スタ-ト

2026年2月から新しいブログを始めました。

 

①真の自我とは

 

今の私は78才の爺さんです。まずは最近私が考えていることから書き始めて行こうと思っています。

そこまでどうやってたどり着いたのかは、おいおい説明するとして、今はとても「心が平安」なんです。もしこのまま人生を終えても悔いは残らないと感じているんです。

 

まずは結論みたいなものから。人は夫々に「自我」を持っています。そしてそれは夫々の人の中でそれぞれに育ち形成されて行きます。そして現在があるワケです。人は生まれたときは皆、神様の子供であり、その自我は神様に似た形であると私は思います。「周りの皆と仲良く、皆さんのために尽くしたい」そんな形だと私は思います。

ただ成長するにつれて「自我」は色んな形に変わって行きます。

親や周囲の人達に教えられ、時には強制され、また社会に入ると厳しい競争社会にさらされます。そこでもし傷ついたりしたら、極端な場合は「自分だけで良い」「周りは皆敵」「上手く立ち回らなけれなければ」などと「唯我・独尊・エゴ」になりがちなんです。

ある意味では周囲の圧力から自我が自分を守るための「鎧」になってしまうんですね。

私は78年生きてきて最近その皆さんの「鎧」の強さに今さらながら驚いています。そしてその他人への「攻撃性」の強さにも。それらが原因で社会は色んな混迷に満ち溢れているんですね。そしてそれはまた「自分自身」にも言えることなんです。

私も30代の前半にはこれじゃあイケない、「エゴ」を捨てようと決心したハズでした。しかしその後の生活の中で色んな局面に突き当たり動いているうちに、実社会の中でまたエゴの虜になってしまったようなんです。

「それは私が自分の価値観で他人を評価」する悪弊となって時には私の周りの人達との「不和」を引き起こしてもいるんですね。そにことも最近強く理解するようになっているんです。

 

これじゃあイケませんね。どうしたら良いのでしょうか。

そこで私はない知恵を絞って考えてみたんです。

 

人は皆目標を持って生きたいものだと思います。自分の人生で何かを成し遂げたい、そんな気持ちは誰にもあってそのための努力は惜しまない、そんなことではないでしょうか。

しかるになかなか上手く行かない。相手のあるいは世界の「鎧」の前にたじろぐ。そして対決して時には敗れる・・・不毛の世界、自分が弱ければ「心を病む」人まで出てきます。困ったことなんです。

それは自分の「目標」が人に勝つことにあるからではないでしょうか。

勝ことではなく、正しい「目標」を持つことが大切なのではないか、今の私はそう考えます。

なにが正しい目標なのか、それは皆さんが求める共通の願い、そうです「皆と仲良くして協力して何かを成したい」「私は自分の目標を持って自分らしく生きる」そんな願いならば人との勝ち負けなどではないハズなんです。そして目標は自分の中でさらに進化する、自分の損得ではなくて周囲の皆の損得、さらには世界のそして宇宙全体の損得!へ、損得のない世界へなんです。

皆さんそんなプロセス・進化の過程、にあるんではないでしょうか。そしてそのプロセスは人によってみな違っている。

そう考えると「ハッ」とするものがあります。無駄な戦いを避け、人を暖かく成長を見守る・・・みんな「兄弟・姉妹」なんです。

 

私は「真の自我」とはそんな自分のプロセスを理解し、自分の定めた「目標」に向かって「努力」することではないかと考えるに

至ったのです。それは人とではない、自分との戦いであると私は考えたのです。以降こんな趣旨で論を進めていきたいと思います。

 

作者の近影です。

 

 

②人は心に鎧をもつ、まずそのプロセスについて考えてみたいと思います。

 

・子供として生まれた頃  

 無垢だった時代ですね。周りの皆に笑顔ふりまき、愛されることを子供なりに望んでいると思われます。まだ芽生えない「自己」の生来の姿だと思われます。もしかしたら人は皆「神の子」なのかも知れません。この年になって初めて孫二人に恵まれ笑顔があふれている顔を見ていると、そんなことを思ったりしています。

 

・親による躾け・生活するため、家族の形式などの形作りの頃、・・・

親としては子供の将来が一番心配です。ちゃんと生きていけるか?立派に成長するか・などです。そしてその望むべき良いモデルがないと、親自身の形を押し付けがちになります。時にはそれは「強制」にもなります。躾けとか家風・家柄とか、子供に押し付けてしまうのです。生きて行く姿を親に決められてしまうんです。子供にとっては迷惑な話ですが、それがイヤでイヤで自由に なりたかったと考える人も出てきます。そこから悩みが始まった人達が結構多いんです。周りから与えられた「鎧」の初期段階なのかも知れません。

 

・幼年期のイジメなど

社会の入り口では「強い者」が現れてきます。そして「弱い者」をイジメたりします。もちろんどちらもまだ「弱い者同士」なのですが、わずかの差が優劣関係になってしまうんです。そこでイジメっ子に出会うと毎日の暮らしは悲惨ものになってしまいます。周りも注意しなければなりません。一方のイジメる側も人に気づかれないように警戒して隠そうとしてより陰湿なものになり、犠牲者はまた加害者も人生観まで心キズ「鎧」の世界になっているかも知れないのです。近頃の学校の先生達の「見て見ぬフリをする」態度も改めなければなりません。皆さんで子供達全部を見守ることが必要なんです。

 

・偏差値による輪切り

今は知識偏重の世の中です。知っているか知らないかが、勝者と敗者を分けてしまうのです。世間では偏差値・学力差による輪切りが横行しています。会社などの採用担当者はまず入社希望者の「偏差値」を見ています。中学、高校で得た知識の量がその人の将来まで決めてしまうのです。それがために一番大切な「  自分で考える力が育たない」という弊害が生まれています。人は知力が大切で学力が全てではありません。ただ「敗者」とされると悲惨なことになってしまいます、まずは「正社員」になれるか給料が安い「非正規社員」に甘んずるかなどの岐路に立たされるんです。人生の将来設計が大きく狂ってくるんです。それが心ならずも偏差値の敗者にされて「鎧」をまとって生きるかの、大きな原因になってもいるようなんです  

