浅草と吉原の風景
浅草雷門
吉原神社
浅草寺
飛鳥時代628年に隅田川で魚取りをしていた時網にかかった仏像があったこれが浅草寺本尊の聖観音である。観音像は高さ1寸8分(5.5cm)の金色の像と伝わるが、公開されていない秘仏のためその実体明らかでない。江戸時代徳川家光の援助によって、五重塔、本堂が再建されて徳川将軍家に重んじられて現在のような庶民の娯楽の場となった。明治時代になって移民の盛り場として発展し浅草寺はそのシンボル的存在となった。東京大空襲で旧国宝の本堂、五重塔が焼失して一時衰退したが、地元商店街のPR活動によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情諸を残す町として東京の代表的な観光地となっている。
仲見世通り
伝法院通り 伝法院通用門
伝法院通り : 江戸時代の老舗の店があるので是非見学して下さい
伝法院 : 江戸時代は浅草寺の周りは沢山のお寺がありまし。このお寺には江戸時代有
名な作庭家小堀遠州より築園
宝蔵門
宝蔵門 : 現在の宝蔵門は1964年に再建された鉄筋コンクリート造りで、その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収臓庫となっている。
本堂
本堂内部 本堂の上段から見た風景
五重塔
現在の五重塔は1973年に再建されたもので鉄筋コンクリート造で塔自体高さ約48mである。なお、再建以前の塔は東側にあって、その位置に「塔」と刻まれた標石が埋められている(写真手前の丸い石)。
二天門
1618年の建築で、東京大空襲で残った貴重な建築物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮の門として建てられた。この門を潜って馬道に出て吉原に行く、このバス亭から4つ目程度の距離にある。
吉原
吉原の地図
1657年の明暦の大火で日本橋の吉原遊郭(元吉原)が焼失後、現在の台東区千束に移された遊郭である(新吉原)。江戸時代は出入口は山谷堀沿いの日本提のみで、遊郭は周囲は歯黒講で囲まれていて外界と隔離されたいた。明治時代になっても遊女は相変わらず「籠の鳥」であった。戦後はGHQの指令により公娼廃止となり特殊飲食店街、いわいる赤線となった。1958年の売春防止法の施行により赤線は廃止され、吉原は文字通り火の消えたような町となった。店は連れ込み宿屋、ソーポランドなどに転業していった。ソープランドは1966年の風俗法改正で個室つき特殊浴場となった。1984年に「風俗営業取締法」改正されソープランド、ファッションヘルス、ラブホテルなど事実営業が不可能になたが、吉原は事情などを考慮し、「特別地域」として、現行の建築物する限り営業が続行できる。
大正時代の吉原
現在の吉原メイン通り
日本提(吉原提)
現在の土手通りに平行して山谷堀があり、堀と通りの間が土手になっていたが、現在では取り壊されている。
見返り柳
街道から吉原遊郭に入る道の入り口に、遊び帰りの客が後髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという柳の遺跡がバス停大門の近くガソリンスタンドの前に残っていますが、柳は小さく最近植え替えたらしい。
見返り柳がある場所に吉原遊郭に入る道があり、S字にまがっている(街道から直接遊郭が見えない様に配慮)。このS時に曲がった道を進むと遊郭の入り口大門に着く、ラーメン屋を右に折れ少し進むと三段の階段があるがそこが歯黒講あとである。S字に曲がった端の真っすぐな道が吉原遊郭のメイン通りである。昔の遊郭内は風俗営業店が多い。
見返り柳
大門跡
吉原遊郭入り口
吉原神社
メイン通りを進むと右手に吉原神社がある、この神社は1872年新吉原四隅の祀られた稲荷を合祀し、吉原遊郭の鎮守として創設された神社である。
吉原神社
弁天池
吉原神社の左手に弁天池跡があり、観音さまと弁天様がまつてある。元来湿地帯であった当地に新吉原が造成されにあたって、沼沢を南部に寄せ池を形成した。湖畔に弁天様が祀られ信仰を集め弁天池などと呼ばれた。遊女逃亡防止としても機能したが、関東大震災に伴う火災で逃げ遅れた遊女らが、弁天池に飛び込んで490名の犠牲者を出した悲劇に見舞われた。戦後、電電公社電話局建設にあたりそのほとんどが埋め立てられたが、現在でも関東大震災の犠牲者を悼む観音像が祀ってある。
観音像
弁天堂 富士山と小さな池
樋口一葉記念館
吉原神社の近くに現在5000円札の肖像樋口一葉の記念館がある。今回は吉原の弁天様
を見学すれだけで、日暮れが早く行けなっかたのが残念でしたが、紹介のみしておく。
樋口一葉は、本郷に長らく住んでいたが、生活苦打開のため一年程度吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町で荒物屋と駄菓子を売る雑貨店を開いたがうまくいかず、本郷に戻った。この時の経験から代表的な小説「たけくらべ」が生まれた。
樋口一葉記念館
沢山色々な物をみて、歩きましたが楽しい一日でした。
浅草寺のある場所
吉原のある場所
浅草寺のビデオがYouTubeにUPしてあるのでご覧ください。