」の書籍に分類されています。アメリカにおける政治学の奥深さが伺われます。同書は非常に高く評価されており、「1985年度ウッドロー・ウィルソン財団ブック・アワード」ならびに「1985年エドガー・ファーニス国家安全保障ブック・アワード」を受賞しています。
本書でポーゼン氏は、軍事ドクトリンがどのように構築されるのか、それが大戦略において、どのような役割を果たすのかを探求しています。同書は、戦略を成功や失敗という基準では明示的に扱っていませんが、行間からは、戦間期におけるフランス、イギリス、ドイツの大戦略における軍事ドクトリンを規範的に評価しているように読めました。すなわち、フランスの事例は失敗、イギリスの事例は成功、ドイツの事例は成否の中間といった判断です。おそらく、かれの情熱を同書の執筆に向かわせたのは、何が戦略の成否を分けるのかを明らかにしたいとの探求心ではないでしょうか(これは私見に過ぎませんが)。
大戦略と軍事ドクトリン
ポーゼン氏は、「大戦略は政治と軍事、手段と目的の連鎖であり、国家にとって最善の安全保障をもたらす『源泉(sources)』についての国家理論である」といっています(上記書、13ページ)。こうした大戦略の定義から分かるように、かれは大戦略を理論的に捉えています。同書のタイトルにある「軍事ドクトリン」は、「軍事的手段を明示的に扱う大戦略の附属物」と定義されます(上記書、13ページ)。国家にとって「大戦略」は安全保障の上位概念であり、「軍事ドクトリン」は、その下位概念です。
そして、大戦略を成功させるために必要なのは、「現状維持国にとって、侵略国が攻撃してくることを思いとどまらせる目的と手段をつなぐこと」です。このことは具体的には、政治と軍事の統合を意味します。すなわち、国家の安全保障は、そのために欠くことのできない政治的目的を達成するのに必要な軍事的道具を政治家がうまく扱えるかどうかにかかっている、ということです(上記書、25ページ)。
軍事変革を促す外部の脅威と文民の介入
国家の軍事ドクトリンは、組織理論と国際システム理論から説明されます。組織理論は、軍事組織(軍隊)が攻撃を志向し、組織防衛の観点から外部の干渉を嫌い、イノベーションに抵抗することを説明するものです。軍事組織が攻撃を好むのには、いくつか理由があるのですが、その独立性を保つために、守勢に立たされることを忌避することがあります。受けた攻撃に対抗する手段を即興で講じるのは、「巨大官僚組織」である軍隊が苦手とするところなのです。したがって、近代的な軍事組織は攻撃的ドクトリンを選好します。また、軍事組織は、その標準作業手続き(SOP)に変更を促す政治の介入を防ごうとします。軍事組織は保守的なのです。同様に、軍事組織が軍事ドクトリンを革新的に変えることは、既存の作戦行動に不確実性を加味するものなので、これに抵抗しがちです。したがって、政治と軍事を統合する軍事ドクトリンを形成するには、文民の軍事に対する介入が必要不可欠ということになります(上記書、第2章)。
バランス・オブ・パワーは、国家の軍事ドクトリンに影響を与えます。一般的には、国際情勢が平穏な時には、政治家も軍人も組織の論理に従います。すなわち、軍事ドクトリンは既存のものが継続されるということです。他方、国家への脅威が高まると、文民はバランス・オブ・パワーの観点から、軍事組織に注意を向けて介入を試みるようになります。
第1に、政治家は「内的バランシング」として、資源を軍事に集中投下しようとします。また、文民の指導者は、「外的バランシング」として、同盟を組める国家を外部に求めようとします。このことは、時として、同盟国に脅威となる台頭国に抵抗することの責任を転嫁する「バック・パッシング」行動を導きます。概して、現状維持国の政治指導者は、こうした防衛的な軍事ドクトリンを選好します。第2に、政治家は国家の安全保障に必要な介入を軍事組織に行います。また、軍隊も組織の自律性を損なうことになっても、外的脅威への恐怖から、文民が軍事に関与することを容認しがちです。こうして国家の軍事ドクトリンは、政治と軍事が統合され、作戦行動のイノベーションが生まれやすくなるのです(上記書、第2・5章)。
事例研究:フランス・イギリス・ドイツ
