新訳五輪書 -2ページ目

兵法の道、大工にたとへたる事

大将は大工の統領として、天下のかねをわきまへ、其国のかねを糺し、其家のかねを知る事、統領の道也。
《大将は大工の統領として世の中の尺度を知り、その国の尺度を正し、その家の尺度を知ることだ。これが統領のなすべき道なのである。》


大工の統領は堂塔伽藍のすみがねを覚え、宮殿楼閣のさしづを知り、人々をつかひ、家々を取立つる事、大工の統領も武家の統領も同じ事也。
《大工の統領は堂塔伽藍の尺度を覚え、宮殿楼閣の図面を知り、人々を使って家をたてるのだが、大工の統領も武家の統領も同じことなのだ。》


家を立つるに木くばりをする事、直にして節もなく、見つきのよきをおもての柱とし、少しふしありとも、直につよきをうらの柱とし、たとひ少しよわくとも、ふしなき木のみざまよきをば、敷居・鴨居・戸障子と、それぞれにつかひ、ふりありとも、ゆがみたりとも、つよき木をば、其家のつよみつよみを見わけて、よく吟味してつかふにおいては、其家久敷くづれがたし。
《家をたてるには「木くばり(気配りとのかけ言葉?)」をする。まっすぐで節がなく見映えのいいものを表の柱にして、少し節はあってもまっすぐで強い材木を裏の柱とする。たとえ少々弱くても、節がなく見た目のよい木を敷居や鴨居、戸障子とそれぞれに使って、節や歪みがあっても強い材木を、その家の強度をみわけて、よく吟味して使えば、その家は長い間しっかりと建っているだろう。》


又材木のうちにしても、ふしおほく、ゆがみてよわきをば、あししろともなし、後には薪ともなすべき也。
《また、材木の中でも、節が多くて歪みもあり弱いものは足場にでもして、使い終わったら薪にでもするとよい。》


統領において大工をつかふ事、その上中下を知り、或はとこまはり、或は戸障子、或は敷居・鴨居・天井已下、それぞれにつかひて、あしきにはねだをはらせ、猶悪しきにはくさびをけづらせ、人をみわけてつかへば、其はか行きて、手際よきもの也。
《統領が人を使うときには、その上中下を知って、或はとこまわり、或は敷居・鴨居・天井といったようにそれぞれに使い、仕事ができない者には根太を張らせて、もっと仕事が出来ない者にはくさびを削らせるなどというように、人を見分けて使えば、仕事がはかどって手際よくいくものだ。》


果敢の行き、手ぎはよきといふ所、物毎をゆるさざる事、たいゆう知る事、気の上中下を知る事、いさみを付くるといふ事、むたいを知るといふ事、かやうの事ども、統領の心持に有る事也。
《仕事の能率がよく、手際がよいということ、何事も気を弛めないこと、大切なところを知ること、気力の上中下を見極めること、勢いをつけるということ、無理を心得るということ。これらのことが統領の心がけるべきことなのである。》


兵法の利かくのごとし。
《兵法の道理もこのようなものである。》





一対一の戦いというよりも集団戦術の考え方のようです。
適材適所とはよくいいますが、キレイに例えていますね。


集団戦術についての記述ではありますが、徒手における個人戦術に応用のきく考え方ではあります。

足に手の役割はさせられないし、逆に手に足の役割をさせることも出来ません。


それぞれ手足や左右の特性を心得て合理的に使えるようにすべきであると。


手技一つについても間合いや体のサイズ、その他様々な条件によっての使い分けが必要となります。

貫手か肘か正拳かといったように。


組着かれそうになった時の対処についても、体捌きが適切な場面か、組技の技術が是か、それとも殴ったほうがはやいのか、よくよく吟味あるべしですね。


その場その場に応じて最良の矛あるいは盾を用意すべし、ということでしょうか。


使い様を極めれば矛盾が矛盾でなくなる。


そうなりたいものです。

兵法の道といふこと(2)