 

・社会人としての生活のなかで・利益優先社会、非正規社員、ブラック企業

現実社会では「利益」を確保することが至上命令です。会社では社員はそのために懸命に働かねばなりません。しかるに個々人には能力差があって、だれもがトップを走れるわけではなく、社員はそれによってランク付けされ組織化されて行きます。当然お給料なども差がつき、命令する人とされる人に分けられていきます。会社自体にも差があり大企業の親会社と下請けの子会社、中小企業とランク付けされています。また社員を非正規社員として使い捨てにするブラック企業なども中にはあります。

私も人生の大半を会社員として過ごしましたので、そんなことが良く分かります。私はそんな会社生活がイヤで出世を望まず平和に生きようと決心して、まあ中途半端な成功?でしたが、会社ではなく社員のためには働いたつもりです。ただ結婚して子供を育て、家を建て、自分の生活を守らなければならないのです。理想としては社員全員が平等でなければならないのですが、格差社会の現実はそうではありません。そして困ったことにはそこには不満やおごりが生まれ、当然ながら大多数の人は「エゴ」の鎧をまとってしまうのです。他人のことには構っていられない、自分の生活を「守ら」なければならないのです。

・周囲の人から圧力、自我のぶつかり合い・私は正しいの対立

そうです。生きている間は周囲からの圧力に耐え、自分を守らなければならないのです。そんな自我がぶつかり合う社会では大変な戦いになるのです。「勝つ」ためには相手を倒さねばならないです。それで良いのかと心の中で迷いながらも「鎧」を何重にも重ねエゴを強化して自分を守らねばならない、それが現実なんですね。

ただそこではお互いが譲り合わない混迷の世界になってしまうんです。これではイケませんね。

 

 

写真は神奈川の吾妻山です。

 

 

③真の自我を自分のなかに生み出していくための提言など

 

・皆さんそれぞれに対立し争って、困ったことになっています。

ですがもう昔には遡れないんです。子供時代にまで戻ってあるべき姿に戻す、精神分析とかいうそんな心理療法などもあります。

色んな研究も進んでその有効性は証明されています。でも「揺り戻し」が何度もあって中々前に進まない実態もあるようです。

私はこう考えます。それは現在を確認してこれからに備えるあくまで準備段階でしかない。これからどうするのかが一番大切な問題なんではないでしょうか。

 まずは人によって色んなプロセスで現在があることを「認識」することでしょうか。エゴとエゴがぶつかり合って人は傷つきあい、心にそれぞれの「鎧を」着て争い・不和しあう、そんなことを次の時代にもまた同じじことを繰り返さないことのためも大切なことだと思います。そのためには様々に問題の形は違っていても、それがために人を区別・差別しないことが一番大切です。みんな同じような世界で苦労して生きて来た同じ仲間なんです。もしそんな自分で困っている人、人間関係が上手く行かず孤独に陥ってしまっている人、自分の攻撃性の強さに疲れて人、思わず「カッ」となって納まりがつかなくなる人、あるいは心の病に苦しんでいる人にがいたら、どうしたら良いんでしょうか。ここで私は提案したいと思います。それは元に戻れるつまり回復可能なんです。

 

・決心して、新しい自分を作るしかないと最近の私は思うんです。

そこで私は考えたんです。お互いに過去を問わず、新しい自分を作るのが最良ではないかと。それぞれに違う人々の中の一員である自分としては新しく自分を作り上げ、ある意味で切り替えることが大切ではないかと。

・ではどう切り替えたらいいのか・・・

これからの人生に大切なのは「戦う」ことではなく、「人の輪・人の協力・真の友」ではないかと思います。皆さんの結集力、総合力なんです。それは皆さんも納得できることだと思います。

そのためには皆が同じ目標を持つことなんですね。「これからの世界のために、世のため・人のために皆で協力して努力する」ことを自分たちの共通の目標にすること、個々人の目標は人によってそれぞれに違っていても、が大切だと思います。それは誰でも可能であり、またそのためには自分自身のエゴを乗り超えることが必要なんです。

・自己のエゴを捨てなければいけない。

まずは「真我」本当の自分を取り戻して、自分をもっと大きくしなければなりません。それは生まれたときには皆さんは持っていたものなんです。自分の中にある磨けば光る「原石」それを生きるためのプロセスの中で痛めつけられて忘れてしまっているのです。このことに気づかねばなりません。ちょっと厳しいことで努力を要しますがそれは自分との「戦い」でもあります。

・次第に世界が広くなり、自分の鎧に閉じこもってはいけないことが分かってきます。

そういうことに気づくと、世界が広くなります。ちょうど高い山に登り下界を見れば眼下に広がる町並みや風景が見えて来るようにです。そして自分がその小さな世界で「我」を張り合っていたことが小さく見えてきます。視野が大きくなったことが自分でも分かってきます。自分が大きくなる、それは確かなことなんです。人と争うことをヤメる、人とは協力し助け合うものであって、区別したり評価したりするものではないのです。自分の波長大きくし同じ目的を持つ多くの人の波長と合わせる、私たちは共にオーケストラの一員なんです。そうですそうやって共に「人生の高み」を目指しましょう。

 