ポーゼン氏は、これらの主要命題を主に1940年前後のフランス、イギリス、ドイツの軍事行動の事例により検証しています。第二次世界大戦の緒戦において、ドイツは初期的な「電撃戦(Blitzkrieg)」により、フランスを撃破しました。他方、イギリスは防空システムを強化することにより、ドイツからの航空攻撃に耐えることができました。こうした結果は、各国の戦力を比較しただけでは説明できません。当時、どの大国も他国を圧倒する武力を保持していなかったからです。したがって、戦争の結果は、兵力バランス以外の要因に求めなければなりません。ドイツがフランスを破ったのは、電撃戦という斬新な軍事ドクトリンに起因します。ドイツは陸軍と空軍が協力して、機動的な作戦行動をとりました。
・ドイツの電撃戦とフランスのマジノ線
こうした軍事ドクトリンの形成には、文民政治家であるヒトラーが大きな役割を果たしました(ただし、ヒトラーにより機会主義的な拡張主義行動は、最終的に、ドイツの大戦略を破たんさせることになります)。他方、フランスは、有名な「マジノ線」を構築して、ドイツの攻撃を防ごうとしました。また、フランスはイギリスの助けを借りて、ベルギーでのドイツとの戦闘を少ない犠牲で主導しようとしました。
しかしながら、フランスもイギリスもドイツの侵略を防ぐという「公共財」にただ乗りしようとしました。イギリスは大規模な遠征軍を組織せず、ヨーロッパ大陸への軍事介入は限定的でした。にもかかわらず、フランスはイギリスの軍事支援を頼りにしていたのです。要するに、両国は、互いに「責任転嫁」しようとしたのです。さらには、ベルギーが中立の立場政策をとってしまったので、フランスはベルギーとの有事の軍事協力態勢も構築できませんでした。こうしてフランスはドイツの機動的な軍事攻勢の前に敗れました(上記書、第3・4章)。
・イギリスの防空体制
イギリスは、ドイツ空軍からの本土空爆に耐え忍びました。このことはイギリスが防空体制を構築できたことによります。イギリス空軍は、1930年代において、敵国に対する攻撃的な戦略爆撃を重視していました。しかしながら、ヨーロッパ大陸におけるドイツの脅威が高まるに従い、イギリスの文民政治家は、空軍に軍事ドクトリンの変更を迫りました。すなわち、イギリスは、ドイツからの爆撃機や戦闘機の襲来を探知するレーダーの開発と配備、これらの空軍機を迎え撃つ戦闘機の拡充を実行したのです(上記書、第3・5章)。
なお、イギリス空軍がいつからどの程度、防空を意識して、そのシステムを構築していたのかについては、上記のポーゼン氏の見解に異論がだされています。ジョン・フェリス氏(カルガリー大学)は、第一次世界大戦の経験から、イギリス空軍が指揮統制コミュニケーションとインテリジェンスの洗練された防空システムを構築してきたと指摘しています(John R. Ferris, "Fighter Defense Before Fighter Command: The Evolution of Strategic Air Defense in Great Britain, 1917-1934," Journal of Military History, Vol. 63, No. 4, October 1999, pp. 845-884)。レーダーや戦闘機といった新しい軍事テクノロジーは、こうした既存の効果的な防空システムにうまく収まったということです(Christipher Layne, "Security Studies and the Use of History: Neville Chamberlain's Grand Strategy Revisted," Security Studies, Vo. 17, No. 3, July-September 2008, p. 417)。ドイツがイギリスへの上陸作戦を遂行するには、同国の空軍力を無力しなくてはなりません。しかしながら、イギリス空軍がドイツ空軍の攻撃を成功裏に防御したことにより、ドイツはイギリス侵攻への時機を失してしまいました。
軍事イノベーションを可能にする文民と地政学
こうした事例研究は、大戦略と軍事ドクトリンの理論構築に深い示唆を与えます。一般的に、軍隊に根づいている組織的要因は統合された大戦略の構築を妨げます。陸・海・空軍は、それそれ自らの役割を最大限発揮しようとするがゆえに、大戦略において、自分たちの優先順位が他の軍種の下位になることを嫌がるからです。これでは大戦略において、有限の軍事資源に優先順位をつける軍事ドクトリンは策定できません。また、軍事組織はイノベーションを忌避しがちです。こうした組織の保守主義は、バランス・オブ・パワーを保つための軍事ドクトリンの形成を妨げます。文民による軍事組織への介入だけが、統合された大戦略の形成ならびに軍事ドクトリンのイノベーションを可能にするということです。