凡そ人の世を渡る事、士農工商とて四つの道也。
《およそ人が社会生活をおくっていくのには士農工商といって四つの道がある。》


一つには農の道。
《一つは農の道。》


農人はいろいろの農具をまうけ、四季転変の心得いとまなくして、春秋を送る事、是農の道也。
《農業を営むものは様々な道具を用意して四季の移り変わりに心忙しく日々を送る。これが農の道である。》


二つにはあきなひの道。
《二つには商の道。》


酒を作るものは、それぞれ道具をもとめ、其善悪の利を得て、とせいをおくる。
《酒を作る者はそれぞれの道具をもとめて、その良し悪しによって利益を得て世を渡る。》


いづれもあきなひの道、其身其身をかせぎ其利をもつて世をわたる也。
《商の道はどのようなものでもその身その身にあったかせぎをして、その利益をもって世を渡るのだ。》


是商の道。
《これが商の道である。》


三つには士の道。
《三つには士の道。》


武士においては、道さまざまの兵具をこしらへ、兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ。
《武士はその手段に応じた様々な武具を作り、武具それぞれの利点をしることが大切だ。それが武士の道であるのだ。》


兵具をもたしなまず、其具其具の利を覚えざる事、武家は少々たしなみのあさき物か。
《武具ですら用意できず、その武具その武具それぞれの利点もわからないなどというのは、武家の者としては少々意識が低いのではないか。》


四つには工の道。
《四つには工の道。》


大工の道においては、種々様々の道具をたくみこしらへ、其具々々を能くつかひ覚へ、すみがねをもつてそのさしづをただし、いとまもなくそのわざをして世を渡る。
《大工であれば様々な道具を用意し作り、その道具その道具を使いこなせるようにし、ものさしを使って寸法を正しくして、忙しくその技を使って世を渡る。》


是士農工商、四つの道也。
《これが士農工商、四つの道である。》


兵法を大工の道にたとへていひあらわす也。
《兵法を大工の道に例えていいあらわすのだ。》


大工にたとゆる事、家といふ事につけての儀也。
《大工に例えるのは、「家」ということからだ。》


公家・武家・四家、其家のやぶれ、家のつづくといふ事、其流・其風・其家などといへば、家といふより、大工の道にたとへたり。
《公家・武家・四家、その家が没落したり、続いたりという事、~流、~風、~家などというので、家ということから、大工の道に例えた。》


大工は大きにたくむと書くなれば、兵法の道、おおきなるたくみによつて、大工にいひなぞらへて書顕はす也。
《大工という字は「大きにたくむ」と書くので、兵法の道も大いなるたくみであることから、大工にいいなぞらえて、書き顕すのだ。》


兵の法をまなばんとおもはば、この書を思案して、師は針、弟子は糸となつて、たえず稽古有るべき事也。
《武の道を学ぼうと思うのならば、この書に書いてあることをよく考えて、師匠は針となり弟子は糸となって、たえず稽古を続けなくてはならない。》





士農工商四つの道それぞれについての記述をしています。
前の方でも書きましたが、どの道にも共通するものがある。だからいろいろなことを知るべきだ。出来ることなら何でもやってみるべきだと思います。


剣術のみでは剣術ひとつですら極めることはできない。専門バカになってしまってはいけない。その戒めに通ずるものを感じます。


大工の道を士の道に例えるのと同様に士の道を商売の道に例えることも出来るでしょう。このような思考の仕方が大事なのだと思います。


他のことからも学ぶ姿勢が大切とはいっても専門バカになってしまっていてはそのチャンスすらありません。だからこそ他のこともしてみることが大切なのです。


自分自身についても例えば、テコンドーの技術で数年前にきいたものが、今になって古武術の技術と融合した応用が思いついたり、相撲の技術の空手への応用だとか、八極拳と空手の基本動作の融合・組手への応用だとか、いろいろあります。