・きっと上手く行く

そんな境地には人は死ぬ前には必ず辿り着くものだと思います。つまりは生きていること周りへの「感謝」なんです。しかしそれでは遅すぎます。残された人生に命あるうちに、それに気づき自分を変えて行きましょう。私の言うことをにわかに納得できないかも知れません。ただ喜寿を過ぎて私がやっと気づいたことなんです。騙されたと思って皆でやってみましょう。前にも述べたように少しだけ「勇気」が必要かも知れませんが、そんなことに気づくとなぜか心が平安になって来るんです。

まだその渦中にある人には「何を言っているか。それどころじゃあないんだ」と思われるかも知れません。ただこれに気づくと現在の自分の生活にも変化があるかも知れません。それぞれに最後の目標なるものが見えてくると、現在の生活を見る目にも変化があるかも知れませんね。もしかしたら今の「若い人達」にはそんな変化がすでに起きているのなとも私には思えます。

とにかく皆さん勇気を出して「一緒にやってみましょう」「真の我」を持つのです。自分が変わるとアラ不思議、周りの人達も変わってくるんですね。もう勝つため守るための妙な策略などを巡らす必要がないのです。

 

これから私の考えるそんな「背景」などを順次書いて行きたいと思います。

 

 

写真は豊後竹田・岡城の復元写真です。

 

④神様は助けてくれるか?、自分自身の神様を信じよう

 

・残念ながら神様は私たち一人一人を助けてはくれないようです。

地球上に百数十憶人もいる人々の全員を助けるほど、沢山いる神様もお暇ではないようで。後世の言葉に「天は自ら助くる者を助くる」と言う言葉がありますが、それが事実であると思います。これはあくまで私論ですがお釈迦様もイエス・キリストも、そんな難しいことを言っておられるワケではなく「天上天下・唯我独尊」「汝の隣人を愛せよ」つまり自分を大切に周りの人々と共に生きよ、そのために皆努力せよ、と言っているだけだと思うんです。どうも以来二千数百年、優れた弟子たちが何百年に渡って、色んな考えを追加し時の政治などにも加わって、凡人には理解できないような複雑怪奇なものになってしまったんではなかろうか、と私は思うんです。そこは原点に戻って考えたらどうなんでしょう。今信仰に生きている皆さんには申し訳ないのですが、そんな無神教の凡人の暴論をお許し願いたいと思います。もちろん私は宗教を否定するものではありません。ただ神様にお参りするときは「感謝」の意を表すことにしております。

 

・自分を助けてくれる神様は私たち一人一人の中にいるんです。

私は若い頃に色んな宗教も学びました。そして神様とは各人の中にいる神様を集合化して抽象化したものではないかと気づいたのです。そうです、人間として生まれたときから神様は皆さん一人一人の中にいるんです。赤ん坊のときは皆さん「笑顔」で回りの人達を信じていたんと。それが生きている中で色んなプロセス・圧力やしがらみを経て、「人は信じられない」「周りとは戦わなければならい」と何重もの「エゴの鎧」をまとって生きているのではないでしょうか。富を蓄え地位を得、家族を守るために懸命に頑張ってやってきたんだ、それに何か文句があるのかと言いたいところですが、そんな皆さんも何か空しさを感じているのではないでしょうか。。この虚しさのままで人生を終わってはツマラナイですね。思い出して頂きたいと思います。自分は「神様の子」として生まれ、その心が満たされて初めて「幸せ」だ言うことです。

 

・自分の中の神様を通じて「全世界」「全宇宙」に繋がるために

お勧めしたいのは、原点に戻ろうと言うことなんです。私も最近やっとその考えに至って少しばかり「幸せ」を感じることが出来るようになりました。これまでの人生の色んなプロセスの違いでそれぞれ違う位置にはいますが、同じ仲間の人間である皆さんにもそれが出来ないワケがありません。何も特殊なことを言っているのではありません。同じ人間ですから、その気になれば誰にでも出来ることなんです。

「エゴの我」を捨て、本来の自分の「真我」を探そうと言うことなんです。私の経験では、そうすると現実世界が小さくなってなぜか世の中が広がってくるんです。大きな宇宙も視界に入ってきて一つ一つにこだわらなくなるんですね。

私のはまだまだ小さな宇宙かも知れませんが、そこから大宇宙空間に繋がっている感じもしてきます。これが人間が辿る道筋なのかと納得できるんですね。そんな境地に至ることが出来るんです。

そうですね。そんな境地になれば、なにも急ぐことはありません。一筋の道をゆっくりと確実に歩いて行けば良いのです。

これも言い古されてきた古い言葉ですが「泰然自若」の四字が頭に浮かびます。

私は正しい道を見つけた、慌てず急がず揺るがず行こう、今はそう考えているんです。

皆さんもそんな気持ちになることをお勧めします。エゴの鎧を脱ぎ捨てて、自分の目的を定めて皆さんと協力しながらその「目的」を追い続けていくんです。

 

 

書家・近藤朱鳳さんの書です。

 

 

⑤アーティストについて~エゴの姿の考察など

 

・アーティストとは

私の考えるアーティストとは画家・書家・音楽家・小説家・詩人・・・・作陶や美術品などの創作をする人々です。いずれも「美」を探し求め、一流と言われるまでには狭き門、高き壁を通りぬけて、長い長い道のりの到着を果たした人々でもあります。まあ自分自身はアーティストと言える身分ではありませんので、私が見たり聴いたりまた会ったりした人々の私の勝手な考察・観察・そしてその作品への感嘆ではありますが。世の中には素晴らしい人達がいるんです。

・アーティストはある意味で小さなエゴを脱却した人

そんな仕事はエゴの鎧を着ていては出来ません。エゴを起点にはしていても彼らは心の中により高くて広い、深いものを求めている「感性」がある、それ故に大きな広い世界をもっています。アートはある意味で自分自身との長い戦いではありますが、自分の殻に閉じこもっていては成功はおぼつかないものなんです。それを目指す皆さんの執念とか拘りには知って驚くべきことが多々あります。