フランスの事例では、ドイツの脅威が増大するにつれて、政治家は軍事組織に介入して、防衛的な軍事ドクトリンを採用して実行しました。ただし、フランスはマジノ線を構築したものの、その軍事ドクトリンは分裂しており、イノベーションにも乏しいものでした。この失敗は説明が難しいのですが、ポーゼン氏によれば、フランスは自国の弱さゆえに、政治家も外交官も同盟を求めることに忙殺されてしまい、軍事ドクトリンを吟味するエネルギーをそがれてしまったということです(上記書、234-235ページ)。つまり、フランスは「内的バランシング」でドイツに対抗できるだけの国力がなかったために、「外的バランシング」に頼らざるを得なかったのです。しかし、こうした戦略は、同盟に固有の「責任転嫁」により、失敗に終わりました。
これとは対照的なのがイギリスです。イギリスもフランスと同様に、政治家主導もとで防御的な軍事ドクトリンを採用しました。同時に、イギリスはドイツ空軍の攻撃を防御する革新的な軍事態勢に転換して、同国からの空爆に耐えて本土への侵攻を阻止する政治的目的に戦略を統合しました。こうしてイギリスは国家の安全を保ったのです。他方、ドイツの攻撃的な軍事ドクトリンは、バランス・オブ・パワー理論では十全に説明できません。
ドイツがヒトラーの主導により、統合的で革新的な電撃戦の軍事ドクトリンを形成したことは、システム要因が影響していると分析できます。ヴェルサイユ体制下におけるバランス・オブ・パワーの不利を軍事的パワーを強化することで解消することは、ドイツの政治指導者と軍事指導者が望むことでした。他方、ドイツが防衛的ではなく攻撃的な軍事ドクトリンをとったのは、ヒトラーの攻撃を好むパーソナリティーも影響していますが、ドイツが複数の敵国に囲まれている地政学的立ち位置というシステムレベルの要因が強く働いていると考えられます。ドイツは周辺国から一斉に攻め込まれた場合、その安全保障は危機に瀕しますので、敵国を迅速に個別撃破する軍事ドクトリンを強いられているということです。こうしたドイツの軍事態勢は、ビスマルクのプロイセン時代から、ウィルヘルムのドイツ、ナチス・ドイツまで共通しています。
バランス・オブ・パワー vs. 組織論—何が軍事イノベーションを可能にするのか—
ポーゼン氏は、フランス、イギリス、ドイツの比較事例研究から、軍事ドクトリンの理論について、以下のような結論に達しています。
「わたしの判断では、ドクトリンを研究するには、バランス・オブ・パワー理論が組織理論より、少しより強力なツールだということだ。広い意味で、組織理論は攻撃的で分裂された停滞的な軍事ドクトリンを予測する…しかし、これらの傾向は作戦事項に文民が介入することにより、強い影響力をもって緩和される。本書の事例研究は、文民の介入それ自体、そして、その性質がバランス・オブ・パワー理論で説明しうることを示している」(上記書、239ページ)。
『軍事ドクトリンの源泉』は、国家の大戦略ならびに軍事ドクトリンをシステム・レベルのバランス・オブ・パワー理論から説明する、秀逸な名著だとわたしは思います。戦略研究は、個人レベル(政治指導者や軍事指導者)や国内体制レベルの要因(軍事組織や政軍関係)に目が行きがちです。とらえどころのない可視化の難しいシステム要因が、軍事ドクトリンの形成に与える因果的影響を明らかしたことは、戦略研究を大きく前進させました。ポーゼン氏のこの著作が高く評価されるのは納得です。
ただし、バランス・オブ・パワー理論から演繹された軍事ドクトリンの諸命題が、どのくらいの外的妥当性をもつのかを見極めるには、さらなる研究が必要でしょう。たとえば、太平洋戦争の事例における日本の軍事ドクトリンは、バランス・オブ・パワー理論で説明できるでしょうか。ポーゼン氏が提出したロジックによれば、日本の文民政治家はアメリカの脅威が高まるにしたがい、軍事に介入して、国家安全保障と整合する大戦略ならびに軍事ドクトリンを構築すべきだったところです。しかしながら、陸軍と海軍は日米開戦の直前までバラバラであり、文民政治家の軍事組織に対する介入や影響力も限定的でした。「日本帝国」は、統合された革新的な大戦略や軍事ドクトリンを構築できなかったといってよいでしょう。1941年から1942年間だけみれば、日本の「軍事ドクトリン」は作戦レベルや戦術レベルでは成功だったと判断できるかもしれませんが、少なくとも、これは文民の政治家によるものではありません。
軍事ドクトリンのバランス・オブ・パワー理論がより広い外的妥当性と適用範囲条件を得るためには、こうした「逸脱事例」による検証を通じた修正が望まれるように思います。