アンテナは高くするにこしたことはないと考えます。


最後の「師は針、弟子は糸となつて」のくだりについてですが、針だけでも糸だけでも裁縫はできない、ということでしょうか。


練習相手がいて、その場があるというのは幸せなことであると肝に銘じるべきでしょう。


特に常設の道場があったりすると、ついつい当たり前のことになってしまい感謝の気持ちを忘れがちなので注意が必要でしょう。

兵法の道といふ事(1)

漢土・和朝までも、此道をおこなふ者を、兵法の達者といひ伝へたり。
《中国でも日本でも、この道を行う者が武芸の達人と言われてきた。》


武士として此法を学ばずといふ事あるべからず。
《武士として、これを学ばないということがあってはいけない。》


近代、兵法者といひて世を渡るもの、是は剣術一通の事也。
《近頃「武芸者」といって世の中を渡る者があるが、これは剣術が一通りできるというだけのことである。》


常陸国鹿島・香取の社人共、明神の伝へとして流々をたてて、国々を廻り、人につたゆる事、ちかき此の義也。
《常陸国の鹿島・香取の神主達が神から伝えられたといって流派をたてたり、あちこちを回って人々に教えたりするのは最近のことだ。》


古しへより、十能・七芸と有るうちに利方といひて、芸にわたるといへども、利方と云出すより、剣術一通にかぎるべからず。
《古くから、十能・七芸という中でも実用的なものといって、武芸はそのうちの七芸の中に入るとはいうが、実用的というならば剣術だけでは駄目だ。》


剣術一ぺんの利までにては剣術もしりがたし。
《剣術一辺倒では剣術そのものだけですら極めることはできない。》


勿論、兵の法には叶ふべからず。
《勿論、それだけでは武芸を極めることなどはできるはずもない。》


世の中をみるに、諸芸をうり物にしたて、我身をうり物のやうに、諸道具につけても、うり物にこしらゆる心、花実の二つにして、花よりもみのすくなき所なり。
《世の中を見てみると諸芸を売り物にし、我が身を売り物のように仕立て、またその芸事に使う道具にいたるまで売り物にしてしまおうという精神は、花と実の二つに例えてみれば花よりも実が少ないということだ(見た目だけを飾って中身がともなっていない)。》


とりわき此兵法の道に、色をかざり、花をさかせて、術とてらひ、或は一道場、或は二道場などといひて、此道ををしへ、此道を習ひて、利を得んと思ふ事、誰かいふ、「なま兵法大疵のもと」、まことなるべし。
《特にこの武の道において、色を飾って、花を飾り、技だといって一道場、二道場なぞといい、武芸を金儲けの道具にしようとするものがいる。誰かが言った「生兵法はケガのもと」というのは本当のことだ。》




「武道家」なんて言葉がありますが、大抵の場合、実際にやっているのは空手だったり柔道であったり柔術であったりと一つのものです。剣道ですら居合、杖道をあわせてやっている人ですら稀です。


競技スポーツとしてならそれでもいいでしょう。しかし武道という限りは様々な状況で戦える準備をする必要があるでしょう。


また剣術のみでは剣術ひとつですら極めることはできないとありますが、他のことをやってみることによって何か得るものがあるということでしょう。なんでもやってみろということですね。


少しズレれますが、香取神道流とかいわゆる古流ができはじめたのもこの頃なのかもしれませんね。戦国時代が終わり、食いつめ浪人が神社やら天狗やらの名前をかりて流派を名乗り諸国を回って金儲けの道具にしていたということもあるでしょう。

明治時代にも柔術を見せ物にする人は少なからずいたようです。


「諸芸をうり物にしたて、我身をうり物のやうに、諸道具につけても、うり物にこしらゆる心」についても同感です。武術を金儲けの道具にするだけにとどまらず道具でも儲けようとすることのことですね。武術は商売にしてしまってはろくなことがないと思います。結果としてそれで生活できるようになるならばいいですが。