・自分の高い目標を持っている

その人達が求めているのは素晴らしい作品・成果です。それは普通を超えた限りなく高いレベルの目標なんです。そんな目標を持って日々自分を高めているんですね。

・そのために懸命の努力をしている。安易な妥協はしない。

とにかくいずれにしても成果は物凄い努力の賜物です。並みの努力ではとてもたどり着けません。ですから基本的には他人を攻めたりはしない。そんなヒマ?はない安易な妥協は許されない渾身の作業なんです。「心の原石を磨く」ことに専念する。もちろん人には能力・感性の差がありますが、それを私たちが気にしなければアーティストの皆さんは私たちの範とすべき人々だと思います。

 

・スポ-ツ選手もアーティスト仲間

目標を定めて日々努力を積み重ねていると言う意味ではスポ-ツ選手なども同じかも知れません。スポ-ツ選手として活躍するためには「才能」だけではなく、日々の高い技術を目指してののたゆまぬ体の鍛錬と精神面での安定・強化が必要なようです。

そんな点では分野をアーティストに限らず、高み目指して日々努力を重ねている皆さんも同列においても良いと思われます。

力が足りずにそんな立派な姿にはなれなくても、その心の在り方には学ぶことが沢山あると思います。

 

エゴの形態

ここで私の考える、少し底辺のエゴの考察もしておきたいと思います。私がこれまでにイヤだなと思ったのは、友達にはなりたくないなと感じたのはこんなエゴなんです。

①あくまで自分の意見・考えを押し通そうとする乱暴な人。自分は正しいとして人の意見は聞こうとしない。

②何に対しても批判ばかりする人。じゃあどうしたら良いのかのか自分の対案を出さない。

③他人を攻撃ばかりする。人のことは考えない。もしかし人は敵だと思っているのかも知れない。

④些事に拘り不満ばかりいう人。ソンなところには参加したくないと自分のエリアに引きこもるのも困ったことです。

⑤あまり建設的ではない。破壊が目的のことも?。

⑥良い人を演じる。自分の評価を持ち上げるために「善」を装う。一見素晴らしい姿なんですが、ある種の演技・人の目を欺く「偽善者」なんです。要注意ですね。

そんな人同士で集まってグル-プを作る人達もいます。仲間同士で気が合うのかも知れませんが、世界全体を目指してはいない感じがします。他のグル-プには敵対的なグル-プもあるようです。

それはそれぞれに多様な姿をもって世の中には驚くほど沢山存在します。ここでは目につく一例をあげてみただけだとご理解ください。まあ、いずれも成長のプロセスの現在の到達段階なんですが、これでは人に嫌われてしまいかねません。せっかくの人生「小回り」しないで「大回り」して充実したものにして行こうではありませんか。

 

ア-ティストやスポ-ツマンの皆さんなど、自分の目的に向かってまっしぐらに進もうとしている人たちを見習って、私たちも少しでも直して行きましょう。自分の心の「神様・原石」を思いだして「磨く」ことです。そしてそれは「考えること」次第で誰にでも出来ることなんです。元々は皆「神の子」としてこの世に生を受けたのですから。そうです、人は丁寧に時間をかけて磨けば皆が「光輝く」存在なんです。それを思い出して諦めず、せっかくの「生」を無駄にしないようにしましょう。

 

 

 

 

写真は若冲の作品です。

 

 

⑥AIと人間

 

・AIは人間の知識の最前線

最近のAIの進歩には驚くものがあります。世界中のコンピュ-タ-を繋いでその各部の最先端を見せてくれます。あらゆる部門の現在を見せてくれるのです。人間の脳にも複雑な仕組みがあってその神経回路を通じてあれこれと考え、記憶し、体の各部を動かし、行動し、創造するなどの大型コンピュタ-数千台に劣らない素晴らしい力がありますが、それでも限界があってすべての分野の深い知識をもつことは出来ません。一台のパソコンかスマホがあればそれが出来るのは近代の世界中に張り巡らされた、ネットワ-ク網の成果であります。世の中はとんでもない方向に向かって走り始めた感があります。これからも発展し人間の脳にも並ぶ大きな力を持って人間の世界を変えていくのに役立つとおもわれます。

 

・AIは使うものであって、考える・創造するものではありません

しかしAIにも限界があることは知っておかねばなりません。それは各分野の全ての最先端の知識を持っていますが、人間の脳の思考力には及ばないものなんです。広く知ることは大切ですが、それは知っているという「偏差値」の一部に過ぎないのです。その偏差値で人間の能力を判定することは、これまでの誤り・・・とされるかも知れません。最近の会社の入社試験がネットの志願票審査をヤメル傾向があるのはその一例化も知れません。皆AIなどを使った「模範解答」ばかりで違いが分からない、というのがその原因のようです。もちろんAIには大きな可能性があります。例えば選挙の候補者の主張の表示や投票のネット化などです。そうすればお金まみれの選挙戦などが変わるかも知れません。何れにしてもその限界は理解しておくべきなんでしょう。

 

・自分で考えましょう

そうです。最後に人間に残されるのはその考える力「創造性」の分野になっていくんです。脳の機能は左脳の知識領域と右脳の行動領域などと、そのまた全体の思考を仕切る前頭葉の部分と、その大量の記憶を蓄え呼び出す部分、そして体を維持するその他の機能部分などからできており、実によく出来ています。

私は人間にできてコンピュ--タ-に出きないのは「抽象力」を持てることだと考えています。人間には物事の姿を漠然と大きく捉え、それを頭の中の回路で再現・再構成する力があるんですね。特に画家などはその優れた才能を絵筆で表わす力を持っていると思います。それはそれぞれの分野の進行形、最先端の発掘・開発現場を示すものであってまだコンピュ-タ-には収められていない部分であります。そしてその力は程度の差はあっても人間誰にでも持っていると思います。それは「エゴ」の闇の中では見えないだけなんです。そうです、その抽象力を駆使した結果である「創造性」が大切なんです。漠然とした抽象を形にするが「創造力」なんですね。これからはコンピュ-タ-と人間の戦いになるかも知れません。知識の量に勝るコンピュ-タ-に勝って生き残るのは人間の新しいものを創り出す、切り開く創造力なんですね。そう考えると今や「エゴのプロセスの闇」に甘んじていてはなりません。人間として」目を大きく開いて世界を広げ、新しい考えの発掘現場で皆でこれからの共通の目標に向かって努力することなんです。

 

私は今AIを研究してそれに対抗する「人間の力」人間にしか出来ない「力」を生かしていくかについて考えています。皆さんも考えて行きましょう。ただ新しい時代に入っていくには、前段階としてまず「エゴの闇」「古い自分の殻・鎧」からの脱出が急がれているんです。広い世界からの情報収集力を高めることです。それが今の私の考えであります。

それを理解して新たな行動に移っていくことです。お互いに頑張ろうではありませんか。

 

 

写真は北海道・美瑛です。

 

⑦抽象化から創造力への手順~私のやり方~

 

・父の教え

我が家は千年以上続くいわゆる「武家」の家系なんです。そんな父が中学(昔の高校)を卒業してなろうとしたしたのは何と「歌手」だったんです。当然武家である祖父に「河原乞食はダメだ」と猛反対されて諦めたんただそうですが、ある意味で趣味人・感性豊かな人だったようです。そんな祖父が若死にし、父は祖母や弟妹の生活を支えるために大学を辞めて樺太に渡り大変な苦労をしたそうなんです。ただ確かにそんな父は歌手を目指しただけに歌は上手でした。私にはそんな歌うDNAは伝わっていませんが、音楽センス・耳の良さ・だけは受け継いでいるようです。

そんな父が簡易カメラ(昔はバカチョン・・・とか)で撮った写真がNHKの地方局で「優秀賞」になって、ご褒美にプロのカメラマンが父の「肖像写真」の撮影にやって来たんです。その写真は今でも実家に残っています。驚いた私はその秘訣?なるものを聞いてみました。

「お前な、花をじっと見ていると、私を写してください」と言う声が聞こえるだろう、それをそのまま画面に写すんだよ・・・」

それが父の答えだったんです。

なるほど、そうなんですね。私は考えました。自分なりの解釈?では、あるものをジット見つめていると、頭が空っぽになってその本質みたいなものが頭にフワっと浮かぶんです。それを私は「美の抽象化」と考えました。すると次にそれをどう表現するかを考えます。そして「写真」を撮る、浮かんだイメ-ジを大切に、何を中心にして・なにを背景として・・そんなことをやってみます。

幸にそんな私の写真には何か違いがあるらしく?、なぜか人気があるんです。もちろんプロの写真家と比べれば大したものではありませんが。私はそれが「創造力」の力だと考えるようになりました。

そうやって色んな美術品などを見ると、その作者の感じた「抽象」と「創造」のすさまじい努力の跡を感じるんです。まあ、おおざっぱではありますが、多分そんな事だろうと感じているところなんです。

 

・何にでも使える

それはどんなことにも使えるようなんです。ある問題点について考えるときに、どんなことでも頭の中でボンヤリと「抽象化」する・・何でもイイですからその本質みたいなモノを捉えるんです。するとそれは頭の中でイメ-ジとして次第に固まってきます。

そして「どうしたら良いか」が自然に頭に浮かんでくるんですね。

そこからが「創造」そして「行動」なんです。その本質をどう考え、どう解決すれば良いかがこれも「イ-ジ」の形で表れてくるんです。それを文章化・具体化に移すのが「創造」なんですね。もちろんそれには周りの環境、人々の動向、その困難さなども想定しなければなりません。そんな簡単なものではありませんね。特にそれぞれの人生のプロセスを経て、今も様々な形で悩んでいる人達の心の中は容易にその「抽象化」はさせてはくれません。

変な話ですがノーベル賞受賞者の皆さんの「研究に行き詰って苦しんでいるある日、突然ヒラメキがやって来て」と言う説明もそんなプロセスを表現しているのではないかと想像を逞しくしています。一応それなりに懸命に努力はしてきましたが。そんな高度なことが出来るほど私には研究能力がありませんが、手順だけは確かなんです。

 

・皆さんもやってみてください。」頭をボンヤリ、ゆっくりとその周辺を探り回るんですね。この時は「エゴ」の主張は忘れてください。もちろん何でもできますから、場合によっては「自分のエゴ」がテ-マになるかも知れません。それを頭の中で「抽象化」してその「本質」をイメ-ジ化するんですね。そして「どうすればイイのか」考えて「行動」に移す。時間はかかるかも知れませんが。きっと私と同じような手順を踏んで・そこに自分の神様も加わって・・新しい自分のイメ-ジが浮かんできて・・・・そして行動意欲が湧いてきますよ。皆さんも是非やってみてください。

 

 

 

 

写真は阿蘇山の米塚です。

 

 

⑧精神病研究について

 

これまで私が個人的に研究してきたいわゆる「精神病」の内容です。私自身はその経験はありませんが、出会った色んな人々の中には少数ですがそんな人もいました。そんな経験を踏まえて書いてみたいと思います、

さてエゴも困りますが、病気となるとさらに厄介です。こんな事例はヒドクなると病院で治療が必要なケースがありますので、皆さんの注意を喚起するために私なりにまとめてみました。ある著名な人物によると人は病気であるかないかに関わらずそのどれかに分けられるそうですので、ある意味自分自身の問題として受け止めて頂いても良いかも知れません。

 

・統合失調症【分裂病】

症状としては「幻想・妄想」があって「現実」にあるものと混同しやすいようです。

意欲が低下して感情が出にくくなる、また一部には認知症があるとか。

生長時の急激な環境変化や現実社会への適応力の不足などが、その起因と考えられています。自分の中で受け止めて処理できなかったんでしょうね。つまりは本来の自分自身の成長がある意味で阻害されて、歪みが大きくなっていると言う症状のようです。

一応心理学なども学んだ私の数少ない経験によれば、一時的に「妄想」に駆られて自分の混乱状態を「自分の主張」を「正義」と信じて「狂気」とも思える行動に出る人もありました。小説家などにはそんな人が結構いる感じでした。しかしそれを克服して文学に芸術に昇華した感がありますね。

いずれにしても、そんな症状が出たときには精神の安定のための「加療」も必要なようです。

 

・うつ病

やる気が出ない。すべてに否定的になって社会との折り合い合いがつかない。ストレスなどで脳が上手く働かなくなるようです。

脳を活性化する脳内物質のド-パミン、アドレナリン等の不足があるとも言われています。自分の内側に籠って社会との関係を避けようとする面があるあるようです。

これも私の数少ない経験によれば胃腸などの体の不調もあって、気分が晴れず心配が先行して活動的にはなれない人がいました。「引きこもり」などもその一症状かとも思われます。「元気だせ」などと言ってもそれが負担になり却って逆効果になるところがあります。これもヒドクなると脳内物質の施薬などで治療が必要なようです。

 

・ADHD

注意欠如・多動性&衝動性とも言われています。症状として集中力がなく落ち着きがないと言われて言われています。学校など授業中にアレコレと騒いで授業についていけないなどで発見されることが多いようです。ド-パミン、アドレナリン等の低下が原因とも言われています。

これも私の数少ない経験によれば次々と色んな事に手を出して、どれもまとまらないと言う感じでしょうか。周囲にすればアレコレと引っ掻き回されて大変になることもあるようです。なかなか厄介な病気のようです。手順を踏んで一つ一つと、自分自身や周囲が導くことが必要と思われます。

 

・てんかん

脳の異常・行動で発作が起きるようです。それが突然現れて周囲がビックリします。神経回路の突然の断裂?が原因をされています。構造的なものなので治療もなかなか困難だとも思われます。情緒不安定の人に起きることがあるようですが、脳と体の関係は複雑でまだ解明されないことも多くあるようで、今後の発展・解明が望まれます。

 

 

・前にも述べましたが、ある著名な人物によると人は実際に「心の病気」であるかないかに関わらずそのどれかの「群」分けられるそうですので、潜在的には全ての人にその要因はあるようです。私自身は「ADHD」と「統合失調」の「群」に入るのかも知れません。・・・これは時節⑨で書きたいと思います。・・そうですから、これもある意味自分自身の問題として受け止めて頂いても良いかも知れません。「病気」なら発見して「治療」そうでなければ自分の中にあるその「要因」を探り出して知ることなんでしょうね。最近の神経科は明るい雰囲気が多く、昔と比べて治療法も随分と進歩したようです。病状によっては優れた心理カウンセラ-さんもいます。自分でもオカシイなと感じたら受診をお勧めします。

ちょっと雰囲気が重くなりました。ただ心の病気の多くは本当の自我に目覚め、目標を持って生きることで軽快化するようです。

さあ「創造力」の発揮です。皆さん頑張りましょう。

 

 

写真は豊後竹田で発見された長崎の施療院のサンチャゴの鐘です。

 

 

⑨私自身の「エゴ」との戦い

 

・小学校卒業式での先生の「エゴイスト」とのお叱り

「お前はエゴイストだ。反省しなさい」の先生の一言で私は卒業式の朝、同級生の皆さんに作文を読み上げて謝ることになりました。級長であり小学校の児童会の会長だった私が正直そんなことを言われたのは初めてのことで、以来私は「エゴ」なるものと取っ組み合うことになったのです。

 

・立派な少年を目指した中学時代の演技

中学生になり私は「立派な子供」になろうと努力しました。「品行方正、学力優秀」で通信簿はオール「5」オ-ル[A」になったんです。あらゆることをイケナイ事、ヨイ事に区別して、イケナイ事は「しない」、ヨイことは「すすんでヤル」ということでいつもクラスの級長さんだったのです。まあ、まことに模範的な人物【を演じた】だったんです。

 

・自分の「本音」への復帰

高校生になって私は考えたんです。自分は本当に模範的な人なのか、それを演じているだけなのか。そして気がついたんです。いつも「人の目」を意識して「良く映る」ように演技している自分にです。「これは本物じゃあない。本当の自分はそうじゃあない」と考えた私は演技はヤメようと思ったんです。立派な「偽善者」を演じるのはもうヤメようと決心したのです。

ついでに一番を争うを受験勉強なるものにも別れをつげて?あんまり勉強もしなくなりました。

・世のなか「エゴ」だらけの現実・・・戦いの始まり

しかし普通の少年に戻った私はまた気づいたのです。世の中実にエゴに満ちているな、ってことをです。皆自分を強く見せようと「意地の張り合い」です。争いごとは絶えず、世の中大変なことになっている。もしかしたら「人間のエゴこそが社会の・悪の根源・じゃあないだろうか?」と考えるようになったんです。

「自分はエゴイストにだけはなりたくないな」そう決心した記憶があります。

そのためには「自分を捨てるんだ」ある意味で「自己否定」で、これはなかなか難しいことでしたが、そう考えてそんな努力をしたんですね。

 

・大学時代・・・音楽を愛し小説を読む

そして福岡の大学の四年間、最初の二年間は「勉強」に勤いそしみました。高校時代には触れなかった本当の「学問」に出会ったんです。しかし最後の二年間は、いわゆる「学園紛争」の時代、大学は封鎖され授業はなく、沢山の自由な時間がありました。私は吹奏楽団のラッパ吹きや、読書にいそしみました。西欧などの音楽世界の奥深さをしり、小説などの世界の深さにも感動しました。特に欧米やロシアの文学は私にとって貴重でした。人間の心の世界のジャングルの深さにサマザマな知識を得たんです。ドストエフスキ-【狂気と正気のハザマで揺れ動く心を丁寧に描いた人?】などが当時の愛読書です。しかし大学で研究者なるという私の計画は兄のうつ病の入退院でダメになり、私は家計のために会社員としての生活を送ることになりました。

 

・社会生活で・・・従業員福祉にイソしむ。

元々家計の支えとしての会社員、私は社長とかの地位・昇進を望んではいませんでした。そんな私の評価は「福利厚生」向き、社員のいわゆる傍流でした。財形貯蓄と住宅融資制度の、制度設計・組合との協定・システムで運営実務などをこれは一人だけで作り上げ数万人の社員に「持家」を実現したのは会社員としての私のたった一つの誇るべき実績です。会社では評価はされなくても、それなりに力はあったんですね。

他には「経理」や「人事労務」「健康体力つくり」などもやりました。そんな私が「利益優先」「エゴ社会」の株式会社から高い評価を受けるハズもなく、結構苦労した30数年の会社員生活でした。

その会社でサマザマな人間関係を学びました。会社というのは沢山の「エゴ」が色んな形でぶつかり合う場所なんです。特に幹部になるには出世欲という「強力なエゴ」と「周りからの信望」が必要なんですね。これは皆さんご存じの世界ですから、これ以上詳しくは説明しませんが。

 

・そして「今」・・・心理学とエゴの問題

会社をヤメて25年、私は小説家になろうとパソコンに向かって懸命の努力をしましたが、これは「文学的才能」なるものが足りなくて断念した次第です。会社生活ですっかりサビつい芸術家に必要な細かい「感性」なるもの、もダメだった原因なのかも知れません。仕方がありませんね。

 

それと合わせて努力したのが「心理学」の勉強です。

これは同じ問題意識を持つ家内との共同研究でした。家内も色んな悩みを抱えていたようです。

・放送大学、講演会

最初は家内と一緒に放送大学で心理学の基礎を学びました。私は隠れ学生でテレビやラジオでほぼすべての抗議を聴講しただけでしたが。一番に思い出すのは京都大学の河合隼雄先生です。「はひふへほ」さ、ハ-、ヒエ-、フーン、ヘエ、ホ-とどんな相談にも答えるんだ、と言う教えが耳に残っています。そんなことで沢山の先生方に心理学の基礎を学ばせていただきました。世界が広がったことに感謝しています。

・ぽこほこ・手塚郁恵先生との出会い

手塚先生は「マインドフルネス」をアメリカから紹介した第一人者です。著作も沢山あります。日本の禅をベ-スに欧米で広がった瞑想方法です。目を閉じて辺りの気配を感じながら自分の心の中をさまよう心理療法なんです。今もアメリカでは最先端の研究開発者などで新しいアイディアの思考法として流行っているそうです。

先生のセラピ-教室にも参加しました。「心を病んでいる」人たちへの皆で行うセラピ-の教室でした。そこで色んな人との出会いがありました。今でも続いている友人もいます。ここで皆さんが抱えている問題の複雑さやセラピ-の難しさを実感しました。多くは幼い頃の家庭環境に起因するもののようでしたが。

・香咲先生との出会い

香咲やす子先生はNYに住んでい時々日本に帰国する、アメリカで生まれた「奇跡のコース」の女性セラピストです。家内がスマホなどで毎週聴講している内容を一緒に聞いています。

ここで私は私の考えと全く同じ形の「思考」を見つけたんです。人は皆エゴの森をさまよっている、あるいはもてあそんで楽しん?でいる。そこから脱出しなければ。それには「エゴ」である自分を自覚する、自分の中の聖なるもの・神様【宗教で言う神様や仏様ではありません。先生は~ホーリ-・スピリッツ~と呼んでいます】を思い出す、自分の内側にある聖なるものが自分のなすべき事を示してくれる。・・・・などなど一つ一つが私の考えと一致しているんです。

共に皆で手を携え、新しい世界につくす、人に教えようとしてはいけない、自分がそうなれば必ず人にも伝わる、そしてそれが自分の心の安定につながる、そんな私と同じ考えに出会いました。そんな道を切り開いている先生は、まったく素晴らしい人なんです。もちろん先生は生涯をかけてそんな結論に達したので、私などとは深さが全然違いますが。まだまだ学ぶことが沢山あります。

 

前にも述べましたが、若いころ「自己否定」して「エゴ」を捨てたハズの自分でしたが、恥ずかしながらその後の現実生活で心の内奥に「自分を正義」とする「エゴ」が潜んでいること、先生と出会ってまた初めて気づいたんですね。

 

そんなことで78才にして初めて同じ視点に立つ可咲先生出会って、私は自分で作ってきた私の「エゴ」との戦いに、私なりに一応の結論がでたんです。それが、「人を批判しては戦ってはイケナイ・皆仲間なんだ」など私の考えの一部を修正してこれまで縷々述べてきたことなんです。エゴから脱し新しい自分を確立して、その目標を「自分の中の神様」に定めることなんですね。急がず焦らず、一筋の道をユックリと進むんです。

これが皆さんにお勧めしたい一番のテーマなんです。「エゴ」の森から脱出して新しい「本当の自分」を作っていこうではありませかんか。

 

そうすれば自然に自分の「度量」が高まります。より広く多くの情報を集め、どんな人にも親切にして、より高い位置から総合的な判断を下す、そして自分の行動に周りの人々の尊敬【もちろん、みずから求めるのではなく】を集められるように自分が変わって行くんです。

私もそんな風になりたいと思います。皆さんもそれを目指そうではありませんか。今はともかくとして未来はあなたのもの、なんです。

 

 

写真は故郷の南画家、画聖と呼ばれる田能村竹田の像です。

 

 

⑩エゴとホ-リ-・スピリッツ

 ~人間の本当の大きさ【度量】とは~

 

ここから先は私なりに考えた、今は私の「推論」です。将来は「論」になれば、です。

 

・小さい「自分」と世界の広さを知る。

人は小さい自分を自覚して、そして小さな自分の中にある「ホーリ-スピリッツ」に従って生きると自分の世界が大きく広がるんですね。そのためには一度「自己否定」、これまでの自分を「捨てる」勇気と、その後の「再生」のために大きな「努力」が必要なようです。自分自身は実は「一介の個人」に過ぎない小さな存在であり、しかしてその「心」は無限の宇宙にも広がる大きな力・可能性に繋がっているんです。その根本は「愛」あらゆる事、すべての人への無償の愛・世のため・人なため・そして自分自身なためだと思います。そしてそれは私にも周りの人たちにも同じように「ある」ものなのです。

 

・自分を大きく見せようとする「エゴ」

しかるにそんな大きな自分を創り出すのを邪魔するものがあります。それが「エゴ」なんです。

それはこれまでの自分を作り上げてきた「自負」の形をとることが多いようです。色んな「障害」を乗りこえて今の自分を作って来たんだ、という「自信」みたいなもののようです。「私は出来る、私の判断に間違いはない」と心の底では思っているんですね。特に自分は「高い」位置にいると誤認することも多いようです。世の中を比較したり・格付したり・ときには差別や批判、攻撃したり・・・世の中はツマランととに溢れている、自分は「エライ」と思いがちなんです。それに地位や名声があればなお更です。

どうも人間には「小さく自己完結して、自分だけの世界を持つ」という傾向があるようです。それが「エゴ」の正体かも知れません。正直に言えば私にもそんなモノがあります。「自分は選ばれた人だ。私は人の上に立つ人間なんだ」という自己完結するエゴの力は実に強力なんです。そして別の意味で心地よくさえあります。

しかし私は気づいたんです。自分は小さい、だからもうこれ以上は伸びないんだって。しかしもうこれでストップではたまりません。何とかしなければ、ここママでは終われません。

それんな気持ちは皆さんにも同じだとおもいます。もしもうそれに気づいて既に走り出しているのでなければ、です。

小さく自分の周りに「自己完結」して自分が伸びるのを邪魔して誤った!自信を持たせている、自分の中の「エゴ」の存在には気をつけましょう。

それが「度量」と言われるモノかも知れません。「エゴ」を捨てて、まだ最初は稚拙でも良いから「裸」になって、もっともっと大きな存在になろうではありませんか。人によってその大きさと目指すものはそれぞれなんでしょうが。それが私の今の「結論」であり、将来への私の「推論」であります。

ちなみに花の都パリ・フランスでは「エレガント」な高年になることが一番価値があるとされているようです。自分をシッカリと持って、その経験を積み重ねている人がベストなんだそうです。世の中の表層を見て短絡的な「怒り」発する自分から離れて、日本人である私たちもそんな素敵な年を取った「自分」を目指そうではありませんか。そのためにはアートの項で述べたような、一旦「現実」から離れて頭の中での「抽象化・現実のイメ-ジの再合成」も必要な気がします。

 

 

写真は鎌倉山の桜並木です。

 

⑪どうしたら「ホーリ-スピリッツ」を手に入れることがで出来るか?。

 

一枚の「画」を描くプロセスを念頭に、私なりの方法を考えてみました。これをお試しいただいても結構です。

 

・ある情景の中にいます。色んな草花や木々があります。その中に一段と輝く「一輪の花」がありました。

さてその美しさは「何だろうか」とじっと見つめて頭の中で思いを巡らします。するとある「イメ-ジ」が頭のどこかに湧いて

きます、それが「抽象化」です。自分の「感性」の中で自然に焦点が決まってくるんです。

・その一輪の花の美しさを皆さんにどう伝えられたら・・・と次に考えると思います。。そこが「ホ-リ-スピリッツ」との出会いなんです。作品は周りの人のためであって、自分のためにだけではないいんです。

・次にその「具象化」を考えます。何を中心に、何を背景に、全体の「構図」を描いて行くことになります。

後は一心不乱に手を動かします。「何を皆さんに伝えたいのか」を画面に実際に表すプロセスです。そして大変な苦闘の中で画は完成するんです。そしてイメ-ジどうりに描き終えて一連の作業は終わります。出来栄えはともかく、そのプロセスでも「ホーリ-スピリッツ」は助けてくれます。それは元々自分の中にあるからなんです。

・さて完成された画は人々の目にさらされます。皆さんに自分の捕らえたイメ-ジがどう評価されるか、ある意味で勝負ですね。

ま、勝負には敗れることもあります。まだまだ精進・努力が必要だと認める場合もあるんですね。

 

これは自分の周りの全てのことに言えると思うんです。仕事、家庭環境、趣味、・・・テーマは違っても皆、同じなんですね。

そしてそのプロセスで表れる「ホーリ-スピリッツ」と出会いが大切なんです。それを繰り返している内に「ホーリ-スピリッツ」は自分にとって不可欠のものになります。世界はどんどん広がり、そして宇宙へと繋がっていくんです。

どうも生半跏な学問・知識、自分の誇り・エゴ・はこんな情況下ではあまり生きないようです。しがみつかないで裸になる、いわゆる虚心になることがホ-リ-スピリッツに近ずく道のようです。

写真は彼岸花です。秋の初めにアチコチで花開きます。